さて、父親の方の古いアルバムとなると、これは従兄弟の家に残っていました。
父親は、7人兄弟の3番目で長男でしたが、その一番上の姉の長男宅ですね。
この従兄弟も今はもう他界していますが、古い写真が残っているというの聞きつけて、スキャナーを抱えて出かけて行ったのを覚えています。
古い写真フェチとしては、生唾モノの写真がたんまり残っていて、うれしくなってしまいましたが、とりあえず一番古そうなものがこの一枚。
凛々しい軍人姿の1番右が祖父。
そして、一番左が、祖父の長女のご主人になった人。つまり僕の叔父さんです。
この二人が戦友仲間で、「内地に帰ったら、お前は、俺の一番上の娘の亭主になれ。」という約束が戦場で交わされ、その約束通り、二人は結婚したのだそうです。
祖父と叔父が従軍したのは、太平洋戦争ではなく、その前段階にあたる支那事変。
盧溝橋事件が勃発したのが、昭和12年のことですから、この写真はおそらくその前後の頃と思われます。
背後の壁に描かれている文字からも、ここが中国らしいことがわかります。
祖父は、コックだったと聞いています。
子供の頃の記憶で、時々作ってくれる祖父のカレーは、小麦を炒めるところから始める本格的なものだつたのを覚えています。
そして、この一番上の叔父は、従兄弟の証言によれば、当時かなり高価だったライカのカメラを所有しており、当時の一般的な家庭よりは、家族写真が豊富に残されていたようです。
この1番上の叔母は、昭和37年に、若くして他界しているのですが、兄弟たちの証言によると、「高峰秀子みたいな、綺麗な人だった」とのこと。
僕はこの叔母との個人的思い出は一切ないのですが、どうしてもその写真が見たくて、わざわざ従兄弟の家まで出かけて行ったというのが本当のところ。
従兄弟の家で、遺影になっていたのが、この一枚です。
確かに、当時の三児の母にしては、どこか原節子や高峰秀子などの銀幕のスターに通じるような気品があるのは伺えます。
祖父は、どこか伴淳三郎にも似た、コメディ・タッチの人なのですが、わからないものです。
さて、祖母の方で残されていた一番古いと思われる写真がこちら。
祖母姉妹の隣に座っているのが、僕から見れば曽祖母ということになります。
画像から推測するしかありませんが、明治生まれの祖母の娘時代ということになりますから、こちらも、少なくとも昭和10年代くらいの写真ということになると思います。
そして、こちらが、祖父と祖母のツーショットとしては、一番古いもの。
おそらく三女の結婚式の時の写真と思われますので、これは昭和30年代のものです。
さて、父親の写真として残っているもので、一番古いと思われるのはこちら。
この姿から推察すると、学生時代でしょうか。
父親の最終学歴は、兄弟たちの証言によれば、当時はなかなかの花形であった航空学校。
飛行機乗りではなく、エンジニア育成校みたいなところで、今でいえば、専門工業高校みたいなところでしょうか。
だとすれば、これも戦前のものだと思われます。
後ろに写っているのは、国会議事堂?
そして、こちらは昭和30年代初め頃、東京都大田区梅屋敷の実家に勢揃いした、祖父祖母と兄弟五人の集合写真。
ちょうど連載が始まった頃の「サザエさん」のムードが漂っています。
この頃の父は、石油カルテックスという会社で、社用車の運転手をしていて、この兄弟たちの証言によれば、時々会社の高級外車で帰宅して来ては、彼らを乗せて羽田あたりまでドライブに連れて行ってくれたと言っていました。
父はその後、脱サラして、埼玉県浦和市(今のさいたま市)で、本屋の店長になりますが、父が引っ越してきた当時の、京浜東北線の与野駅西口駅前の一枚がこれ。
実は、僕の実の母親は、僕が3歳の時に、乳がんで亡くなっています。
そんな事情で、父がこの本屋で修行をしている間、僕と弟は、祖父と祖母に預けられて、大田区の平和島に住んでいました。
祖母が営んでいたのも、同じく本屋。
父親が、本屋の店長として独り立ちするまで、本屋のノウハウをコーチしてくれた女性は、やがて僕らの新しい母親になることになります。
弟には、この頃の記憶はまるでないようですが、僕は微かに、祖母から「明日からは、おばさんではなくて、ママと呼ぶんだよ。」と言われたことを覚えています。
古い写真を丁寧に保存してくれていた母には、今更ながら感謝しています。
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