異邦人
今回のCovid-19騒動もあって、カミュの代表作である「ペスト」の方は既に読んでおりました。
しかし、彼の執筆順からすれば、こちらの方が先ですね。
本作が彼の長編小説デビュー作です。
そして、この小説一冊で、彼は一躍文壇の寵児に躍り出て、1946年にはノーベル文学賞を受賞しています。
白状しておきますが、この有名すぎる小説を、僕はいまだちゃんとは、読んでいませんでした。
さて、この「ちゃんと」と言うのがクセモノ。
なぜなら、ちゃんと読んでいないこの小説で、僕はおそらく夏休みの読書感想文を提出しています。
本作はおそらく、学校の推薦図書に指定されていた記憶です。
一冊丸々読む時間がもったいない時に、当時よく使った手は、まず「あとがき」「解説」だけをザッと目を通すこと。
そこで、ザックリと作品のイメージだけ把握してから、そこから大きく脱線しない程度に、内容を想像します。
本作については、殺人の理由について告白したムルソーの「太陽が眩しかった。」というセリフと、解説でたびたび出てきた「不条理」というキラーワード。
これのインパクトが大きかったので、あとは勝手にこれを膨らまして感想文の体裁を整えたわけです。
その内容まではもう忘れましたが、確か冒頭の一文は「ムルソーは、可哀想な男だと思う。」でしたね。
しかし、それでもなぜか国語の教師の評価は悪くなかったのが苦笑い。
そんなわけで、ズル大好き少年は、読書感想文に対しては、以後このスタイルに大いに味を占めることになります。
そんなふうにして、ちゃんと読んではいないのに、一丁前に読んだ気になっている世界文学の名作は結構あったりするのが我ながら恐ろしい次第。
但し、子供の頃から映画だけはたくさん見ていたので、原作は読んでいないけど、映画なら見ているという作品はかなりあります。
ですがやはり、読書は読書。
正直に白状すれば、当時僕がちゃんと読んでいた記憶のある世界文学といえば、たったの二作品だけかもしれません。
どちらも、シリーズものなのですが、名探偵ホームズと怪盗アルセーヌ・ルパン全集ですね。
これは、当時ポプラ社から出ていたシリーズを、確か中学時代までに全巻読破しています。
オタクの基本的資質として、自分が興味のあるモノに対しては、とことん貪欲です。
こう言う時に、本屋の息子というのは恵まれていました。
しかし、感想文に推理小説が指定されることはありません。やはり世界の文豪たちの力作が中心になります。
しかし文豪たちの名作は、まだ中学生、高校生では重苦しいテーマのものばかりで、読んでも決して楽しくはありません。
ドストエフスキー「罪と罰」、トルストイ「戦争と平和」、スタンダール「赤と黒」。
いやあ、どれも重い重い。読んでスカッとするものなんぞありゃしない。
この「異邦人」にしても然り。
薄い文庫本だと思って侮ることなかれ。
大人でさえ、一口では片付けられない複雑のテーマが二重三重に織り込まれたこの作品が、中学生や高校生の感性では到底理解できるわけがありません。
今回「ちゃんと」読んでみて、それだけは痛感いたしました。
いろいろな切口の批評が可能な本書は、このムルソーという主人公の解釈にどれだけのメスを入れても、単純な理解など拒絶するような多層的で複雑な仕掛けになっています。
ムルソーはこう言う男だと決めてかかると、いやいや、そんなことはない、ほれこんな描写もあるじゃないかという奥の深さが本作の魅力と言っても過言ではありません。
果たして、ムルソーは極悪非道人なのか、「可哀想な男」なのか、「自由な男」なのか、それともサイコパスなのか、あるいは、ただ自分に正直なだけの男なのか。
多分その答えは出ないように書かれていることこそ、カミュの意図したところかもしれません。
ノーベル賞作家は、単純明快ではいけないのでしょう。
ですので、今回の感想はあくまで僕の感想です。
遠い昔の高校時代のズルの贖罪も込めて、改めて、還暦なりの答えを探ってみることにします。
さて、本作の最も有名なシーンといえば、ギラギラ照りつける熱い太陽の下で、ムルソーが行なった殺人です。
僕は、これが物語のクライマックスだとばかり思っていたのですが、実はこのシーンが登場するのは、第一部のラスト。
相手が刃物を見せた瞬間、ムルソーは持っていた拳銃で相手に1発。
そして、動かなくなった相手に向けて、さらに4発の弾丸を打ち込みます。
そして第二部で、この殺人を犯したムルソーが裁判にかけられ、裁かれるという展開になっていきます。
この中で、予診判事に殺人の理由を問われたムルソーは、事もあろうに「太陽が眩しかったから」などとと答えてしまうわけです。
本当なら、この事件は、普通に正当防衛が成立して裁判は楽勝に進むケースだと弁護士も思っていたのですが、ムルソーのこの一言が、裁判を思わぬ方向に進めてしまいます。
なぜムルソーは、裁判官からの質問に対して、普通の人なら間違いなく言うはずの正当防衛を主張する自己弁護をせずに、自分を極悪殺人犯にでもしてしまいかねない、こんな危ない理由を口走ってしまったのか。
それこそが、本作のテーマである「不条理」そのものだと、ティーンエイジャーだった昔の自分は思い込んでいたのですが、やはり改めてちゃんと読んでみると、カミュが提示したテーマは、そんな単純な物語ではないようです。
ムルソーは、常に自分の感情に対して、正直であり続けることには確信犯的でした。
母親が死んだ時も、彼は養老院で、涙一つ流さず、悠然とコーヒーを飲み、タバコを燻らします。
そして、母親の葬儀の翌日には、ガール・フレンドのマリーと海水浴に行き、そのまま一晩を共にします。
そして、そのマリーには、結婚するのは構わないが、自分は君を愛していないなどと言い放つわけです。
殺人を犯して収監された後も、熱心なクリスチャンである予審判事に対して「神は信じない」と言い、彼の為に祈ろうとする御用司祭に対して、烈火の如く激怒し、襟首を掴んだりするわけです。
自分の保身のためには、人は誰しも自分を偽わることなどまるで厭わない生き物であると思うのが常識的です。
母親の棺を前にしたら、誰もが鎮痛な表情を浮かべるべきでしょう。
付き合っている彼女と結婚の話になるなら、そこは「愛している」と言うべきでしょう。
予審判事がクリスチャンなら、神からのご加護は信じるとも言うべき。
殺人の理由を問われたら、相手が先にナイフを抜いた故の、正当防衛だったと主張するべき。
どうしてか。
そりゃあそうです。そういえば、死刑は免れるかもしれないからです。
少なくとも、自分の心の中は、他人には見えません。
心と裏腹な言葉を口にしても、それを誰に悟られるわけではない。
神など信じていなくても、信じているといっておけばいい場面です。
だって、そういっておけば、少なくとも情状酌量にはなるんですから。
何もそんなに無理してまで、正直でいる必要なんて、サラサラない局面に彼はいるわけです。
それなのに、ムルソーという男は、結局自分に嘘をつくことを、命をかけてまで、潔しとしなかったわけです。
なにものにも縛られない精神的自由を捨てるくらいなら、ギロチンで処刑されることを選ぶというと、なんだか如何にもヒーローチックですが、遠い昔のギリシャ時代に、「悪法も法なり」といって、逃げることを懇願する弟子たちに、首を横に振って、自分を裁いた法の裁きに殉じたソクラテスのような強靭な意志と言うものは、なぜかムルソーには感じられません。
僕が感じたのは、我が身可愛さのあまり、命乞いをするような、そんなみっともないことは俺にはできないぜというニヒリズム、もしくはクールさです。
何があっても、喜怒哀楽をストレートに感情に出すと言うのは人間としては二流。
ましてや、保身のために嘘を演じるなんてのは、下の下の三流。
それが、決して幸福とは言えない人生をアルジェリアで過ごしてきたムルソーという男が、少しずつ鎧を纏うように身につけてきた、彼流のダンディズムだったかもしれません。
生前のカミュは、これがノーベル賞作家かと思わず目を疑うばかりのイケメンです。
そんなカッコイイ男に、これだけの文才が備わっているのですから、パリの女性たちが放っておくわけがありません。
46歳で自動車事故で亡くなるまでは、複数の女性たちと浮名を流していたようです。
やはり本作の主人公ムルソーには、どこかでこの作者の面影が重なります。
女友達のマリーと肉体関係を持ちながらも、「愛してはいない」などと告げてしまう辺りは、自分に正直と言う評価よりも、モテる男の傲慢の方を感じてしまうわけです。
現に、それを言われたマリーは、それでも、このムルソーを嫌いにはなれずに、証言台に立ってまで、彼を救おうとするわけです。
しかし、彼女の証言や、彼を救おうとした友人レイモンの証言は、図らずも、ムルソーの情状酌量になるどころか、彼の非人間的な人格を浮き彫りにする証言と捉えられてしまうわけです。
自分がアラブ人を殺したのは、アルジェリアのジリジリと照りつける熱い太陽のせいだといってのけた彼でしたが、おそらく心のどこかでは、そんなことを言ったとはいえ、それで自分が死刑になるなどとは思っていなかったのではないかと言うのが、今回の個人的見立てです。
ある意味で、彼はどこかで、この裁判や自分の運命を含めて、ナメていたのではないかと言う気がするわけです。
しかし、何もかもが運命的に、彼を死刑にする方向に回り出していくうちに、彼は焦り、次第に自分自身のスタイルをこじらせてしまったのではないかと思い至りました。
その苛立ちがマックスに達したのが、御用司祭の襟首を捕まえて、感情を爆発させるシーンです。
あのシーンは、今更俺は死にたくないなんてカッコ悪いことは言えないけど、やはり死刑は嫌だと叫んでいるようにも聞こえました。
脳裏に浮かんだのが、黒澤明監督の「天国と地獄」のラストシーンです。
死刑が決まった山崎努演じる犯人と三船敏郎が、刑務所の面会室で対峙するシーン。
「俺は死刑になるのなんか怖くない。」と思い切り強がってみせる山崎努の絶叫が、あの映画のラストカットでした。
あの犯人の青ざめた顔と、あのシーンのムルソーの絶叫が完全にオーバーラップしていました。
クールなはずの自分の感情をコントロール出来なかったことは彼にとっても大きなショックだったに違いありません。
そこから彼は再び冷静さを取り戻して、これから自分に起こる事実を見つめ直します。
ギロチンに処される自分の人生にどう落とし前をつけるか。
考えた末、彼はそこでまた大きく一つこじらせてしまうことになります。
「すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」(本文より)
そう言うことでないと、このラストは、どうしても納得できませんでした。
クールでニヒルであることで、世の中の出来事や、不幸だった人生となんとかバランスをとって生きてきた男ムルソーは、アラブ人を殺したことをきっかけに、そこから自分のスタイルを、こじらせにこじらせた結果、最後は死刑になった。
それがこの「異邦人」という物語なのではないかと言うのが今回の感想です。
ムルソーという男に下されたこの死刑という判決は、本当に妥当なものなのかどうか。
本書を読み終えて、しばし冷静に考えてみました。
カミュは、その判断を読者に委ねるために、さまざまな哲学的、宗教的情報を本書に巧妙に仕掛けています。
もちろん、あの「不条理」という、本作のためにあるようなキラーワードもその一つです。
でも、もしかしたらその全ては、単に読者を混乱させるための、もしくは、本書に文学的なステイタスを付与するための、作者の確信犯的なミスリードではなかったかもしれないと思い至りました。
それは、本書の中にある、冷静に見なければいけない、たった一つの事実を、文学的というオブラードで包み込んでしまった可能性があります。
ちゃんと見なければいけない事実は、実は最初から一つ。
それは、刃物をチラつかせた相手ではあるけれど、拳銃を1発打ち込んだ後、その動かなくなった相手に向かって、さらに4発の弾丸をムルソーが撃ち込んだというこの事実です。
これ以外は、太陽が暑かろうが、意識が朦朧としていようが、相手に殺意があったのか、なかったのか、ムルソーが非人間的な人格だったとか、そんなことは全て余分な情報として切り捨てていいのではないか。
もしかしたら、このたった一つの事実以外の全ての物語は、そこから目を背けさせるために、カミュが仕掛けた小説的ミスリードだったかもしれない。
それは、あのSFの名作「2001年宇宙の旅」で、初めはわかりやすいはずの物語だったものを、のちの編集で「解答」は全てカットして、確信犯的に難解な物語にすることで、映画の評価を押し上げたスタンリー・キューブリックの手法にも似ています。
キューブリックは、引くことで映画を難解にしましたが、カミュは情報を足すことで、作品の文学的クゥオリティを押し上げたわけです。
だって、加害者や被害者の人格にまで、裁判の判断材料を求めたところで、それが真実かどうかなんてことは、結局誰にも分からないということです。全て「藪の中」です。
そして、その辺りの危うさも、本書には、実はきっちりと描かれているわけです。
生きている人間に、5発の銃弾を撃ち込んだ男は、果たして、死刑に値するのか、そうでないのか。
実は、小説「異邦人」の込められたメッセージは、案外シンプルなのかもしれません。
「きょう、ママンが死んだ」
あまりにも有名な本作の書き出しです。
最後に、これだけは白状しておきます。
我がママンが死んだ時のことですね。
二人の弟は、泣き崩れて、ほとんどメロメロな状態でした。
しかし、長男である僕は、不思議と冷静で、涙も流すことはありませんでした。
立場上、葬儀の喪主を務めましたが、いろいろと煩雑な作業を淡々とこなしがら、頭の中では何を考えていたか。
「弟二人が、目を泣き腫らしているなら、むしろ長男は毅然としている方が、参列者の印象はいいかもしれない。」
「喪主の挨拶で、みんなを感動させるためには、どんなスピーチにするか。」
「悲しそうな顔を作るならどの場面か。」
「ちゃんとこの葬式を観察していれば、何かいい曲が書けるかもしれない。」
まあまあ、いずれにしてもろくなもんじゃありません。
こんな長男を持った母親は、さぞや不幸だったでしょう。
感情を抑えきれない弟たちが、ある意味羨ましくもありました。
ですから、少なくとも、僕には本作の主人公ムルソウにとやかく言う資格などなさそうです。
高校生の僕が、何を思って「ムルソーは可哀想な男だ」といったかは、今となってはもう思い出せません。
60歳を超えた今はただ、彼の人生と自分の人生を比べるのみです。
何かのアクシデントがあって、もし自分が裁判にかけられるようなことがあったらと考えてみます。
おそらく、ムルソーとは違って、ただひたすら有る事無い事並べ立てて、我が身可愛さの自己弁護に終始することだけは間違いなさそうです。
あるいはこれも、別の意味で、自分自身をこじらせるだけこじらせることになるのかもしれません。
つまり、決定的な何かが起これば、人の人生なんてものは、どちらにも大きくこじれていく可能性があると言うことでしょう。
もしかしたら、それこそが本当の「不条理」なのかもしれません。
今回は、自分なりにしっかり考察したつもりでしたが、読書感想文としては、評価されないことだけは間違いなさそうです。
蛇足ながら一つだけ。
母親の葬儀を終え、初七日を終え、四十九日の法要を終えて帰宅後、自宅のチェストの上にはじめて母親の小さな遺影を置いた時、はじめて頬に涙が伝ったことだけはお伝えしておきましょう。
ムルソーの本当の罪はなんだったのか。
それは、カミュのみぞ知る。