さて、だいぶ寄り道をいたしましたが、またこのシリーズに帰ってまいりました。
1971年の暮れに公開された、シリーズ第8作目です。
本作のマドンナは、池内淳子。
この人は、僕の世代では映画の印象はあまりありません。
但し、テレビドラマでは、よく見かけました。
夜の9時になると、必ずどこかのチャンネルのドラマで主演をしていたというイメージですね。
まだこの時代は、我が家でもテレビは一家に一台の時代。
7時台から8時台にかけては、子供にテレビの優先権はありましたが、この時間帯になると、チャンネル権は両親に移動。
我が家の場合は、映画劇場でなにか目玉の作品をやらない限りは、基本ドラマ枠にチャンネルが合わせられていました。
当時はテレビっ子でしたので、引き続きこの時間帯もテレビのある茶の間でゴロゴロしていた僕は、自然と両親のテレビ鑑賞に付き合うことになります。
あの当時、この時間帯の「顔」といえば、京塚昌子、山岡久乃といった、しっかりもののお母さん俳優たち。
後の「渡る世間に鬼はなし」へと繋がる黄金コンビ橋田壽賀子、石井ふく子の路線ですね。池内淳子も二人の関わったドラマにはかなり出演していました。
特に、僕の記憶に残っているのは東芝日曜劇場の「女と味噌汁」シリーズ。
但しここで、彼女が演じたのは、母親役ではなくて、しっかりものの芸者役でした。
もちろんホームドラマでの母親役も演じていましたが、彼女の場合は、前述の二人にはない、そこはかとない気品と色気がありましたので、コテコテの庶民派おっかさんにとどまらずに、もっと幅広い役をこなしていた印象です。
Wiki してみると、実際彼女が主演すると、ドラマの視聴率が軒並みアップするというので、「20%女優」という異名があったそうです。
2010年に76歳で没している彼女ですが、本作の公開時は38歳。
マドンナとしては、3作目の新珠三千代、6作目の若尾文子とほぼ同世代で、渥美清とも年齢のつり合いはとれる大人のマドンナです。
本作の大御所俳優枠には、1作目以来の志村喬。
もちろん、博の父親・諏訪颷一郎を演じるわけですが、彼が寅次郎に語って聞かせる話の中に出てくるリンドウの花は、本作の重要なアイテムとして、映画の中の印象的なシーンで度々使われることになります。
そして、本シリーズのレギュラーとして第1作目から、おいちゃん役を演じ絶妙なコメディ演技を披露してきた森川信が、本作公開の三ヶ月後に急逝。
何度聞いてもニンマリしてしまうあの「マクラ、ちょっとサクラとってくれ・・」というおいちゃんの定番ギャグは、本作が見納めになりました。
これを分かった上で本作を見ていると、映画の中でおいちゃんが言う「もう長くねえよ。俺は」というセリフには、ちょっとドキリ。
さて、本作のアバンタイトルは、まだ恒例の夢のシーンではありません。
登場するのは、旅回りの「坂東鶴八郎一座」。
雨で客足が途絶えて休演している芝居小屋に、寅次郎が訪れています。
座長役の吉田義男は、僕にとっては馴染みの顔でした。
当時よく見ていたテレビ番組「悪魔くん」で、初代メフィストを演じていた俳優です。
その他にも、子供向け特撮映画では、ちょくちょく見かける顔でしたので、当時はもちろん名前も知りませんでしたが、その強烈な風貌で印象深い俳優です。
雨の中、旅館まで傘をさして送ってくれた一座の看板女優小百合(岡本茉莉)に、礼金代わりに渡したお札を間違えて・・・
これは、寅さんギャグの定番になってきましたね。
さて、おなじみのタイトルの後、まずは寅次郎の里帰り騒動。
とらやの面々は、寅が旅に出ている時は、基本帰ってくる時には温かく迎えてやろうという算段をするのですが、いざ寅が帰ってくると、なぜかすべてが裏目に出て結局は大喧嘩。
寅はまた旅に出て行く。これが基本パターンです。
「ちゃんと勉強しないと、寅さんみたいになっちゃうよ。」
さくらが近所で買い物をしていると、奥で母親が子供を叱る声。さくらはこれに落ち込みます。
一同が今回こそ、寅を温かく迎えてやろうという算段をしているところにフラリと戻ってくる寅。
しかし、案の定歯車は噛み合わず、寅は不機嫌のまま飲みに行ってしまいます。
いつもの通りに「あー、やだやだ。」と首をふって奥座敷へ引っ込むおいちゃん。
夜になって、飲んだ先でバッタリあったという昔の仲間を連れて上機嫌で寅が戻ってきます。
このうちの一人(谷村昌彦)は、「望郷編」では元テキヤの親分の子分役で、病院で死期の迫った親分の看病をしていました。
でも、僕の記憶にあるのはテレビ番組「忍者ハットリくん」で、演じた「ハナオカジッタ」の役。
こういう子供の頃にテレビで見た顔ぶれというのは不思議と忘れないんですね。
さて、おいちゃん、おばちゃんは怒り心頭ですが、ここを取りなすのはやはりさくら。
寅に歌を催促されますが、歌い出すさくらは次第に涙声に。
自分の愚かな行動が、この妹をここまで悲しませていることに気がつき、寅の酔いは一気に冷めます。
そして、強い風が吹く中、寅はそのまま旅へ出てしまいます。
柴又へ戻って来れば、結局はみんなに迷惑をかけることになってしまう寅。
「出てけ。てめえの顔なんか見たくもねえ」という騒動を起こしても、最後は、さくらに「いっちゃうの?」言わせないと成り立たないのがこのシークエンスの難しさ。
その展開がかなり度を超えた迷惑だったとしても、そこは喜劇役者・渥美清の面目躍如で、その顰蹙を笑いに変えてしまうことで、観客を納得させてしまいます。
しかし、今回の寅の顰蹙っぷりは、個人的にはちょっと笑えませんでした。
さくらが、「かあさんが夜なべをして」と、寅の前で歌い出すシーンは、ちょっと辛くて見ていられなかったというのが正直なところ。
どうせ反省するなら、さくらに歌わせる前にしてほしかったところ。
もっとも、それでは映画的なメリハリがないというところなのでしょうが、ここでまずファンが覚えておくべきこと。
渥美清という天才が演じるからこそ、車寅次郎は、「何をしても」日本中の人に愛される風来坊でいられたということですよね。
基本的に、車寅次郎という人物は、暴力的でヤクザな社会生活不適合者。
よくよく考えてみてください。家族にこんな人物がいたら、やはり普通の「平和な暮らし」は到底無理というもの。
それがそうはならないのが映画のファンタジーで、それを可能にしているのが、よく練られた山田洋次監督の脚本と、渥美清の至芸があってこそだということです。
さて、寅の「困ったちゃん騒動」が、今回はなおも続きます。
博の父から「ハハキトク、スグカエレ」という電報が届いたところから、舞台は備中高梁(岡山県)へ。
すぐに、故郷へ向かう博とさくら。しかし博は、母の臨終には間に合いませんでした。
颷一郎(志村喬)がギリギリまで妻の病状を、息子たちに知らせなていなかったため、死に際に間に合ったのは長男だけ。
告別式がしめやかに行われる中、おいちゃんたちから電話で知らせを聞いたという寅がフラリと現れます。
喪服も着ずに、いつものかっこのままで、焼香を上げようとする寅にあわてるさくら。
モーニングを借りて、そのまま葬列に加わる寅は、もちろん神妙になどしていられるはずもなく、顰蹙行為のオンパレード。
さくらの額からは、終始冷や汗が流れっ放しです。
葬儀が終わり、身内だけの食事の席で、「かあさんは、幸せなんかじゃなかった」と男泣きをする博。
颷一郎は、自分に突きつけられた博の言葉に動揺を隠しきれず、黙って書斎へ。
梅野泰靖、穂積隆信といった芸達者が遺族を演じているので、さくらのセリフはほとんどなくても、場面はしまっています。
ただし、寅さんは参加していないので、いつものコメディ緩和が効かずに、このシリーズでは珍しく、かなり重いシーンになりました。
庭先には、降り始めた雨に濡れたリンドウの花が揺れています。
とらやに戻ってきたさくらが、おいちゃんたちに勧められて、岡山の颷一郎のところに電話をかけてみると、なんと電話口に出たのが寅。
商売の帰りに様子を見に寄ってみたら、颷一郎がしょんぼりとしていたので心配になり、上がりこんでいろいろと話し込んでいたというわけです。
寅はちゃっかりと、そのまま逗留し、連夜の酒盛り。
このあたりにワルギがかけらもないのが、寅のすごいところです。
颷一郎もこの珍入者のペースにあえてつきあい、まんざらでもないご様子。
二人の間には、微妙な信頼関係が生まれていきます。
夕食の後、ほろ酔い気分で、歌い出す寅。歌っているのは「誰か故郷を思わざる」
「女房子供のいない、旅の暮らしは気楽なもんですよ」という寅に向かって、颷一郎は、煙草を燻らせながら、淡々と語り始めます。
「安曇野を旅行中、日の暮れた田舎道を一人で心細く歩いていた時に、庭一面にりんどうの花が咲く一軒の農家に気がついた。
茶の間にはあかあかと灯りがつき、家族たちがにぎやかに食事をしている。この様子を見て、自分はこれが本当の人間の営みというものではないかと思って、急に涙が出てきた。」
颷一郎の話をいつしか真剣に聞き入っている寅次郎。
「人間は絶対に一人じゃ生きていけない。運命に逆らっちゃいかん。そこに早く気がつかないと不幸な一生を送ることになる。」
その庭先にも、咲いているのはリンドウの花。
「あたりまえの家庭の幸せ」に背を向けて生きてきた自分の人生をおおいに反省した寅は、翌朝、颷一郎の書斎の原稿用紙に置き手紙を残すと、備中を後にします。
颷一郎のこのセリフは、実は、息子博から突きつけられたあの痛烈な言葉への、彼なりの精一杯の回答であったようにも聞こえました。
もしくは、自分の不器用さのせいで、幸せにしてやれなかった妻への悔恨が語らせたセリフであったかもしれません。
そしてそれは、家族とは門外漢である寅次郎にだからこそ語ることができた、颷一郎の本心の吐露であったかもしれません。
この白髪の老齢に達している志村喬の姿は、個人的には、あの黒澤明の名作群で知るよりも前に出会っている、テレビドラマ「お荷物小荷物」での昔気質な運送会社の家長の姿がダブります。
このドラマが放映されていたのは、ちょうど本作公開より1年前。
当時のドラマ・セオリーにケンカを売るような、かなりアバンギャルドな手法を取り入れたドラマだったのでよく覚えています。
男尊女卑を絵に描いたような男系一家の物語で、中山千夏演じるお手伝いの孤軍奮闘ぶりがドラマのメインでしたが、若々しい当時の若手俳優たちよりも、一家の祖父を演じた志村喬の印象がなぜか強烈でしたね。
このドラマでの彼のキャラは、本作で演じた博の父颷一郎のキャラ設定にも大きな影響を与えているように思います。
そんな颷一郎の言葉に、寅の単純思考回路は、たちまち反応。所帯を持ち、身を落ち着けさせることこそが自分の運命だと納得して、柴又へ戻るところから本作の後半が展開されていきます。
いよいよマドンナの登場です。
帝釈天の境内に接する通りに、喫茶店を開いた小学校三年生の息子を持つ未亡人が、本作のマドンナ貴子です。
挨拶回りにとらやを訪れた貴子の美しさに、おいちゃんたちは不吉な予感を感じます。
「こんな時に限って寅は帰ってくるぞ」そして、「帰ってきたら、いったいどういうことになる?」というわけです。
当然、おいちゃんたちの心配をよそに、寅はあたりまえのように、柴又へ帰ってきます。
これが本シリーズ鉄板のお約束。美女と出会って恋をしなければ、車寅次郎ではありません。しかも、寅は今度こそ身を固める気満々。
おいちゃんたちは、寅にそんな危険接近遭遇を起こさせまいと必死になりますが、狭い町内ではそれも時間の問題。
このあたりは、ちょっとサスペンス映画の味わいがあります。
帝釈天の境内で、しょんぼりしている子供に声をかけた寅は、その母親貴子とついに対面。
あっという間に、寅の瞬間湯沸かし機には、スイッチが入ってしまいます。
貴子が、とらやとは目と鼻の先の「キッチャテン」の経営者であることと、未亡人であることはすぐに寅の知るところとなり、寅の頭はたちまち貴子一色。
自分が稼ぎも少ない風来坊であることはおくびにも出さずに、一生懸命背伸びをしては、いいところを見せようとする寅次郎。
帝釈天の境内で、同級生たちとの遊びの輪に入れずにしょぼくれている貴子の息子・学を発見し、その気持ちを察した寅は、その同級生ごと引き連れて、江戸川土手でおおハシャギ。
このあたりは、良識ある大人よりは、子供に近い感性を持つ寅の面目躍如です。
柴又に越して来てからというもの引っ込み思案にも拍車がかかっていた学が、体に擦り傷をいっぱいに作って、笑顔いっぱいで帰ってきたことに、貴子は喜びを隠せません。
今なら、さしずめ、「うちの息子になんてことしてくれたんですか」と怒鳴り込んでくるところでしょうが、これで寅の株は一気に上がってしまいます。
とらやにわざわざ礼に来た貴子に、調子に乗ってエエかっこをする寅に切れてしまうおいちゃん。
こうなれば、いつもならプイと旅に出てしまう寅ですが、今回はやはり貴子のことが気になってそうもいきません
一同がギクシャクしている仲、突然颷一郎がとらやに訪ねてきます。
学者肌で寡黙な颷一郎に応対したおいちゃんは、手も足も出ません。
そこに博が加わっても、場の空気は一向に重いまま。そんなところに、寅が戻ってきます。
こんな時には、寅のキャラはまさに救世主。場は一気に和んで、それまでの喧嘩モードも一気に解消してしまいます。
寅が、さくらが連れてきた満男を抱かせると、颷一郎の表情は自然と崩れて、微笑みが溢れます。
調子に乗った寅が、「そんな仏頂面してないで、(自分の孫に)バーッといってごらんなさいよ。」とけしかけると・・
役者が志村喬だからこそ成立するコメディ・シーンですが、「けしかける」で思い出してしまったのが、シリーズ第37作「寅次郎知床慕情」で、寅が三船敏郎に「けしかけた」あの有名なシーン。
このシリーズをこれから順番に見て行って、いずれあのシーンを改めて見た時、今度はこの第8作の志村喬を思い出すのかもしれません。
世話をかけた謝礼にと、颷一郎は、さくらにそっとお金の入った封筒を渡して岡山に帰っていきます。
その封筒に入っていた金額に驚いたさくらは、それを博に見せながら、義理の父が抱えた寂しさと本心に思いを馳せます。
さて、寅次郎の恋愛問題には決着がついていません。
女手一つで喫茶店を切り盛りする貴子ですが、彼女に差し迫っていたのはやはりお金の問題でした。
寅次郎は、ひょんなことから、これに気がつくのですが、この問題だけは自分ではどうしてあげることも出来ません。
少しでも足しになればと、バイに精を出して稼ごうとしますが、売ろうとするあまりの空回り。
啖呵売にもいつもの調子が出ません。自分の非力さに落ち込む寅次郎。
リンドウの鉢植えを買って、貴子の店の裏庭に顔を出しますが声がかけられません。
寅に気がついた貴子に招き入れられますが、貴子の悩みは知りつつも、何もしてあげられない寅は、アコギな金貸しの存在を知りつつこう言います。
「何か困ってることはありませんか。
どうぞ私に言ってください。
どうせ、私のことです。
大したことはできませんが、指の一本や二本、いえ、片腕片足ぐらいでしたら、なんてことはありません。」
文字にしてしまうと、東映のヤクザ映画にも出て来ないような、ベタなセリフです。
しかし、これを大真面目に言ってサマになるというキャラクターは、日本映画界広しといえども、車寅次郎だけだということに改めて気づかされます。
海の向こうには、どんなにキザなセリフを言っても絵になるハンフリー・ボガードという稀有な俳優がいましたが、二人に唯一共通していることは共に「イケメン」ではないこと。
もともと、「男はつらいよ」シリーズは、当時全盛だった東映の任侠映画のパロディとして出発しています。
それが、気がつけば、本家を完全に食ってしまう形で、このシリーズは、日本映画界の「四角い」顔になっていったわけです。
けれど、今時の感覚でいえば「うわ、キモい。うざい」と片付けられてしまいそうな寅次郎精一杯の男意気は、この時代の、このマドンナには、まだしっかりと届きます。
満月を見上げながら、「私も寅さんと一緒に、旅をしたい」という貴子ですが、それは決して現実にはならないということを、今回の寅は学習していました。
そこに、電話が鳴り、店に行く貴子。暖簾の向こうからは、金の催促に気丈に応えている貴子の声が聞こえてきます。
その電話の声のする先をじっと見つめていた寅は、潮時を理解し、いずれいつもの結末になるだけと悟り、静かにその場を去ります。
かくして、寅のシリーズ8回目の失恋が、ここに悲しくも成立・・・ん?
いや待て、本作においては、実は寅次郎は、正式に失恋をしたというわけではないような。
少なくとも、これまでの作品には必ずいた恋敵は、本作には登場していません。
しかも、自分の想いが、この美しき未亡人にはしっかりと届いていることを知った上で、寅は身を引く決意をするわけです。
「また、ふられちゃったよ」と、とらやの面々には自虐的に笑いながらそう告げ、旅の支度を始める寅。
二階に上がってきたさくらに、寅はこう聞きます。
「兄ちゃんのこんな暮らしが、羨ましいと思ったことがあるかい?」
さくらは答えます。
「あるわ。一度はお兄ちゃんと交代して、私のことを心配させてやりたいわ。」
それを聞いて、思わず涙ぐむ寅。
一同が止める声を背中に受けながら、寅次郎は風が吹きすさぶ中、また柴又を後にします。
八ヶ岳と富士山が見える田舎道で、映画冒頭の旅の一座の一行に再会した寅次郎。
その巡業トラックに乗せてもらった寅の顔には、またいつもの旅の暮らしに戻った満面の笑顔が。
ということで、次回は第9作「男はつらいよ 柴又慕情」です。
ん? 待て。
そういえば、本作には源公の姿がなかったような・・
(解答。今回、佐藤蛾次郎は撮影直前の交通事故で入院していたとのこと。)
コメント