日本橋 泉鏡花
いやあ、難儀しました。
どうしても、ビジュアルのイメージが掴めずに、不明な単語を一つずつ検索していたのですが、埒があかないので、本書オリジナル版装丁の小村雪岱画伯の作品集などにも、寄り道したり、YouTubeにある市川崑監督の映画や(溝口健二版はフィルム現存せず)、坂東玉三郎の舞台の予告編を見たりして、イメージ補填をして、なんとか読み終わりました。
物語は、一人の男をめぐる、日本橋花柳界を舞台にした芸妓お孝と清葉の、女の意地をかけた争奪戦と云ったところでしょうか。
時間軸が、物語のあちこちで前後していくので、ついていくのがかなりしんどい展開なのですが、文章が流麗でロマンティック、そしてリリシズムに溢れているので、挿絵のない「青空文庫」の活字だけを追ってはいるはずが、何か一服の日本画を見せられているような不思議な気分にさせられました。
後に、泉鏡花自身の筆により舞台用の戯曲にもなっている作品ですので、科白が多い点は救われました。
そのせいか、文章の流れも、体言止めが多用されていて、とてもリズミカル。
「さだまさし」が、喜んで参考にしそうなフレーズが、途切れなく続くので、歌詞を楽しむようなつもりで読むと楽しめます。
泉鏡花のオリジナル原稿には、すべての漢字にルビが振られているということですが、それもそのはず、彼の漢字づかいには、とにかく「当て字」が頻繁に登場します。
「ええ? その漢字を、そう読ませますか。」という例が頻繁に出来るわけですね。
わからない単語を検索しても、なかなかジャストでヒットしなかった理由は、それが彼独特の漢字使いだったからでしょう。
彼以外の、この時代の他の作家の小説を読み込んでいるわけではありませんが、これは、江戸文化と日本の美をこよなく愛した鏡花一流のセンスではないかと想像します。
例えば、「細流」と書いて「せせらぎ」、「目的」と書いて「めあて」「もくろみ」、「機会」と書いて「おり」、「豊艶」と書いて「ふっくら」、「情事」と書いて「いろごと」などなど。
文学において、漢字という道具をどう使うかというのは、まさに使い手のセンスだという気がしました。
それが的を得ていさえすれば、基本どんな「当て字」もあり。これは最強です。
お馴染みの漢字に、物語に即した小洒落たルビがふられる、それが一種の文学的科学変化を起こし、一気にビジュアル化に貢献する事は、本作を読んで実感いたしました。
漢字という文字は、もともとが象形文字で、世界で最もビジュアルな文字です。
この最強の文字に、ルビを組み合わせることができる日本語は、世界の国の言葉の中でも、最も文学に適した言葉と言えるかもしれません。
英語やフランス語では、こうはいきません。
そして、もう一つ特筆すべきは、泉鏡花のその綿密なファッション描写。
花柳界の物語ですから、当時の芸妓たちの着物の着こなしがメインになるのですが、最初は単語の一つ一つ調べるのに苦労しましたが、これが次第にわかって来ると、俄然物語がビジュアル化してくるんですね。世界観みたいなものまで見えてきます。
着物文化における、小粋なファッション・センスは、今の生活スタイルの中からは、ほとんど消えてしまっていますが、これを教養としてわかっているだけでも、これから日本映画を嗜む上では、多少の役に立ちそうです。
Wiki を読んでいたら、泉鏡花は、当時三越婦人部の発行していたカタログ雑誌を知り合いの女性からわけてもらい、それを見て研究したとのこと。
「神は細部に宿る」と言われますが、ディテールにこだわるのは、作家の基本かもしれません。
せっかく苦労して読んだ本ですから、泉鏡花にはもう少し付き合ってもいいかなと思っています。
ちなみに、この人は、極度の潔癖症だったとのこと。
手に持った食べ物は、指が掴んだ部分だけは残すとか、鍋料理でも、肉に完全に火が通るまでは手をつけないとか、貰い物の菓子はアルコールランプで炙ってから食べるとか、自宅の階段掃除には、一段ごとに雑巾を用意させたとか、外出時の着衣は、帰宅後全て捨てた、などなど。
当時は、そのために、かなり変人扱いされたようですが、是非今の時代にご招待したかったですね。
ウィズコロナ時代の模範的生活スタイルを実践する動画で、有名人YouTuber になれたかもしれません。
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