1963年に製作されたハリウッド映画に「北京の55日」があります。
1900年に勃発した義和団事件を題材に描かれたハリウッドお得意の歴史スペクタクルです。
主演はチャールトン・へストン。監督はニコラス・レイ。
ヒロインは、少々お年を召したてはいましたがまだまだ綺麗なエヴァ・ガードナー。
ハリウッド最後の70mm大画面大作シネマと言われる作品です。
世界史は決して得意というわけではありませんでしたが、映画は好きでしたので、映画経由でインプットされたビジュアルな歴史知見は意外と残っていたりします。
義和団の大軍が、赤い布をかぶり、薙刀で紫禁城に襲いかかるスペクタクル・シーンは確かに圧巻でした。
主演はハリウッド歴史スペクタクルの「顔」ともいうべきチャールトン・へストンです。
彼が演じた世界史上の人物はかなりいます。
「十戒」のモーセにはじまり、「華麗なる激情」ではミケランジェロ、「アントニーとクレオパトラ」では、ローマ時代の英雄アントニー、「エル・シド」ではレコンキスタの英雄ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールなどなど。
「北京の55日」で、彼が演じたのはアメリカ軍のマット・ルイス少佐でした。
この人物は、この時のアメリカ軍のジョン・トーマス・ハリー軍曹がモデルとされていますが、実在の人物ではありません。
しかし映画では、ルイス少佐は、夜陰に紛れ、義和団の武器庫を爆破したり、北京城では獅子奮迅の活躍をして、外国人公使たちの命を、義和団の蛮行から守り抜きます。
この様子が、わかりやすく歌になっています。
歌詞が、まるまる映画の内容そのままなので、これには思わずニンマリ。
映画「北京の55日」の主題歌を歌ったのが、アメリカのフォークソング・コーラス・グループのブラザーズ・フォーです。
これの日本語版を歌ったのが、デューク・エイセスと克美しげる。
この日本編集のYouTube動画を見つけましたが、この歌詞とデフォルメされた日本軍の活躍は一見の価値あり。
是非ご覧あれ。
https://youtu.be/pVbs5kXx00Q?si=JJmwU_kPKxk41bzJ
さて、義和団事件ですが、これが改めて歴史を紐解いてみるとなかなか面白いんですね。
世界史の中の事件ですから、日本はあまり関係ないように思ってしまいますがさにあらず。
実は、日本人の目から見れば見るほど、この世界史の一幕はかなり痛快です。
まずは、義和団事件が起こるまでの背景を、「トリオ・ザ・AI」にザクッとまとめてもらいました。
義和団事件は、19世紀末の清朝末期に中国で発生した西洋人排外運動です。
1899年、山東省の農民や武術家たちが、キリスト教の布教や外国の侵略に反対して結成した義和団が、清朝政府の支援を受けて外国勢力と衝突し、国際的な対立に発展しました。
義和団は、白蓮教の教えをベースとした秘密結社であり、武術や呪術を修行していました。
彼らは自分たちは神によって守られていると信じていました。
彼らにとっての最大の武器は、薙刀などの剣と、カンフー拳法。
しかし、その修行を積めば、自分たちの肉体は、銃や大砲にも負けないようになると本気で信じていたようです。
彼らが掲げたスローガンは、「扶清滅洋」
彼らの暴力行為を鎮圧しろと、各国は清国政府に圧力をかけますが、義和団が「清を助けて西洋人を排除する」と言っている以上、同じく西洋列強の中国半植民地化を苦々しく思っていた西太后はこれを静観。
西洋列強の支配による不満を背景に、義和団の勢力が拡大していくと、西太后は、次第にこの勢いに便乗しようと思うようになるわけです。
そして、ついには、清の正規軍を彼らに合流させ、西洋列強に対して「宣戦布告」を宣言してしまいます。
しかし、さすがにこれは無謀というべきでしょう。
来たるべき清の運命は、この瞬間に決定してしまったといっていいかもしれません。
どう考えても最新の武器をもつ西洋列強に、薙刀とカンフーだけの荒くれ者の集団義和団が太刀打ちできる道理がありません。
さらに、彼らには全体を指揮するリーダーすらいません。
ただ「西洋やキリスト教を追い払え」というスローガンだけで、それぞれが勝手に暴れているような集団が義和団なのです。
彼らに加勢した清の軍隊とも、決して一枚岩と言える状態ではありませんでした。
西太后女史には、現状分析能力は皆無。国際社会を見る目も大きく欠如していたようです。
さあこれを受けて、中国を半植民地化していた列強たちは即座に反応します。
この結果、ここに世界初の多国籍軍「八ヶ国連合軍」が、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリー、アメリカ、ロシア、日本によって結成されます。
地理的に考えて、中国に最も多くの兵を投入できたのは、日本とロシアでした。
しかし、西太后とは違い、日本軍はよく国際情勢を把握しており、しかも慎重でした。
ここぞとばかりに、大軍を派遣すれば、国際社会からは、日本は中国進出を企てていると言われかねません。
日清戦争における、三国干渉の二の舞だけは避けたかったわけです。
日本が躊躇していると、待ってましたとばかり大軍派遣を決定したのはロシア軍でした。
しかし、他の西洋列強と違って、ロシアの八ヶ国連合軍への派遣には、完全に彼らなりの思惑がありました。
それは、この期に乗じて、中国の東北部と満州を自分たちの支配下に置くこと。
ロシアには、不凍港を確保するための南下政策という、地政学上の明確な国家的目標があったのです。
これに大いなる危機感を感じていたイギリスは、日本に対して、ロシアよりも多い派兵を要請してきました。
ロシアの思い通りにはさせまいというわけです。
もちろん、ロシアが満州を支配することは、日本の国益にとっても由々しき問題。ここにイギリスとの利害が一致します。
時の総理大臣山県有朋は、イギリスの後ろ盾があるなら、国際社会から声が上がることはないだろうと判断し、八ヶ国連合軍に、ロシア以上の大軍を送ることを決断。
連合軍全部で6000人の兵力のうち、なんとその3分の2が日本軍でした。
こうなってくると、もうこれは第二次日清戦争と言ってもいいのかもしれません。
しかも、五年前の日清戦争でも、日本は自国軍だけの力で、清国を撃退してしまっているわけです。
義和団と清国軍の兵力は、合わせて20万以上とも言われていますが、彼らはただ荒っぽいだけの烏合の衆。
組織的な戦いは出来ないわけです。結果はもはや火を見るよりも明らかでした。
八ヶ国連合軍は、ひとまず天津に集結します。
ここでの記念写真は、世界史の教科書でも見たことがあります。
向かって右端の一番慎重が低いのが日本軍兵士です。
しかし、この小男の軍隊が・・・
天津でも、すでに義和団たちの狼藉は始まっていました。
日本軍を率いたのが、当時の日本軍においては国際派との評価が高かった福島安正少将。
情報将校出身で、欧米各国への赴任経験があり、各国の語学に精通している人物でした。
世界初の多国籍軍の中心となる日本軍指揮官としては、これ以上はない適任者といえたかもしれません。
この時期、国際社会において認められることを重大国家目標にしていた日本は、万全の体制で義和団事件の鎮圧に動き出します。
たちまち、天津における義和団は制圧され、勝ち目なしと判断した彼らは、略奪を繰り返しながら遁走します。
八ヶ国軍は、北京に向かって一路進軍を開始します。
さて、一方その頃北京では・・・
北京に向かって進軍を開始した連合軍が到着するまでの55日間。
これがいわゆる「北京の55日」です。
北京に在住していた各国公史とその家族たち、そして、清のキリスト教徒たち約4000人は、もはや脱出不可能と判断し、紫禁城の外国公使館地区に籠城して、救援部隊の到着を待ちました。
この時、北京城を包囲していた義和団の暴徒の数が二万人。
これに対して、場内でこの防戦に当たっていた各国の兵士の数はなんと400人です。
ここでは、一足早くすでにミニ多国籍軍は結成されていたわけです。
この紫禁城にたてこもった人々のリーダーだったのが、イギリス駐清公使のクロード・マックスウェル・マクドナルド。
彼は最初この400人の兵士団の指揮官に、オーストリアの指揮官を指名していましたが、明らかにこの人物は能力に欠けると判断した彼は、後任に日本軍の指揮官柴五郎中佐を指名します。
さて、いよいよ今回の主人公の登場です。
柴中佐は、北京駐在の日本公使付きの武官でした。
この人は北京勤務にあたるまでに、福島少将同様、欧米各国で任務にあたっており、英仏語に堪能でした。
そして、北京着任からまもなくして発生する義和団による襲撃にあい、これは籠城戦になると踏んで、事前にすでに、広い紫禁城周辺を、自分の目でくまなく視察して周り、防御のための計画を頭に叩き込んでいます。
彼の現地での実際の部下は27人ほどでしたが、彼は来たるべき事態に備えて日本人居留区の男性ほぼ全員の31名を、義勇軍として日本兵に加えていました。
そして、スパイを使って、情報収集にもぬかりなく手を打っていました
とにかく、各国の指揮官たちの中にあって、彼の指揮能力と勇気ある行動は圧倒的に傑出していました。
しかし、彼はその能力を決してこれ見よがしにひけらかすような事はしません。
言葉の違う、コミュニケーションに不安のある兵士たち400人で、広い北京城を守らなければならないわけですから、彼は常に和の心を持って全体をまとめようとしました。
籠城戦の計画や立案はすべて各国指揮官の会議によって決定されました。
通訳の力を借りずとも、その内容を理解できた彼は、いつも会議の席では聞き手に回ります。
そして、出された案が、自分の立案に沿ったものであれば、柴中佐はニッコリとうなずいてこういったそうです。
「セ・シボン」(それは結構)
彼の能力と判断の正確さは認めていた各国の指揮官は、それを聞くと我が意を得たりと、さらに計画を煮詰めていきます。
会議が煮詰まると、指揮官たちは柴中佐に意見を求めましたが、彼はそこではヒントとなるアイデアを述べるだけ。
そこでまた会議が動き出すと、その方向に問題がなければ、柴中佐はゆっくりとかぶりを振って「セ・シボン」
つまり彼は、自分で意見を述べずとも、最小限の言葉だけで、みごとに会議の方向性をコントロールしてしまったのだそうです。
マクドナルド公使からの命令により、柴五郎中佐の指揮下に入って行動していたイギリス軍のシンプソンが、籠城中の日記にこう記していたそうです。
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれている。この小男はいつのまにか混乱を秩序へとまとめていく。
彼は部下を的確に組織し、さらに大勢の教民を招集して、前線を強化していた。
彼は指揮官としてなすべき事はすべてやっていた。僕は、自分がすでにこの小男に傾倒している事をひしひしと感じる。」
公使館エリアでは最大のイギリス公使館には多くの人が避難していたのですが、実はここ以外のすべての地域の守護防衛を担っていたのが柴中佐率いる日本兵の面々でした。
しかし、そんなイギリス公使館に、ついに義和団の兵士が、薙刀保振り回して乱入してきます。
公使館に阿鼻叫喚が響き渡ります。
しかし、この異変をいち早く察知した柴中佐は、ただでさえ広い範囲を受け持って兵士不足の自分の指揮下から、勇猛果敢な部下を選別して、イギリス公使館に向かわせました。
選抜日本兵はここで、目を見張るような活躍をします。
多勢に無勢もなんのその。
薙刀だけが武器のカンフー部隊義和団兵士を、鍛え抜かれた戦闘力でバッタバッタとなぎ倒していきます。
暴徒はたちまちイギリス公使館から遁走。
これを物陰から見ていた公使やそのご婦人たちは、やんややんやの拍手喝采です。
まるで映画みたいなシーンですが、勇猛果敢で、小さいながらも滅法強い日本兵の勇姿は、まさにこの瞬間に、堂々と国際デビューしたということになるのでしょう。
紫禁城籠城の55日目。
場内から、周囲を取り囲む義和団や清国軍に対して、砲弾が打ち込まれていることが確認されます。
待ちに待った八ヶ国連合軍の到着です。
兵器力に勝る連合軍は、たちまち敵軍を制圧してしまいます。
連合軍に宣戦布告をした西太后も、北京から脱出。
後を任された袁世凱は、たちまち、事件の責任のすべてを義和団に押し付けて、連合軍に寝返ります。
そして、その義和団も略奪だけは続けながら、地元に退散し、やがて自然消滅。
こうして、義和団事件は幕を閉じます。
事件後の紫禁城では、再び各国兵士による警備体制が敷かれます。
このとき、実に広い紫禁城の北半分の警護にあたったのが柴五郎中佐率いる日本軍でした。
ところが、日本軍の警護するエリア以外では、兵士による略奪や乱暴が横行することになります。
特にひどかったのが、ロシア軍とドイツ軍が担当したエリアです。のちの歴史を見るとそれも宜なるかな。
しかし、軍規がしっかりしていた日本軍担当エリアでは、そのような蹂躙行為は一切禁止されていました。
違反をすれば即時軍国会議にかけられます。
このため、他の地域に比べて圧倒的に治安の良かった北のエリアには、南側からの移住者が殺到したそうです。
この義和団事件での活躍により、柴五郎中佐は、国際社会で一躍有名人なりました。
冷静沈着でありながら、勇猛果敢な彼のナマの姿を目の当たりにした、紫禁城籠城関係者たちが、黙っていられずに、こぞって自国のメディアにそのことを伝えたからです。
イギリスのビクトリア女王からは彼に対して勲章が贈られ、その他各国からも勲章が贈られることになります。
日本陸軍柴五郎中佐は、この事件での活躍を経て、一躍国際社会において時の人となりました。
おそらくは、欧米の人たちの間で、初めてリアルタイムでその名が知られる日本人となったのはこの人でしょう。
ロンドン・タイムズはこう報道しました。
「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」
そして、イギリス公使マクドナルドもまた、本国へ帰り、自国政府に、この紫禁城での日本軍の活躍を報告し、強くしかも規律正しい日本と同盟関係を結ぶべきだと強く進言します。
それまで、国際社会において「名誉ある孤立」主義を貫いていたイギリスは、この進言を受け入れ、1902年日本との間に日英同盟を締結することになります。
もちろん柴五郎中佐は、それらのことを自慢することなど、なかったに違いありません。
しかし残念ながら、日露戦争における東郷平八郎や乃木希典の名前は覚えさせられたにもかかわらず、義和団事件における柴五郎の名前は世界史の授業で教わることはありませんでした。
もしも、この事実を高校時代の歴史の授業で勉強していたら、映画「北京の55日」を見た時には、少々文句が出ていたのかもしれません。
あの映画に、実は柴五郎中佐は描かれていました。演じていたのは、当時まだ二十代だった伊丹十三。
しかし、残念ながら、この映画の中でも、柴五郎は決してヒーローという描かれ方はしていませんでした。
あくまで、あの映画でヒロイズムを体現していたのは、身長191cmの巨漢チャールトン・へストン。
彼に限らず、アメリカにおける西部劇や歴史スペクタクルに主演していた俳優は、軒並み大男のマッチョマンたちです。
ジョン・ウェイン然り、カーク・ダグラス然り、ビクター・マチュア然り・・
もちろん、映画的にはその方が見栄えはいいですし、それに文句をつけるつもりもないのですが、しかし本当のヒロイズムというのはそれだけではないということを、この義和団事件における柴五郎中佐の活躍は物語ります。
彼が体現したことは、例え小男であろうと、和を尊び、人格に優れ、徳を持ち、冷静沈着に状況判断をし、的確に決断をする、この資質に優れていれば世界が認めるヒーローになれるということです。
そして、僕がなによりもこの柴五郎中佐にしびれるのは、必要以上に自分をアピールすることを潔しとしない謙虚さです。
そんなことは、大義の前にあっては、邪魔なだけと切り捨てられる芝中佐の理性がなせる技です。
つまりこれも彼の冷静な判断力によるものなんですね。
ちょいと話を脇道にそらします。
世界史や日本史を通じて、日本人が他の民族と決定的に違うところは何かと考えると、ひとつだけはっきりしていることがあります。
それは、何と言っても圧倒的な教育レベルの高さなんですね。
これが良きにつけ、悪しきにつけ、歴史の中で日本人のポテンシャルであり続けたことは間違いないと思います。
間違っても、日本という国の中に、義和団のような知性にかける暴徒は発生しないことは断言できます。
さて、話をまとめましょう。
歴史上の出来事を改めて覗いてみると、なかなか魅力的な人物が発見できて嬉しくなってしまうわけです。
どうにも最近の政治家や有名人は、スケールダウンしています。しかも姑息で、自己中心で、権力や名声にしがみつくだけでため息しか出ません。
そんな輩にイチャモンばかりつけて、さも自分がそんな連中とは違うんだとカッコをつけても、そんなことは実はマスーベーションでしかないと、だんだん気づくようになりました。
それよりは、自分たちの遠い先輩に、世界に通用するこんな魅力的な人物がいたということを勉強する方が、はるかに精神衛生上は健康的なようです。
小男上等。