さて、西暦では70年代に入ります。
昭和45年は、1970年。
この年は、忘れもしない「万国博覧会」の年でした。
僕は、小学校5年生になっていました。
この年、我が小学校では、一年先輩の六年生の修学旅行が、「大阪万博見学」だったんですね。
これは、非常に悔しかったのを覚えています。
もう一年、万博を延長してくれたら、僕らの学年も行けたのにと思ったものでした。
我が家は、忙しい本屋で、両親ともに働いていましたので、この年結局万博に行こうという計画は立たず、万国博覧会は見ることはできませんでした。
万博の特集号を読んでは、色々なパビリオンの、「呼び物」に想いを馳せておりました。
さて、歌謡曲は、この年になると、いっそう身近になってきた印象。
というよりも、こちらの方の感性が、だんだん流行歌に近づいていったんですね。
これは、やはりテレビの影響が大きかったと思います。
「夜のヒットスタジオ」は、この頃はすでに毎週見る番組として定着していましたが、日本テレビの「NTV紅白歌のベストテン」も、前年くらいから始まり、この頃は鑑賞ルーティンになっていました。
歌謡曲の歌手たちは、この頃になると、すでにそれまでのアイドルだった「怪獣」たちよりもより身近な存在になっていたように思います。
この頃になると、ヒットして流行していれば、なんでもいい曲といったミーハー的感覚から、次第に自分の好みの曲なども出現し始めていたというのは、今になってみるとよくわかります。
大晦日に、家族全員で「紅白歌合戦」を見るという習慣も、この頃から定着し始めていました。
いや、今考えると、すでにあった習慣に、この辺りから僕自身が参加し始めたということだったかもしれません。
そういえば、あのモンスター番組ドリフターズの「8時だよ!全員集合」も、この前年から始まり、この頃にはしっかり土曜の夜の定番になっていました。
この番組には、コーナーのつなぎに、出演歌手によるパフォーマンスがふんだんにあって、やはり歌謡曲と接するいい機会になっていました。
前年までの2年間、世の中を席巻したグループサウンズは、この年には嘘のように収束し、よしだたくろうの登場で、入れ替わるように、フォークソングのムーブメントが動き始めたのもこの年。「ニューミュージック」が登場するのはまだその後のことです。
後に多大な影響を受けることになるビートルズも、サイモンとガーファンクルも、すでにこの年には解散していましたが、この当時はそんなことは、知る由もありません。
この年に流行した歌謡曲で、歌えた曲は34曲でした。
以下の通り。
青春の詩 (よしだたくろう)
イメージの詩 (よしだたくろう)
笑って許して (和田アキ子)
空よ (トワ・エ・モア)
ドリフのほんとにほんとにご苦労さん (ザ・ドリフターズ)
ドリフのズンドコ節 (ザ・ドリフターズ)
老人と子供たちのポルカ (左卜全とひまわりキティーズ)
誰もいない海 (トワ・エ・モア)
京都慕情 (渚ゆう子)
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