徒然草
「隠者文学」と言う言葉があります。
主に、日本の中世おいて、貴族や武家による体制から離脱して出家し、僧衣に身を包んで、山里の草庵などに隠居した「世捨て人」たちのことです。
大好きな古典である「方丈記」を書いた鴨長明もそんな一人ですが、本書を書いた吉田兼好も隠者文学の代表的なエッセイストですね。
とにかく、日本の歴史を辿っていくと、文学における傑作は、隠遁生活者の執筆によるものが、結構多いと言うことに気がつかされます。
そこそこの能力はありながらも、色々と面倒臭い浮世のしがらみから逃れて、「引きこもった」人たちですが、そんな彼らの共通の道楽が、徒然なるままに、エッセイや、和歌を書き連ねること。
社会の一線からは、ドロップアウトした彼だからこそ、ある意味、達観した境地で、世の中の様々なことに、向かい合えたのでしょう。
YouTube で最近やたらと増えたのが、プロ野球OBたちの、YouTubeチャンネルです。
いってみれば、現役を引退して「隠遁生活」を送っていた人たちが、かつての仲間たちを読んで、現役時代の裏話を発信していくと言うのが基本ですが、これがなかなか面白い。
21世紀ともなると「隠者」たちは、SNSを駆使して、積極的に発信するようになるわけです。
「デーブ大久保チャンネル」「江川卓のたかされ」、最近では落合博満まで「オレ流チャンネル」を始めています。
現役時代にそれなりに名を残した人たちは、やはり「忘れられたくない」という思いで、色々と発信してみたくなるものなのかもしれません。
スマホ一台あれば、誰でも発信者になることが出来て、チャンネル登録者数が増えれば、それで社会と繋がっているという実感も持つことが出来るし、その上、その再生回数が増えればせ、収入にもなると言うわけですから、「隠遁者」事情も、中世日本とは、大きく様変わりしたものです。
兼好法師も、鴨長明も、今の時代に生きていれば、間違いなくYouTuber になっていたのではないでしょうか。
なんと言っても、こうやって何百年も読み継がれるような極上のネタの持ち主なわけですから、登録者数は相当伸びていたようにも思います。
考えてみれば、僕自身も、定年退職後は、老後のことなどろくに考えもせずに、勢いで百姓を始めてしまっているわけですから、この選択もある意味では「隠遁者」と言えるかもしれません。
兼好法師のように、「日暮らし、硯に向かいあひて」ではありませんが、どうでもいいような「読書感想文」や「映画感想文」を日々ブログに書き連ねているという作文依存生活には、どこか似たようなところがあるようにも思えます。
還暦は超えても、達観という境地には程遠い、煩悩にまみれた毎日を送っている若輩者ものですが、それでも、お陰様で、サラリーマン現役時代よりは、はるかに心穏やかな日々を送れていることは幸いです。
まだまだ収入もままならない百姓生活ですが、贅沢は出来ないけれど、好きなことに没頭できるている毎日は悪くありません。
そんな日々を送っていると、読書の傾向も変わってきますね。
現役時代は、ちょっと気になる本は躊躇せずにAmazonでポチポチしていました。
しかし、引退後は、次第に古典に興味が向かっていくようになりました。
世界の名著となれば、わざわざ購入せずとも、図書館に行けばズラリと並んでいます。
そんなわけで今回は「世捨て人」の大先輩であられる兼好法師の大傑作古典「徒然草」を、図書館の棚からチョイス。
700年以上も前の、ホームレスに近いオジサンの「ぼやき」は、昔々の言葉遣いではあっても、ほぼ直感的に理解できて、シンパシーを感じられることもしばしば。
全234段からなる本書ですが、世俗の垢がいまだに抜け切らない百姓が、どこまで理解できのるか「徒然なるまま」に書き連ねてみることにします。
序
「つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
よろしいではないですか。兼好法師さま。
そうやって、大上段に構えて、テーマだの説法だのおっしゃらないスタイルで硯に向かったからこそ、何百年にも渡って読み継がれる古典になったのでしょう。
第三段 よろづにいみじくとも
「よろづにいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵(さかづき)の底なき心地ぞすべき。
露霜にしほたれて、所さだめずまどひ歩(あり)き、親のいさめ、世のそしりをつつむに心のいとまなく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるはひとり寢がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。
さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべき業(わざ)なれ。」
なるほど。なかなか乙なことをおっしゃられる。
僕が中学生の頃、父親に言われたことを、懐かしく思い出します。
「この人のためなら、死んでもいいと思えるような恋愛を一度くらいは経験しておけよ。それがないと、ろくな大人になれないぞ。」
恋というやつ一種の病気のようなもの。罹患すると、周囲のことがまるで見えなくなる、極めて厄介なウィルスです。
だから、恋愛モードがピークに達したら、努めて、その感情に溺れないように努力し、冷静になって、節度を持つように行動できるようになることが、恋愛というウイルスに対処する基本的なスキル。
恋の病は、お医者様でも、草津の湯でも治せないのですから厄介です。
おっしゃる通り。700年経っても、そこは変わりません。
第七段 あだし野の梅雨
「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからん。
世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。
かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。
住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。
長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。」
あなたの時代の平均寿命は、50歳に満たないと承知しております。
それでも、「老いて生き恥を晒すな」と言うのですから、ある意味では、昔の人は潔いと言えるかもしれません。
今や、わが国の平均寿命は、男女ともに、80歳を越すという世界一の長寿国になっています。
こんなことになっているとは、あなたは夢にも思いますまい。
老いさらばえても、健康で長生きできるならば、それを「恥」の人生とまでは思いませんが、若者たちに実権を譲ることなく、権力の居心地の良さに、しがみついている往生際の悪い老人たちは、あちらこちらで見かけます。
これは、おっしゃる通り「あさましい」限りですな。
元気なことは悪いことではないでしょうが、自然の草木のように、上手に枯れることの出来ない老人が増えているのも事実。
世界一の長寿国の国民としては、正しい「山の下り方」も、学習しないといけないかも知れません。
第八段 世の人の心
「世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。
久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。」
面目ない。
齢六十を超えても、まだ「美しい女性」を見ると、胸の中がザワザワしてしまいます。
それで何が出来るわけでないことは重々承知していてますが、美人を目の前にすると、勝手によからぬ妄想が頭を駆け巡ってしまいます。
せめて、そんなイヤラしい顔つきを、しっかりと理性で制御できるようにはなりたいもの。
希望としては、色欲などに惑わされない仙人のような老人になりたいとは思いつつ・・。
第三十五段 手のわろき人の
「手のわろき人の、はばからず文書き散らすはよし、見苦しとて人に書かするはうるさし。」
ありがとうございます。
稀に見る悪筆なのですが、あなたの時代にはないiPadという文明の利器をフルに活用して、なんとかそれは露見せずに済んでいます。
とにかく「作文オタク」なので、拙い愚文ではありますが、「映画感想」や「読書感想文」を、節操なく書き散らかしております。
第五十九段 大事を思ひたたむ人
「大事を思ひ立たむ人は、さり難き心にかからむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。
「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらむ、行末難なくしたためまうけて」、「年ごろもあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。
おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。
身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財(たから)をも捨てて遁れ去るぞかし。
命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、逃れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。」
これ、わかっていても、なかなか難しいことですよ。
あたしなんざ、飽きっぽくて、ムラっ気も多いものですから、何かマイブームが来ると、すぐに乗り換えたくなるクセがついています。
これはこれで問題ですね。
いろんなことに手を出す割には、何も身につかないという悪循環になっています。
そんなわけですから、すぐに飽きて途中放棄して捨ててきたものが、長き人生において、累々とその屍を晒しています。情けない限り。
第七十九段 何事も入り立たぬ
「何事も入りたたぬさましたるぞよき。
よき人は知りたる事とて、さのみ知りがほにやは言ふ。
片田舎よりさしいでたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。
されば世に恥しき方もあれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。
よくわきまへたる道には、必ず口おもく、問はぬかぎりは、言はぬこそいみじけれ。」
おっしゃる通りです。
あなたの時代には、想像もつかないことかもしれませんが、今や情報化社会。
ネットの使い方さえ知っていれば、なんの知識はなくとも、誰もが最新の知見にアクセス出来て「擬似インテリ」になれてしまうしまう時代です。
そんなわけですから、たいした勉強をしたわけでもないのに、「知ったかぶり」する輩が、如何に多いことよ。素人YouTuberのほとんどがそれです。
そしてもちろん、私もそんな輩の1人であることは正直に白状しておきましょう。
もっぱら、そのハケグチは、ブログになりますが、せめて、インスタントな知識程度で、偉そうにドヤ顔をするのだけは慎みたいと思います。
第九十二段 ある人、弓射ることを習ふに
「すべて、何も皆、事の整(ととの)ほりたるはあしき事なり。
し残したるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶる事(わざ)なり。内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を殘す事なり」と、ある人申し侍りしなり。
先賢の作れる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。」
確かに。
完成され過ぎたものからは、情緒は生まれないかもしれません。
そこから先には、もう崩壊の方にしか、ベクトルは動かないわけですから。
それよりは、次の一手をどうしたものかと、想像を巡らすことが出来る「不完全」なものの方が、趣は優っているかもしれません。
ユーミンというポップス歌手が「14番目の月」と言う曲で、こう歌っています。
♪
つぎの夜から 欠ける満月より
14番目の月が いちばん好き
第九十三段 牛を売るもの
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらむや。
愚かなる人、この楽しみを忘れて、いたづがはしく外の楽しみを求め、この財(たから)を忘れて、危く他の財を貪るには、志、満つる事なし。
生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。
人みな生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。
もしまた、生死(しゃうじ)の相にあづからずといはば、まことの理を得たりといふべし。」
幸いにも、百姓などをやりながら、日々自然と向かい合っていますと、「生を愛す」という心持ちは、世の中の普通の人たちよりは、実感できているような気がいたします。
貧乏覚悟で始めた農業ですが、おかげさまで、物欲とは一定の距離を置けるようになりました。
ありがたいことです。
それともう一つ、
いずれ死ぬと言うことに対して、ジタバタしようという気がなくなりましたね。
この体も、そう遠くない将来に、経年劣化により、自分の意志では動かせなくなる日が来るのは、すでに織り込み済み。
そうなったら、もうそれはそれまでです。それが自分の寿命ということで、納得することにします。
医者は、点滴だ、人工呼吸だ、ICUだのと言い出すでしょうが、それらは全て拒否。
無駄な延命治療は、全てパスさせてもらいます。
第百八段 寸隠惜しむ人
「寸陰惜しむ人なし。
これよく知れるか、愚かなるか。
愚かにして怠る人の爲にいはば、一錢輕しといへども、これを累(かさ)ぬれば、貧しき人を富める人となす。
されば、商人(あきびと)の一錢を惜しむ心、切なり。
刹那覺えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる期(ご)、忽ちに到る。
されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。
ただ今の一念、空しく過ぐることを惜しむべし。」
人間の死亡率は100%です。永遠に死なない人は、フィクションの世界以外にはいません。
そんなことは誰もがわかっているはずなのに、案外、いつかは自分に死が訪れると言うことを、イメージ出来ていない人は多いように思います。
余命何年などと医者に宣告されれば、時間を無駄にはできないと誰もが思うのでしょうが、少なくとも、健康で、人生絶好調だったりすると、「あれ? 俺もしかしたら死なねえんじゃないの」なんて勘違いしている人は、そこそこいそうです。
死なないと思っていれば、当然時間なんて湯水のようにあるわけですから、それは大切にしようなどとは思いますまい。
還暦を過ぎて、一から百姓を始めた身としては、時間はいくらあっても足りない状況です。
とにかく、一端のスキルを身につけるだけでも、十年はかかる世界ですから、今は一分一秒が貴重です。
すでに、残りの人生のカウントダウンに入っていますから、余計なことには目もくれず、野菜作りに励みたいところ。
幸いかな、今は毎日畑に行くのが楽しみなので、寸暇を惜しんで働かせていただきます。
第百二十一段 養ひ飼うふ物には
「走る獣は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠(こ)に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁(うれ)へやむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。」
兼好法師殿。これだけは、理解してあげて下さいませ。
現代人は、あなたの時代からは考えられないくらいの苛烈なストレスにさらされています。
なので、ペットに癒されたい、もしくは、「決して裏切ることのない」ペットを、安心して愛したいというニーズは格段に高まっています。
そして、そのニーズに合わせて専門家によってブリーディングされたペットたちは、いまさら野生に帰されても、もはや迷惑なだけ。むしろ、そちらの方が虐待になってしまいます。
今や人間とペットは、とことん相思相愛ということだけは、どうかご理解いただけますよう。
ただ、飼い主の趣味で、可愛い洋服を着せられて散歩しているワンちゃんを見ると、そこに飼い主のエゴが見え隠れして、少々かわいそうになることもありますが。
第百三十七段 花は盛りに 2
「よろづの事も、始め終りこそをかしけれ。男女の情(なさけ)も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲居を思ひやり、淺茅が宿に昔を忍ぶこそ、色好むとはいはめ。
望月の隈なきを、千里(ちさと)の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ちいでたるが、いと心ぶかう、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、またなくあはれなり。
椎柴・白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都こひしうおぼゆれ。」
それは、今も同じです。
上手くいっている恋愛を描いたものに、ろくなものはありません。
片想い、別れ、不倫などなど、およそ成就しない恋愛を扱ったものに、古今東西の名作はひしめいています。
テレビも映画もない、あなたの時代には、それを補ってあまりある自然の風情がありました。
都会に住む人たちは、そんな心の癒しがあることさえ忘れています。
そんな花鳥風月の景色に、やるせない思いを託すことが出来れば、時代を越える随筆をしたためられると言うことでしょう。
第百七十五段 世には心得ぬこと
「この世にては過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起れ。憂へを忘るといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。
後の世は、人の知恵を失ひ、善根を焼く事火の如くして、悪を増し、よろづの戒を破りて、地獄に墮つべし。」
我が家は、呑兵衛の家系らしいのですが意外にも、僕自身は下戸です。
父はやはり飲めない人でしたが、祖父、叔父、弟はけっこうイケる口で、会う時はいつでも酔っぱらっている印象ですね。
特に、祖父、叔父は酒グセが悪く、妻君たちが苦労しているのをよく目撃しました。
我が母は、そんな酔っぱらいを横目でみながら、僕によくこう言っていたもんです。
「いくら飲んでもいいけど。飲まれるもんじゃない。」
今は寝る前に、焼酎のハーブティ割を一杯飲むのが習慣になっていてます。
これで、十五分後にはすぐ眠れます。
第二百三十三段 よろづとがあらじ
「よろづの科(とが)あらじと思はば、何事にも誠ありて、人を分かずうやうやしく、言葉すくなからんには如かじ。
男女・老少、みなさる人こそよけれども、ことに若くかたちよき人の、言うるはしきは、忘れがたく、思ひつかるるものなり。
よろづのとがは、馴れたるさまに上手めき、所得(ところえ)たるけしきして、人をないがしろにするにあり。」
これは肝に命じるところです。
誰もが、上から目線で見下されることや、偉そうにされると反発したくなるもの。
そうされるのは嫌なくせに、気がつけば自分もそうなっていることに気が付かなかったりします。
ちょっと打ち解けてくると、急にタメ口になったり、馴れ馴れしくしてくる人も結構います。
もちろん、仲良くなることは悪いことではありませんが、そうなったら、その関係をより良く長く保つ意味でも、やはり大切になってくるものは礼節。
気を使いすぎるのもいかがなものですが、親しくなったら、ある程度の距離感は意識して取るようにすることも、長い付き合いにするためには、案外大切なことだろうと思います。
知り合いに、どこからどう見ても仲睦まじいのに、日常会話がお互い敬語になっているというご夫婦がいらっしゃいます。
それでいて、よそよそしいとか、冷え切っていると言う感じはまるで受けません。
お互いを尊敬し合っているという感じなんですね。とても素敵なご夫婦です。
まさに「親しき中にも礼儀あり」です。
700年前と今とでは、人間の暮らしぶりは大きく変わってしまっていますが、それでも、人間という生き物の基本は、何も変わらないと言うことがわかってニンマリです。
兼好法師様。
一度あなたも、今の世の中を覗きに来てください。
世の中は随分と様変わりしていますが、人間は相も変わらず、同じことを繰り返しているのだなあと驚かれるはずです。
あなたと同じように、野良仕事の合間に、百姓なりの「よしなしごと」を、つらつらと書いていこうと思います。
また機会があれば読みにきます。
ツレヅレもよろしく。
コメント