菊と刀
1946年に、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトによって考察された日本人論です。
確か、中学か高校の国語の教科書で見かけた記憶も。
背景だけざっとおさらいしておくと、本書は、日本の敗戦が決定的になった時期に、終戦後の日本支配の参考にするため、当時のアメリカ政府が、文化人類学からの観点で日本人という民族の行動パターンを説明せよとの指示を出してまとめられたもの。
国家から指名を受けたのは、この分野で頭角を表していたルース・ベネディクトという才媛女史です。
しかし、当時はまだ戦争中ということもあって、彼女は人類学のレポートには不可欠と思われる、日本でのフィールド・ワークを行うことは出来ませんでした。
その代わりに彼女は、アメリカ在住の日系人を取材したり、日本人捕虜の尋問調書を具に目を通したり、ラジオ放送、書物や映画などのあらゆる資料を研究して本論考をまとめています。
そういった事情ですから、学術的見地からは、本書の「甘さ」を指摘する声は多いのですが、それでも発刊以来、日本人論の定番としては広く認知されており、ベストセラーとして、読み継がれてきたことは事実。
日本人としては、当たり前すぎて、自らは決して気づくことのできなかった視点を容赦なく指摘されているなと思う点は多々ありました。
なるほど。
アメリカ人から見ると、日本人はこう見えるのかということを示してくれたと言う点では、なかなか興味深い内容でしたね。
江戸時代に、三百年もの鎖国を経験してきた日本は、ややもすると、世界の空気は読まずに、日本だけで通じればそれで良しという自国完結的な文化や国民性を育んできたきらいがあります。
ですから、その中での常識の特異性には、気がつかないか、あるいは気がついても意識的に問題視してこなかった伝統があった気もします。
その意味では、全く違った文化を持つアメリカ人女性からの考察は、それなりの説得力があります。
ベネディクト女子がまず指摘したのは、日本人の持つ二面性です。
日本人の多くは、頑固さと順応性、忠実さと不忠実さ、勇敢さと臆病さなどの性格が、ケース・バイ・ケースで、複雑に錯綜しあっていると指摘します。
つまり、この相反する人間性が、1人の人間のなかに、矛盾を孕んだまま、同居をしていると言うわけですが、これは個人的には、人間個人の問題というよりは、むしろ、置かれた環境によって決定されてくる「立場主義」とも言われるべきものなのではないかと言う気がしています。
山本七平氏の「空気の研究」を先日読んだところですが、日本人は、己の意志は捨てて、その場の空気の中に自分を同化することをよしとする国民性があることは認めざるを得ません。
日本人の多くは、その「場」の中で、自分を浮き上がらないようにするというメンタリティが、いろいろな意味で、結果的には自己防衛につながると言うことを本能的に理解している国民だという気がします。
集団の中で、どう振る舞えば自分が一番得かを判断する技に長けていると言うことは、見方を変えれば、日本人くらい隷属させやすい国民はいないと言うことになるのかもしれません。
女史は、日本人の精神性についてこう指摘しています。
軍事的な劣勢は精神力によって巻き返すことが可能という暗黙の共同的な認識を持つ。
つまり、武器の物質的なマイナスは、精神力で補うことが可能だと言う精神論が、広く国民に浸透していると言うわけです。
この辺りは、儒教や仏教の影響が大だと言うことは、もちろん、ルース女史も指摘していますし、江戸中期の武士の修養書であった「葉隠」にある一節「武士道とは、死ぬことと見つけたり」というキラーワードは、戦時中の日本にも脈々と引き継がれ、後の日本軍兵士の精神性を支配し、ついには神風特攻にまで至っていることは明白。
死を恐れぬという美学が、軍人や国民たちを拘束してしまっていれば、その精神論が、日本人の精神力に悲劇的な力を与えていてもなんの不思議ではありません。
これは、戦争に勝利したアメリカにも、一定の恐怖心を植え付けました。
ルース女史は、日本語にある「恩」という概念に注目しています。
日本人にとって「恩を受ける」と言うことは、その相手に感謝すると言うことだけでは終了しない、もっと根深いものがあると指摘しています。
つまり、「恩」を受けたら、日本の場合には、それと同時に、「恩を返す」という債務も発生することを意味すると言うわけです。
これは、親子間にも厳然と存在。日本の場合は、親から受けた恩は、生きているうちに、必ず返すものというのが国民的常識になっていると言われれば、それは確かにうなづけるところ。
「子を持って初めて知る親の恩」という言葉もあるとおり、日本人には、外国人の感覚からすれば驚くほどに、受けた恩は返済するべきものという感覚が刷り込まれているように見えたわけです。
本書では、そのサンプルとして、「忠犬ハチ公」の実話をあげていますが、確かに、「鶴の恩返し」「文福茶釜」などの、恩返し民話は、小学校の教科書の定番だった記憶があります。
2010年に大ヒットした「トイレの神様」という曲は、育ててくれたおばあちゃんに対する恩に応えられなかった孫の切々とした心情を歌った曲でしたが、やはり「ちゃんと育ててくれたのに、恩返しもしてないのに・・」というくだりでは、わかっていても涙腺が緩んでしまったものです。
親だけではありません。「仰げば尊し我が師の恩」と言うぐらいですから、教わった教師たちも、「恩返し」の対象です。
ルース女史は日本人の多くは、この「恩返し」債務履行を、日本人の常識的美徳として背負い込んでいると指摘します。
では、アメリカに「恩返し」はないのか。
感謝の気持ちは、欧米の人たちの中には薄いものなのか。
いやいや、そんなないことはないでしょう。
しかしこの辺りを、キリスト教圏の国は、すべて「愛」で片付けてしまいます。
愛とは、無償で与えること。
債務ではなく、愛というわけですから、親から子の愛は本能的にむしろ当たり前のこと。
当然ながら、そこには返済義務などは発生せず、与えられた自分への愛は、そのまま自分の子供たちに向けられることで自然完結してしまうというわけです。
愛は愛で、もちろん素晴らしいもの。
それを否定するつもりはありませんが、その愛を、正面切って表現することに、いくばくかの抵抗感を感じてしまう日本人独特の奥ゆかしさは、確かにあるかもしれません。
恩を債務として背負い込んでしまうところに、愛に対していかにも不器用な、日本人の屈折したメンタルが垣間見えるような気もします。
日本人の場合「ありがとう」が登場する場面で、頻繁に使われるのは、むしろ「すみません」であることが多いと言うのは実感します。
この「すみません」には、感謝の念以外に、微妙に自分に対する否定的意味合いが含まれると女史は指摘します。
江戸時代の武士は、「すみません」と言わずに、「かたじけない」という言い方をしていましたが、ここには、明らかに、相手から恩義を受ける自分を恥じているというニュアンスが含まれています。
ここから、日本人は無条件かつ一方的に何かを受け取るということに異常な警戒感を抱く国民であるということが読み取れるわけです。
確かに、愛情に対してのリアクションが、欧米人のように上手にできない不器用さは、日本人としては認めざるを得ないところ。
無償の愛に素直になれず、「ただより高いものはない」と勘繰ってしまうひねくれた感情は、日本人特有のものだと言われてしまえば、認めざるを得ません。
いずれにしても、受けた恩に対しては義務が発生するという、長い歴史を通じての「刷り込み」が、天皇、国家、法律には逆らわずに従順たれという、今に通じる日本人の国民性を培ってきたことだけは間違いなさそうです。
日本人においては、「恩」を返すことが義務になっているとルース女子は指摘しましたが、義務とは微妙に違うニュアンスで、義理ということも指摘しています。
日本において、この義理を体現したのはなんといっても東映任侠映画全盛時代の高倉健でしょう。
義理の、本来の意味として、筋としては不本意であったとしても、成り行き上返済しなければならないものとして捉えられることは多いと思います。
まさに、「そちらさんには恨みはありませんが、これも渡世の義理。死んで貰います。」の世界です。
元来義理の精神は、目上の者に対する義務、つまりそれは忠義心にも勝るものでした。
江戸時代であれば、主君に対して「義理を返す」ということは、すなわち自らの生命をも賭けるということと同義。
しかし、現代では、それはもっと広い意味で、使われています。
自分の意志に背いた形で義理に基づく行為を行うことを強制されるという基盤が、管理社会の中に形成されているのは事実でしょう。
人々は自分の意志がどうのこうのよりも、むしろ自分が世間や身近な親類から、義理を知らないものであると陰口を叩かれることを嫌う傾向にあると言うわけです。
やはりここにも、負債の概念が登場してきます。
では、一度「恩知らず」の汚名を着せられてしまったらどうするか。
この場合、日本人の多くは、自らが積極的に受けた汚名を除去し、再び名誉を取り戻そうと躍起になると言うのが女史の指摘。
「汚名返上」、「名誉挽回」という言い方は、確かに日本社会のさまざまな場面で登場してきます。
教師が生徒に対して、「知ったかぶり」をするのも、先生が何も知らないという汚名から、自分の立場を自己防衛する行為だと女史は説明します。
つまり、日本人のDNAに深く刻まれているのは、「恥」という概念。
ルース・ベネディクトは、この点を、日本人特有の文化として、大きな関心を寄せています。
侍の切腹は、まさに「恥」に対する、最も過激な自己解決法と考えることもできます。
さて、お次は恋愛事情。
ベネディクト女史は、日本人は、結婚と恋愛を切り離して考える傾向があると指摘しています。
確かに、欧米には「お見合い」という文化はないようですから、そう思われてもやむなし。
先の大戦以前の日本では、恋愛結婚がまだ珍しいくらいの時代でしたから、彼女の方から見ればこれは確かに、日本だけの特殊事情だったかもしれません。
それに加え、女史は日本の恋愛小説における主要人物には既婚者が多いと指摘しています。
彼女は、その代表作として「源氏物語」をあげていますが、実際どうでしょう。
我が国の恋愛小説を具に読んでいるわけではありませんから、なんとも言えないところですが、純愛よりも不倫を扱う方が、恋愛小説としては面白くなるというのは、洋の東西を問わないのではという気もしてしまいます。
最も、結婚と恋愛が別次元のものと考えられる日本人は、潜在的に不倫恋愛に傾倒する資質を持っていると考えても、不思議ではないかもしれません。
戦前なら、妖婦阿部定事件がありましたし、ダブル不倫くらいの純愛はないというノリで書かれた渡辺淳一の「失楽園」も、確かに既婚者恋愛です。
最近では、「昼顔」なんていうドラマもありました。
ここは、日本の恋愛小説に不倫が多いと言うことを示すエビデンスが欲しいところ。
映画マニアの個人的感想としては、この点はどちらも似たようなものではと思ってしまいます。
但し、これに絡めて、女史は、日本人は善と悪とを明確に区別することを否定する傾向があるとも言っています。
日本人は、勧善懲悪を、諸手を挙げて歓迎するという道徳観は持たないと言うわけなのですが、確かに我が国では、アメリカが製作するマーベル映画のような、わかりやすい「正義大好き」映画は敬遠される傾向にあるかもしれません。
黒澤明の「七人の侍」にしてもそう。
黒澤監督は、野武士たちと戦う農民たちの「いやらしさ」もきちんと描いています。
不倫はいけないとか、正義は勝つとか、確かに理想を言えばそうかもしれませんが、人間というものは、実はそんなに単純なものでもないと言いたい気持ちにはなります。
教育につていての指摘はちょっと面白いものでした。
人生の中において、自由である期間が、日本とアメリカでは正反対だと言うんですね。
まず日本の場合。
日本では、自由が最大限に与えられるのは、幼児期と老年期。
しかし、人生の中心とも言える青年期、壮年期になると、社会や学校からはきつい束縛が課せられることが多くなり、その自由度は激減する。
しかし、アメリカでは、幼児期にはどの家庭も厳しく躾けられ、成人になるに従って、自分の責任において自由であることを家庭も社会も認めていくようになると言うわけです。
つまり、社会的にも経済的にも人生のピークに達した時期に、アメリカ人の多くはマックスの自由度を獲得しているのに対して、日本人の場合は、その時期に最も自由を拘束されているという社会の仕組みになっていると言うこと。
残念ながら、個人的にアメリカ人の知り合いはいませんので、その辺りのチェックはできませんが、アメリカ映画は浴びるように見てきましたので、なんとなくその辺りの空気は理解できる気もします。
そもそも、子供に対する考え方自体が、日本とアメリカでは違うと言うのはわかります。
日本人は、子供を持つ際の心理的背景には、情緒的満足の他に、家や血統を守るという意思が強く働くと言う点が特徴的だと言うのは、よく言われるところ。
この価値観を守るために、家庭内での女性の役割分担が決められていたという点は否めません。
戦前の女性たちの多くは、母親になることで、自分達の「地位」を獲得してきたという側面はあったでしょう。
日本人は名前に対する義理を負っているとベネディクト女史は指摘します。
どう言うことか。
これが、本書の核心でもある「恥」の文化論へと繋がっていくわけですが、つまり多くの日本人は、社会的に恥をかかないこと、嘲笑されないこと、村八分にされない事などに、過剰に反応しながら生きていると言うわけですね。
要するにこれは、物事の良し悪しを決定する物差しが、自分の内側ではなく、世間という外側に設定されていると言うことを意味しています。
つまり、気になるのは、自分よりも、いつでも他人の目だと言うこと。
自分が属する集団の価値観に、自分を殺してでも擦り寄り、忖度することが、自分の地位や身分を確保する最善の処世術であると言うことを、長い歴史の中で日本人は学習してきたのかもしれません。
集団の中では、目立たずに、従順であれ。社会からはみ出そうとすると損をする。
つまり、それが、「恥の文化」の本質ということでしょう。
これに対して、アメリカはどうなのか。
キリスト教に対する信仰が根底にある文化では、一家揃って、日常的に教会に礼拝する習慣が映画などではよく描かれますが、ここでよく登場するのが懺悔のシーン。
ここで人々は、自分の心の葛藤や、罪の意識を告白しているのですが、なぜそうするのかといえば、キリスト教の教義では、そうすれば、神の御名によって、その人は許され、救われると説いているからでしょう。
つまり、自分の内面を晒すことで、良心の呵責からも解放されるというわけです。
なるほど。
熱心なクリスチャンである多くのアメリカ人にとっては、世間の目などよりも、むしろ神からの赦しの方が自分にとってはより重要であるというプライオリティがあることは想像できます。
つまり、日本人が「恥の文化」という、社会からの外部圧力に拘束されているのに対して、アメリカ人が内省的に自分と向き合う「罪の文化」が、キリスト教への信仰の歴史の上に、習慣化されているというわけですね。
これを踏まえた上で、ベネディクト女史が、導き出している結論とはつまりこう言うこと。
日本人は、失敗することや、他人からの誹謗中傷や、拒絶に晒されることに対して、異様に傷つきやすい。
なるほど、SNSにおける炎上を苦にして自殺する若者などのニュースを聞いたりすると、この75年も前のアメリカ人女性による日本人考察は、確かに現代でも立派に通用するものだと考えさせられます。
アメリカ人にはなかなか理解し難い、矛盾する価値観を無意識に併存させる日本人のややこしさの原因を、ベネディクトは幼少期の教育にあると分析しています。
学校に上がるまでの数年間、日本人の子どもたちは、周囲の大人から、無条件の愛情と、わがまま放題の自由を与えられます。
しかし、学校に上がる頃からは、「あれしちゃだめ、これしちゃだめ」という制約が増え始め、言うことを聞かなければ怒られるというステージへとシフトしていきます。
ベネディクトは、少年期な多感な頃に、この二つのステージをほぼ強制的に経験させられることが、日本人の中に、相反する二つの価値観を共存させる最大の原因になっていると言うわけです。
幼少期の虐待が多重人格を産む原因となっていると言うのは、よく知られることですが、平均的日本人の性格形成に、もしかして、これと同じような原理が働いていたかもしれないという気がしないでもありません。
個人的には、集団に迷惑をかけることを、「恥」と考え、そのためには自分を押し殺すことも厭わないという日本人の気質は、時の政権に、裏でペロリと舌を出されながら、巧妙に利用され続けていると言う気がしてなりませんでした。
現行の政治にそれなりの不満はあるにせよ、そんなことは大なり小なり、どの政権であっても同じこと。
私たちは、日本がひっくり返るような大きな変化は望まないので、多少のことには目は瞑るから、今の政権に頑張ってほしいという消極的保守志向が、日本人の意識の中には深く根付いているのだろうと個人的には解釈しています。
つまり、常に多数派の中にいたいというのが日本人の多数派であるということ。
残念ながら、そこには政治的な主義主張は皆無です。
これが、一時的な交代では有ったにせよ、自民党政権がそう簡単に覆らないで来た最大の理由であるという気はしています。
そういう意味で言えば、現自民党政権からは、何をやらかしても、こんなにも政治には無関心で、物分かりの良い国民はいないと、舐められているような気はずっとしていました。
彼らは、その甘えの上にどっかりと腰掛けて、自分の権利欲と私利私欲を満たすとだけにご執心で、日本の未来のことなど眼中に入れずに、政権に居座り続けることだけに熱心な気がします。
選挙には無関心だけれと、税金はちゃんと払う。問題はあっても文句は言わない。こうなれば為政者にとって、こんなに都合のいい国民はいません。
アメリカという国は、国民の権利として、現行政府の転覆権が憲法で認められているような国です。
「おまえら、下手やってると、いつでもひっくり返すぞ。」
国民にこの権利が認められているわけですから、アメリカの政治家たちも、うかうかはしていられません。
日本なら、国家転覆罪は、殺人よりも重い刑となるわけですから、この辺りの文化の違いが、日本人とアメリカ人の価値観を決定的に線引きしているような気もします。
いずれにせよ、アメリカ人にとっては、何かと不可解な日本人の行動パターンは、何事も正義と愛で解決しようとする彼らのような、明快な思考回路の上には成立していないと言うことだけは確実。
日本人は、そんなに単純明快には出来ていないようです。
「菊と刀」というタイトルから、本書は最初、天皇家と侍たちの関係を表した本なのかなと勝手に勘違いしていましたが、ここで女史がいう「菊」とは、芸術一般のメタファのようです。
ここから転じて、菊とは平和の象徴。
そして、刀をもちろん、人を殺傷する武器のこと。
つまり、このタイトルで相反する二つの価値観を併存させる日本人をシンボリックに表現したのが本書「菊と刀」でした。
このベネディクト女子の渾身のレポートをしっかりと参考にした上で、マッカーサー主導による占領政策は実施されました。
しかし、命すら惜しまぬほど熾烈な徹底抗戦をしてきた日本人は、いざ蓋を開けてみれば、驚くほどに従順に、連合軍による新しい政策を受け入れました。
彼らの予想に反して、反抗的な姿勢を見せる日本人は皆無。
いや、アメリカ軍の進駐を、むしろ歓迎すらした者もいたわけです
この「変わり身の速さ」も、日本人の特徴といえばそうなのでしょう。
これは自分よりも、常に外部の権威に価値観の軸を置いてきた日本人だからこそ出来た「離れ業」だったかもしれません。
アメリカが、日本のこの根源的な民族性を、きちんと学習した上で、日本の統治をおこなってきたことは、今なお地位協定でガッチリと日本を統治下に置き続ける基礎になっていることは間違いのないところ。
だとすれば、彼らにとっての「菊と刀」に相当する、アメリカ人の本質論を、日本もしっかりと学習するところから始めないと、アメリカとの外交問題は、あちら様の言うがままで、この隷属関係は永遠に続くことになるのではないかと言う気さえしてしまいます。
さて最後に、本書を読んでみて、最も気になってしまったことを一つ。
ベネディクト女史は、日本人の性意識についても触れています。
こんな一節がありました。
「日本人は自己の欲望の満足を罪悪とは考えな い。(中略)彼らは肉体的快楽をよいもの、涵養に値するものと考 えている。快楽は追及され尊重される」
恋愛感情表現には不器用でも、日本人は、ことセックスという快楽になれば、そこに多様なエンターテイメント性を見い出す達人であると言うことは、薄々と感じていました。
浮世絵における、大胆な春画のおおらかさにその端を発する文化とも思いますが、現在の日本のAVのマニアックな多様性には目を見張るものがあると言う点は、その他のあらゆる分野での凋落傾向が目につく日本にあって、アニメ文化とともに、他国の追従を許さない圧倒的なクゥオリティを有している稀有な文化であると言うことは申し上げておきたいところ。
日本在住のアメリカ人AV女優が、日本人のあらゆるニッチな性嗜好にも対応した、痒い所に手が届く用な高水準の多様性は、絶対的にアメリカ人には真似のできない世界水準であると、自分のYouTubeチャンネルで褒めちぎっていました。
確かに、僕の知る限りでも、あちらのエロ映画は、フェロモンたっぷり系の女優が、圧倒的なナイスバディで、濃密に男優と絡み、オーバーアクト気味に喘ぐという単純明快なものしか記憶にありません。
そこへ行くと、日本の場合、レンタルショップのアダルト・コーナーを覗くだけでも、その多様性には目を見張ります。
熟女、超熟女、巨乳、爆乳、コスプレ、ネトラレ、盗撮、人妻、未亡人、女子高生、女教師、女医などなど。
男子が萌えると思われる性嗜好の追求には、とことん貪欲で、扱わない素材はないと思われるくらいに多岐にわたっています。
この性文化の充実ぶりは、世界中の愛好家からも認められるところとなり、最大手のアダルト動画配信サービスである「FANZA」には、日本人だけでなく、世界中から多くのアクセスが殺到していて、自分の嗜好にフィットした動画がダウンロードされてるのだそうです。
気がつけば、この三十年間で、何もかもが世界の二流国に転落してしまった日本において、いまだに、世界のトップを誇れる文化があると言うのは、誇らしい限りです。
こんな現状を、ベネディクト女史はまさか予想できなかったでしょうが、もし彼女がこれを知ったら確実に眉を顰められたかもしれません。
フリー・セックスの本場は、あちらの方だとは思いますが、多種多様な社会的な外圧の中で育んできた日本人の性嗜好だからこそ、フェチでマニアックな、性文化がAVという形で花開いたと言うことはあるのかもしれません。
そうなってくると、「菊と刀」が、なんだかもっと違うもののメタファにも感じられてしまいますが・・・
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