私の履歴書 浅沼稲次郎
このイラストは、昭和35年に発生した政治テロの瞬間を描いたものです。
場所は、日比谷公会堂での党首演説会の壇上。
ナイフを光らせているのは、山口ニ矢という十七歳の右翼少年。
この刃の犠牲となり、非業の死を遂げたのは、当時の社会党委員長である浅沼稲次郎。
本書は、この事件から遡ること4年前に、日本経済新聞の文化面に掲載された本人による「履歴書風の自伝」です。
浅沼稲次郎は、衆参離合を繰り返していた戦前のプロレタリアートたちによる無産政党の中で、持ち前の馬力と実行力、そしてしゃがれ声のパワフルな演説で頭角を表し、やがて戦後の日本社会党の結党に尽力した人です。
「人間機関車」「演説百姓」などの異名を取り、その豪放磊落で飾らない人柄は、当時の社会党内だけではなく、多くの人に「ヌマさん」と呼ばれ親しまれていました。
日本国憲法発布後、最初に政権を握った片山哲による社会保守連立政権においては、衆議院議員運営委員長も務めています。
さて、実はこの浅沼稲次郎の出身地が伊豆七島の三宅島です。
実は、我が母の故郷も三宅島。
その縁あって、僕も若い頃には何度も、この島を訪れています。
もちろんこの母の郷土の名士の名前も、三宅島に通ううちに学習しました。
そんなわけで、今回本作を読んでみようと思い立ったわけですが、いやいや読んでみてビックリしました。
なんと、浅沼氏が語る出生地の思い出の項で、母の父親(つまり僕から見れば祖父)の名前が登場しているではありませんか。
ちょっとその部分を紹介します。
「学校友だちと泳ぎに行った帰りに、『あの樋を渡れるかい』とけしかけられたので歩いて渡った。一緒にいた従兄の井口知一君が、最初に渡ったものだから、私も負けん気になって渡り、ご愛嬌にも途中でしゃがんで、樋の中にあった小石を拾って、谷間に投げ込んで見せた」
浅沼稲次郎のやんちゃな子供時代の微笑ましい光景ですが、ここに登場する「従兄の井口知一君」こそ、我が祖父その人なんですね。
これはたまげました。母の旧姓はもちろん井口。ここには、「知一」とありますが、祖父の実名は「智一」でしたね。
おそらく、これは浅沼氏の記憶違いだと思われます。
母の実家も、もちろん、浅沼稲次郎の銅像が建てられた児童公園のある神着ですので、間違いないはずです。
祖父は、僕が毎夏に三宅島に訪れていた大学生の頃は、まだ存命で、実家の離れで隠居生活を送っていました。
三宅島の生き字引のような人でしたので、よくその隠居に遊びに行っては、囲炉裏を囲んで色々な話を聞かせてもらっていました。
その当時は、勉強不足で、浅沼稲次郎の名前はまだ知りませんでしたが、この祖父が「ヌマさん」ではなく、「イネさん」と言っていた人物が、実は昭和史にその名を残す人物であったことは、その後で知ることになります。
まさか、古典の名著が並ぶ「青空文庫」を読んでいて、自分の祖父の名前が登場するとは思いませんでした。
あの当時、祖父が囲炉裏の横で「桔梗」という刻みタバコを煙管に詰めて吸っている姿が懐かしく思い出されます。
浅沼稲次郎を刺殺した少年は、Wiki によれば、東京少年鑑別所東寮2階2号室で、「天皇陛下万歳。七生報国。」という遺書を残して、首吊り自殺を遂げています。
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