さて、山田洋次監督が復帰した第5作目です。
本作を再び監督するにあたって、山田監督は、自分がメガホンをとっていないを前作、前々作に感じていたという違和感をスッキリさせ、ドラマ時代から脚本を担当してきたこのシリーズを、自分なりに完結させようと思っていたようです。
それは、キャスティングに、見事に現れています。
ドラマ版のレギュラーだった俳優が、本作には多くゲスト出演しているんですね。
本作のマドンナ節子を演じる長山藍子は、ドラマ版でさくらを演じていました。
ドラマ版で、博を演じていた井川比佐志(ドラマ版では博士)は、本作では、節子の恋人木村を演じています。映画では寅の恋敵を演じるわけです。
そして、節子の母親富子は、ドラマ版では「おばちゃん」を演じていた杉山とく子が演じます。
つまり、ドラマと映画を通じて、「男はつらいよ」を今まで盛り上げてきたキャストを本作に大集合させて、最終作品として締めくろうということだったのでしょう。
リアルタイムではありませんでしたが、ずっと後になってモノクロのドラマ版の最終回だけを見たことがあります。(一部だけだったかも〕
もちろん、個人的には映画の方を先に見ているので、長山藍子のさくらにの方に違和感がありましたが、逆にドラマ時代からのファンにとっては、そのさくらがマドンナを演じる本作は、なかなか感慨深いものだったかもしれません。
映画の冒頭は、2作目に引き続き夢のシーンから。
後に本シリーズの名物となる夢のシーンでは、レギュラー陣が寅の設定に合わせて、いろいろなとコメディ・タッチな役を演じていくことになりますが、本作では、まだそのままの本人役で登場。
寅の見る夢は、おいちゃんの臨終シーンです。
「みんな俺が悪いんだ」と、夢の中で泣き崩れていると、旅館の女中に起こされる寅。
このシリーズに、寅さんが夢から覚めるシーンは、幾度となく登場しますが、毎回思うこと。
寅さんの寝起きの顔って、いつもリアルなんですよね。
こういうのって演技で出来るものはありません。実際にしばらく寝てから撮影が始まるのか、あの小さい目だからそう見えるのか。
山田監督がどんな演出をしていたのか、聞いてみたいところです。
さて、虫が知らせたのか、なんだか夢が気になって、柴又に戻ってきた寅は、上野駅から、とらやに電話をかけます。
「おいちゃん生きてるか」と軽口を叩く寅を少々揶揄ってやろうと、おばちゃんが「実は死にそうで、長いことなさそうだよ」と伝えてしまったものだから、寅は、あれは正夢だったかと早合点。
葬儀屋を手配したり、御前様に報告したり、商店街にふれまわったりで、とらやはてんやわんやの大騒動になってしまいます。
御前様にも諌められる事態になってしまいますが、腹の虫の治らない寅は、おいちゃんたちと大喧嘩。
そして、こういう場面を収めるのは、やはりさくらでしたね。
三作目、四作目では、さくらの出番が明らかに少なかったので、とらやの場面ではどこか物足りなさが残りましたが、本作では、山田監督と共に、めでたく、さくらも本格復帰というのが僕の印象。さくら・イズ・バックです。
やはり、彼女の存在は、このシリーズには欠かせません。
暇を持て余してブラブラしている寅は、隣の朝日印刷に乱入。
「いよお。労働者諸君。やってるか。」
工場見学の学生を揶揄ったり、博たちの仕事を妨害して大顰蹙。
そんなところへ、舎弟の登が訪ねてきて、昔お世話になった北海道の正吉親分が危篤だということを知ります。
しかも、親分は寅に会いたがっていると聞いて、居ても立ってもいられなくなる寅。
心はあっという間に北海道に飛んでしまいましたが、寅の財布に先立つものはなし。
あちこちに金の無心をしますが、全て断られます。
最後の頼みはやはりさくら。
しかし、さくらは涙ながらに寅に訴えます
「額に汗して油まみれになって働く人と、いいカッコしてブラブラしている人と、どっちが偉いと思うの❓地道に働くってことは、尊いことなのよ。」
このさくらのセリフは、本作における重要な伏線となっていきますね。
神妙に妹の説教を聞いていた寅に、結局さくらはお札を一枚手渡します。
それを腹巻きに収めると、寅は、登と一緒に北海道へ。
あのお札はおそらく、五千円札か一万円札でしょう。
ん❓待て待て。
いくら50年前とはいえ、そんな金額で、大人二人が、北海道まで行ける❓
まあその辺りは置いておくとしましょう。
さて、札幌に到着した寅と登は、正吉親分の入院している病院を探し当てます。
満足に口も聞けず、ヨイヨイになっている正吉は、子分の一人に付き添われながら大部屋のベッドの上。寅に涙ながらに訴えます。
「息子に会いてえよお。」
正吉親分には澄夫(演じるのは松山省二)という息子がいました。澄夫は正吉が妾に産ませた子供で、いわゆる私生児です。寅の境遇と相通じるところがあります。彼は小樽で機関車助手をしていました。
探し当てた澄夫は、蒸気機関車の釜戸に石炭をくべながら、額に汗し、顔を真っ黒にしながら働いていました。
このシーンの撮影は、小樽の築港機関区などで行われていますが、僕が子供のころに育った実家の近くには、埼玉県の大宮機関区がありました。今は、さいたま新都心になっている辺りです。
当時はまだ、蒸気機関車も走っていて、デゴイチが煙を上げて操作場に入っていくところは毎日のように眺めていましたね。機関車が画面に出てくると、なんだか懐かしい想いでいっぱいになります。
さて、寅が事情を説明して連れて帰ろうとすると、澄夫は寅にこう言います。
「僕には父親はいません。」
蒸気機関車に乗って、函館本線を走り去ってしまった澄夫を、このまま帰るわけにはいかない寅は、登と一緒にタクシーで追いかけます。
そして、やっと追いついた寅に、澄夫は重い口を開きます。
極道だった父親は、女性に暴力を振るい、母親が死んだ時も、優しさのかけらも見せることのなかったことを告げ、その父親には二度と会うつもりはないときっぱり。
澄夫の言葉を、自分の人生を重ね合わせ、神妙な面持ちで聞く寅。
諦めた寅は、病院に電話をしますが、すでに正吉は亡くなった後でした。
どれだけ昔羽振りが良かろうと、結局極道は極道。その哀れな末路を、その目に焼き付けた寅は、駅前の寂れた旅館で、舎弟の登に故郷へ帰れと諭します。
澄夫の姿を胸に焼き付けた寅は、別人(のように)になって柴又に帰ってきます。
とにかく単純なだけに、一度思い込んだら何事も極端なのが寅。
テキヤ家業からはスッパリ足を洗って、これからは「汗と油にまみれて地道に働く」と一同に宣言。
しかし、そんな宛などあるわけもない寅に、おいちゃんたちはあれこれと就職先の相談。
なんのかんのと寅がイチャモンをつけているところへ「汗と油にまれた」博が現れます。
寅の目がキラリ。灯台下暗しです。寅がイメージする理想の職場が、とらやの隣にありました。
翌朝、博からもらったオーバーオールの作業服に身を包んだ寅は、意気揚々と朝日印刷へ。しかし・・・・
結局タコ社長に追い出され、その足で柴又中で就職活動を展開するも断られた寅は、ふてくされて江戸川に浮かぶ小舟に寝そべって、夏の空を見上げます。
さくらが、土手の上を兄を呼びながら探す中、岸を離れた小舟はユラユラとどこへ向かう❓
それからしばらくして、さくらと博のアパートに「油揚」の小包が届きます。
なんと、それは、江戸川の川下にある浦安の豆腐店「三七十屋」から届いたものでした。
「俺はここで一生地道に働くかもしれない」という寅の手紙に、喜びながらも一抹の不安を感じたさくらが、三七十屋を訪れると、そこには「汗と油にまみれて」油揚を揚げている寅の姿。
その豆腐店を切り盛りしているのは富子(杉山とく子)で、店の近くの美容院で働いている娘の節子(長山藍子)が一緒に住んでいます。
寅はひょんなことから、この店に転がり込み、住込店員として働いていたのです。
もちろん、この娘節子が本作のマドンナ。
心配になって、あいさつ方々寅の様子を見に行くさくら。ここで、ドラマ版と映画版の新旧さくらのご対面となります。
寅の手紙の「一生ここで」の意味を汲み取ったさくらは、別れ際に寅にそっと囁きます。
「考えることも地道にね。あんまり飛躍しちゃダメよ。」
しかし、そんな妹の心配も上の空。もうすでに、勝手に節子と所帯を持つことを妄想してしまっている寅には、その言葉の意味は届きません。
そんな時、御前様にクビにされ、浦安の神社でテキ屋をしていた源公とバッタリ会う寅。
源公を三七十屋につれてくると、寅はいい調子で「地道に働くことの大切さ」を説きます。
しかし、節子には、恋人がいたのです。
毎日のように三七十屋に豆腐を買いに来る木村(井川比佐志)です。
彼は、国鉄勤務でディーゼル機関車の運転士。高崎機関区への転勤が決まっていて、この機会に、節子にプロポーズをしたばかりでした。
しかし、母親を独り残して結婚することに抵抗のある節子は、ある月夜の晩、どうしても店をたたみたくない富子と大喧嘩をして、寅の寝泊まりしている物置小屋を訪ねます。
寅の身の上のことなどを聞いているうちに、節子はポロリ。
「ねえ寅さん。もし出来たらよ。出来たら、ずっとうちの店に居てくれないかしら。」
真剣な節子の表情に、これを逆プロポーズと勘違いした寅は、完全に夢見心地。
寅さんがずっといてくれるなら大丈夫と節子は結婚を決意します。
その夜、ささやかな祝杯に、粋なアロハを着て登場する寅。
そこに、木村がスイカを持って訪ねてきます。
「ああ、やだやだ、おら知らねえよ。」
おいちゃんがいれば、間違いなくそんなセリフの出る、本作の修羅場、いわばクライマックスですね。
微妙な空気の中、節子は、改めて木村に、寅さんがずっと店を手伝ってくれることを伝えます。
「あれがとうございます。それは都合か良かった。」
都合が・・ん❓・・寅の顔色がみるみる変わります。
事情を察した寅は、もう酒も喉を通りません。
「お、おめでとう。さっちゃん、何も教えてくれなかったし。」
マドンナは節子ですので、「さっちゃん」は完全に言い間違えているのですが、これが渥美清のアドリブだったのか。それとも「言い間違え」と分かった上で、山田監督があえて採用したものなのか。
そのあたりはわかりませんが、なんだか妙にリアルでしたね。
かくして、寅のシリーズ5回目の失恋が、ここに悲しくも成立。
翌朝、自分の代わりにこの店でずっと働けと源公に言い渡して、寅は黙って三七十屋を後にします。
その夜、江戸川では花火が打ち上がっていました。
とらや一同が花火大会に出かけようとしていると、そこに三七十屋からの電話です。
「寅さんが突然いなくなってしまったのだけれど、そちらに行っていませんか。」
するとそこに生気を失った寅がフラリと帰ってきます。
何が起こったかはすぐに想像のついたさくらやおいちゃんたちは、そんな寅を見て言葉をなくします。
鞄を下げて旅に出ようとする寅を追いかけるさくら。
帝釈天の参道は、花火見物に出かける人たちで溢れています。
「またいっちゃうの❓」
「うん。やっぱり、地道な暮らしは無理だったよ。さくら。」
もうそれ以上は何も言えないさくら。
歩き去る寅の後ろ姿を見送ると、夜空には一面の花火が広がります。
それからしばらくして、さくらのアパートを訪れた節子。
寅の純粋な気持ちを傷つけてしまったことに罪悪感を持ちつつも、それを言い出せない節子の気持ちを察して、さくらはこう言います。
「兄は結局ヤクザな人間ですから、地道な暮らしなんて飽きちゃったんでしょ。いつもそうなんですよ。」(決して、節子さんのせいじゃありませんから、心配なさらないで。)
ラストは、海岸で偶然にも登と再開する寅。
すかさず仁義を切る寅の顔は、いつもの「フーテンの寅」に戻っています。
「兄貴。カタギになったんじゃないのかい。ちっとも変わってないぜ。」
これに答える寅の最後の台詞がなかなかでした。
「バカヤロウ。徐々に変わるんだよ。いっぺんに変わったら、体に悪いじゃねえか。」
山田監督は、ドラマ版の最終回で寅を殺してしまった失敗の轍を踏まないように、このラストに、精一杯の「男はつらいよ」の完結の意志を込めました。
しかし、なんと本作の観客動員が、前作の五割増しの大ヒットとなり、松竹からは当然続投要請。
ここから、盆と正月の年二作製作という、「男はつらいよ」公開スタイルが確立されていきます。
そして、観客動員数も右肩上がり。
「男はつらいよ」シリーズは、映画興行全体が衰退の一途を辿る中、松竹にとっては救世主となっていきます。
「男はつらいよ 望郷編」は、テキ屋家業のフーテンの寅が、はたしてカタギになって「地道な暮らし」が出来るかというテーマで撮られた作品です。
もちろん、美しいマドンナがいればこそという前提で映画は作られますが、身も蓋もない言い方をしてしまえば、たとえ寅がマドンナと一緒になれたとしても、最終的にはその暮らしは寅には出来ないことを観客はわかっています。
そして、これもまた身も蓋もない言い方になってしまいますが、そんなマドンナと仲睦まじく、真面目な暮らしをしている寅さんなんて、観客は望んでいないこともまた事実。
かくして、車寅次郎は、勝手気ままに風のように日本中をさすらい、美しいマドンナと出会っても、決して結ばれることはないという運命を背負って、観客にとっては羨望の「非日常」をスクリーンの中で演じ続けていくことになります。
「けっこう毛だらけ猫灰だらけ。お尻の周りはクソだらけ。」
こんな下品な粗忽で粗暴な男が、日本映画界を牽引するヒーローになっていくのは、ある意味で痛快ではありませんか。
さて、次回は第6作「男はつらいよ 純情編」です❗️
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