君主論 ニッコロ・マキャベリ
「自省録」を著したマルクス・アウレリウスは、徹底的に人間「性善説」をベースに政治を展開した稀に見る権力者でした。
ならばその反対に、「性悪説」で政治を行うとどうなるかという興味が沸々と湧いてきました。
すぐに頭に浮かんだのが、「天下の悪書」との誉れ高い「君主論」ですね。
著したのは、ルネッサンス期のイタリアの外交官だったニッコロ・マキャベリ。
これまで、まともに読んだことはありませんでしたが、世界史ではたびたび登場する名著です。
15世紀初頭のイタリアはまだ統一された国ではありませんでした。
日本で言えば、戦国時代のような様相でしょうか。
当時5つの小国に分裂していたイタリア半島にある、フィレンツェという小国がマキャベリの母国。
当時のフィレンツェは、メディチ家が支配する文化と商業の国で、ルネッサンスは花開いていましたが、自国の軍隊を持たないフィレンツェは、絶えず近隣の大国からの武力干渉に肝を冷やしており、外交官であるマキャベリは、その脅威から母国を守るための交渉に、近隣の国を飛び回り、八面六臂の活躍をしていました。
しかし、政変があり失脚した彼は、やむなく隠遁生活を送ることとなり、当時のフィレンツェ共和国の君主であったロレンツォ・メディチに、再び自分を登用してもらうために献上したのが本書です。
今でいえば、就職先へ、自分をアピールするために送るエントリー・シートが、マキャベリの「君主論」というわけです。
本書が画期的だったのは、当時の政治には密接な関係があった宗教とは完全に切り果たした完全な「実用書」であったこと。
マキャベリは、今で言えば、ノンキャリアの官僚のような立場でしたが、頭はキレキレ。
過去の歴史書をしっかり勉強した上で、外交官として自分が見聞した経験値に裏打ちされた本書は、「キレイゴト」を一歳排除した、君主だから許される権謀術数のノウハウを簡潔にまとめた本です。
大衆とは基本「性悪」なもので、決して愛や慈悲だけでコントロールできるような上等な生き物ではない。
時には、悪事も厭わぬ徹底した冷徹さと威厳がなければ、統治するのは至難の業。
歴史を遡れば、善行や美徳で政治を行なっても、結局破滅に通じる例は多く、逆に悪徳であっても、結果として安全と繁栄がもたらされる例は、枚挙にいとまがない。
申し訳ないが、君主たるもの、善人なだけでは到底務まる商売ではないというわけです。
「マキャベリズム」というと、「目的のためには手段を選ばない」」というような文脈で使われることが多く、どうしてもネガティブな印象になりますが、結果がともなわないのであれば、どんな綺麗事を言ってもなんの意味もないでしょうとマキャベリは言うわけです。
君主たるもの、恐れられなければならない。
君主たるもの、ケチでなければならない。
君主たるもの、時には悪事に手を染めねばならない。
君主たるもの、憎まれてはならない。
君主たるもの、軽蔑されてはならない。
君主たるもの、狡猾(キツネのよう)でなければならない。
君主たるもの、罰は一度に厳しく、褒美は、小出しにチビチビと。
君主たるもの、人民をまとめるには、外部に敵を作れ。
君主たるもの、人民をまとめるには、祭り事を活用せよ。
アウレリウスは、ストア派哲学を行動の指針として、常に人間として人格者であろうとした政治家でしたが、マキャベリは、国を繁栄させ、大衆を幸福にしようと思うのなら、間違っても「善人」にだけはなるな。
むしろ時には悪人になることも厭わぬ覚悟が必要だというわけです。
ナポレオンやヒットラーも常に枕元に置いて、愛読したと言われるのが本書ですが、実はもう一人この本を愛読しているという日本の政治家がいました。
つい先日、自民党総裁選には出馬しないと発表して、事実上の退陣表明をしたばかりの現内閣総理大臣の菅義偉氏です。
本書を読みながら、ここまでの彼の政治キャリアを鑑み、本書に影響されたと思われる符号があまりに多くてちょっとビックリしてしまいました。
例えば、菅氏が内閣人事局の悪用によって、霞ヶ関の国家官僚たちを平伏させた恐怖管理は、まさに「恐れられなければいけない」の菅流実践。
例えば、コロナ対策において、国民への経済支援を一切行わない姿勢は「ケチでならなければならない」の菅流実践。
例えば、安倍政権の官房長官時代、官僚たちに公文書の隠蔽改竄を指示(間違いないでしょう)したのは、文字通り「悪事」の菅流実践。
例えば、政権発足当時、マスコミを招待して、「パンケーキおじさん」を装ったのは、「憎まれてはならない」の菅流実践。
例えば、国民の8割が中止を表明しているにもかかわらず、オリンピックを強行したのは、「祭り事を活用せよ」の菅流実践。
この人が、ナポレオンやヒットラーを目指していたとまでは言いませんが、地味で華がなく、党における地盤もなく、国民にアピールする言葉すら持たないこの総理が、自らの政権維持のために、500年以上も前のこの権謀術数の書を読み返しては、実践していた可能性は大いにあると思われます。
マキャベリが、理想的な君主として、注目していたのは、チェザーレ・ボルジアという若きリーダーでした。
ローマ教皇を父に持つチェザーレは、父の支援を受けながら、イタリア統一に向けて、着実に勢力を拡大していましたが、その志半ばに、32歳という若さで亡くなったカリスマ軍人であり、政治家でした。
ロマーニャ公国の統治を任せていた側近の部下の厳しすぎる統治に、国民が怒りの声をあげていると見るや、チェザーレはこの部下を捕え、体を真っ二つに引き裂いて、広場に晒したといいます。
しかし、これを見た国民は、チェザーレが自分たちの不満を聞き入れてくれたことを喜んだのと同時に、この冷徹なリーダーに「恐れ」を抱き、以後は、チェザーレの支配に従順に従ったというわけです。
また、シニガッリア事件では、反乱軍に対してまず下手に出て、リーダーたちを城の中に呼び寄せたところで、彼らを捉えて惨殺。
リーダーを失った軍をたちまち制圧するというしたたかさを見せます。
フィレンツェの外交官として、目的のためには手段を選ばないチェザーレの狡猾さと、大胆な行動力に「真のリーダーの資質」を見たマキャベリは、善行だけでは決して国をまとめることは不可能なことを、過去の歴史からしっかりと学習しつつ、母国フィレンツェのリーダーに、最終的に国民に安寧を与える君主のあるべき姿を提言し、あわよくば自らの再登用を画策したというわけです。
「君主論」は、ある意味で非常に際どい本です。
国家運営が、綺麗事では動かないことは、今も昔も変わらないとは思いますが、かといって権謀術数だけが、その全てというのはいくらなんでも悲し過ぎます。
500年前の時代のノウハウが、今もそのまま通用するなどと錯覚しているリーダーがいたら、それはかなり危険でしょう。
その権力を握ったものが、本書から、自分にとっての「美味しいとこ」だけを抽出して、興味のないところは黙殺するというような読み方をすると、とんでもないことが起こりそうです。
元はと言えば、外部に敵を作ることで国民の指揮を高めるという魂胆のもと実行された、ナチスによるユダヤ人大量虐殺。
お隣の中国や韓国による、国家の計画的な日本バッシングもそうでしょう。
マキャベリが示唆した国家運営のための禁断のスキルは、それを解釈するリーダーによっては、とんでもない結果を産むことにもなりかねません。
今の我が国の政府与党のトップ政治家たちをつらつら拝見する限り、到底善人とは思えない面構えの面々ばかりです。
権力者たちの悪事は、国家システムとして、隠蔽され、官僚たちによって守られます。
メディアさえ支配下に置かれた現状では、国民にはその闇を知る術はありません。
マキャベリは、コテコテの愛国者でした。
彼が本書を、フィレンツェの時の君主に献上したのも、最終的には、それが国の安定と国民の幸福につながると信じたからです。
しかし、本書を教科書とした、似非君主たちが、国民の幸福に向かい合うことなく、権力の魔力に取り憑かれて、自らの私利私欲のためだけに悪用したとしたら、それは決してマキャベリの望んだことではないことは明白です。
本書が「禁断の悪書」と評価されてしまうのだとしたら、それは決してマキャベリのせいではなく、この本を愛読していていた、後世の君主たちの責任です。
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