灰とダイヤモンド
まだまだ、見逃している、映画史上の傑作はありますね。
本作もそんな映画の一本。
1958年のポーランド作品で、監督はアンジェイ・ワイダ。
映画史上では、すでに確固たる地位を築いている作品ですので、見てはいなくても、豆知識くらいはすでにもっている映画です。
この映画を見た友人には、こう言われていたのを思い出しました。
「絶対一回じゃわからないと思う。この当時のポーランドのことを、ちょっとはかじってから見た方がいい。」
僕が映画を見倒していた学生時代は、関東一円どこかの映画館では、必ずかかっていたような名作でしたので、(たいていは、前年に作られた「地下水道」と二本立て)見る機会は何度もありましたが、スルーしていたのは、それが面倒くさいという思いがあったのでしょう。
アンジェイ・ワイダという監督は、映画人生そのもので、ポーランドいう国を背負っているような人でした。
この人の映画を見る時には、やはりポーランドという国の歩んできた歴史抜きには語れません。
ポーランドという国ほど、ヨーロッパ諸国の中で、激動の歴史を刻んできた国はないですね。
中世の頃の、ポーランドは、スラブ系民族を中心にしたそこそこの大国でした。
しかし、ポーランド=リトアニア連合王国の頃に、「選挙王政」というものを始めたころが、どうやらケチのつきはじめ。
今の目から見れば画期的とも思えますが、絶対王政が主流だった当時のヨーロッパでは、この体制はかなり不安定なものでした。
ここに、隣国たちが目をつけ、内政干渉が横行し、ポーランドは次第に他国の食い物にされていきます。
ちょうどこれが、ロシアやプロイセンの勃興期に当たり、オーストリアも加わり、ポーランドの領土は段階を経て、次第に分割されていきます。
歴史の中で引き裂かれてきたポーランドは、ヨーロッパの地図上から消滅させられていた時期もあります。
そして、独立していた時期でさえ、ドイツやロシアの外圧を受けまくるわけです。
本作は、1945年5月8日から、翌9日までのあしかけ二日間の物語。
この日が何の日かというと、ドイツが連合国に無条件降伏をした日です。
もちろん、街のバーでは、ワルシャワ市民たちによる祝杯が挙げられますが、それでも彼らの目はどこかうつろ。
ドイツ軍からは解放されたというのに、どこかスカッと弾けてはいません。
彼らの誰もが知っているわけです。この後には、進駐してくるロシアによる新たな支配が始まることを。
映画の中で、度々話題に上がるのが「ワルシャワ蜂起」。
これが起こったのが、この前年の1944年8月。
ドイツ軍の劣勢に乗じて、モスクワからは、仕切りにワルシャワの市民の蜂起が煽られます。
ドイツの降伏は間近に迫っていたので、ワルシャワ市民は、これに呼応して一斉蜂起します。
ソ連軍と共に、ドイツ軍を駆逐して、ワルシャワを取り戻そうと武器をとります。
しかし、この市民たちを扇動していたのが、ロンドン亡命政府派だと知るや、ソ連軍は進軍を中止。ワルシャワ市民を見捨てます。
これにより、市民はドイツ軍の徹底的な蹂躙にあい、多数の犠牲者を出すことになります。
この記憶がまだ新しいワルシャワ市民は、ドイツの支配からは解放されたとしても、その先で待っているソビエトの統治には、何も期待していません。
その複雑な心情が、映画にはよく表現されていました。
みんなどこか、アンニュイなんですね。
映画の主人公のマチェクは、戦時下におけるロンドン亡命政権のテロリストです。
彼が命を狙うのは、ポーランド労働者党県委員会書記のステファン・シチューカ。
つまり、同じポーランド人なんですね。
このあたりが、隣国に振り回されて、混乱しているポーランドの悲劇です。
さて、この映画を見るに当たって、よく覚えておかなければいけないことは、本作が作られた当時のポーランドでは、ポーランド労働者統一党が体制側であったということ。
つまり、この時期に作られる映画作品は、すべて体制側の検閲を経るということです。
アンジェイ・ワイダは、父親をカティンの森で、ロシア側に虐殺されているような人ですから、コテコテの反体制派。
その彼が、体制を批判する映画をまともに作ったところで、当時のポーランドで公開されるはずがありません。
そこで、彼は考えます。
どうすれば、検閲の目を胡麻化しつつ、自分の主張を映画の中に込められるか。
本作までの、ワイダ監督の3本の作品は、「抵抗三部作」と評価されていますが、彼の本当の意味での、「抵抗」とは、まさにそれでした。
テロリストのマチェクを演じだズピグニエフ・チブルスキーは、後に「ポーランドのジェームズ・ディーン」とも呼ばれ人気スターになりましたが、反体制の彼をヒーローにしてしまっては、労働者党の反発を買うのは必至。
そこで、ワイダ監督は、このマチェックに、ラスト・シーンで、広大なゴミ捨て場所でのみじめな犬死にを用意しました。
これを見た労働者党の幹部たちは、拍手喝さいでこの映画の上映を許可したといいます。
マチェックが命を狙う県委員会書記のシチューカも、本作では決して、ただの「ワルモノ」としては描いていません。
息子が反体制派の兵士になり、苦悩する父親像を人間的に描いていたりします。
印象的だったのは、シチューカが、マチェックの銃で暗殺されるシーンです。
彼は、この暗殺者の中に、自分の息子の姿を見て、銃で撃たれながらも、フラフラとマチェックに歩み寄り、彼を抱きしめて絶命します。
その瞬間に、背後の夜空に撃ちあがる、ドイツの幸福を祝う花火。
実際、本作の原作においては、このシチューカの方が、主人公になっているそうです。
印象的なシーンといえば、もう一つありました。
マチェックと恋におちたクリスティーナが、教会の廃墟で語り合うシーン。
その背後で、逆さまになったまま吊るされているキリストの像。
この像の前で、マチェックはクリスティーナにこういいます。
「俺は、生き方を変えたいんだ!」
物言わぬ逆さまのキリストは、静かにその言葉を聞いています。
これも非常に暗示的。
二人の前をゆっくり歩いていく白い馬。
バーのカウンターに、ろうそくの灯をともして、名前を呼ぶシーン。
とにかく、一見するとなんことだか直ちにはわからないシーンが、本作には数々出てきます。
一度見ただけでは「何かありそうだ」くらいのことしかわかりませんが、これこそがアンジェイ・ワイダ監督が本作に仕掛けたトリックです。
それはまるで、体制側の歪んだ目に、映画表現の中にオブラードされたこちらの本意なんて見抜けるわけがないと挑発しているようにも思えます。
考えてみれば、この状況下で、「縛られながら」表現を工夫した映画だったからこそ、本作は、映画史に残る傑作になったのだといえるかもしれません。
マチェクとクリスチーナが雨宿りのために飛び込んだ教会の墓碑名に、本作のタイトルとなった詩が刻まれています。
「松明のごとくわれの身より火花の飛び散るとき
われ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるを
もてるものは失わるべきさだめにあるを
残るはただ灰と、嵐のごとく深淵におちゆく混迷のみなるを
永遠の勝利の暁に、灰の底深く
燦然たるダイヤモンドの残らんことを」
「街を焼き払い、灰に変えるような戦争を経験しても、その灰の中からダイヤモンドを見つけられれば・・」
普通に解釈すれば、そんなところでしょうか。
ちなみに、灰もダイヤモンドも、主成分となるのは炭素です。
今では、人間の遺灰をダイヤモンドに加工する技術もあるそうです。
こんなことを知ると、このタイトルには、アンジェイ・ワイダ監督も意識しなかった「深読み」が、またひとつ加わりそうです。
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