2作目の冒頭は、普通に考えれば、ちょっとスパイ映画とは思えないようなシーンからスタートします。
トム・クルーズ演じるイーサン・ハントが、1人で黙々とロッククライミングをしているんですね。
これは、アメリカのユタ州にあるデッドホースポイントという場所で、ロケーションされました。
このシーンを撮るために、トムクルーズは、ロッククライミングの大特訓をして臨んだそうです。
オレンジ色に輝く断崖絶壁を素手で登っていくのですが、彼の命を守るものは安全ロープ1本だけ。
これは後でCGで消しています。しかし安全ネットはありません。
ジョン・ウー監督は、もちろんスタントマンを用意していたようですが、結局彼は自分でこのシーンをやり遂げてしまいました。
このシーンだけで撮影に2週間もかけたそうです。彼の意気込みが伝わります。
しかし、よくよく考えると、トムと一緒に崖に張り付きながら、このシーンを撮影したカメラマンがすごいですね。
登り終えたイーサンに、追いかけてきたヘリコプターから小型のミサイルが発射されます。
イーサンがその小型ミサイルの中に入れられていたメガネをつけると、IMFからの指令が…
というわけで、IMFからの指示を受けるためだけなら、わざわざこんなシーンから始めることもないのにと思ってしまうところですが、これはおそらくトム・クルーズがやりたかったんでしょうね。
彼にとっては、ストーリーよりも、まずは観客の目を引くアクション・シーンを撮ることの方が優先。
話は後から繋げればいい。
これは、ジョン・ウー監督のスタイルでもあったようですが、後に続いていくこのシリーズの基本的スタイルにもなっていきます。
映画館の観客を喜ばせるには、理屈よりも、まずは目を見張るアクションありきというわけです。
そしてそれを、自分が吹き替えなしで演じていくぞと宣言しているようなシーンでもありました。
ジョン・ウー監督と言えば、個人的には80年代の香港ノワール「男たちの挽歌」シリーズのチョウ・ユンファの顔が自動的に思い浮かんでしまいます。
サム・ペキンパーばりのスローモーションを駆使した華麗な暴力描写。
メキシカン・スタンドオフなどを効果的に取り入れたスタイリッシュな演出。
暴力シーンに平和の象徴である鳩を飛ばすなど、独特の作家性も作品に盛り込んで、アクション映画の新感覚派として名をあげ、ハリウッドに進出してきた人です。
シリーズ2作目は、前作に比べ、より「生身の体」を強調したアクション演出になっていました。
これは、スパイ映画の大傑作007シリーズの2作目である「ロシアより愛をこめて」を大いに参考したのではないかという気がしています。
「ロシアより愛をこめて」は007シリーズの中でも最高傑作の誉れ高い作品です。
かなり荒唐無稽感が否めなかった一作目の「ドクター・ノー」を軌道修正して、この2作目はアクション映画の原点ともなるフィジカルが全面に押し出された手堅い演出になっていました。
オリエント急行の中での格闘シーンは、鮮烈に印象が残っています。
現在まで全25作が作られている007シリーズですが、個人的には今でも、この第二作目が一番好きですね。
そんなわけで、スパイ映画の先駆者として、トム・クルーズも、この作品は相当に意識したのではないかと思うわけです。
人間の生身のアクションのインパクトは、派手な爆破シーンやCG合成による特撮にも勝る。
トムクルーズは、あまたある過去のアクション映画を十分に研究した上で、この境地に達しているのだと思われます。
生身の体と体が一対一でぶつかりあうラストのビーチ・ファイトを、本作のクライマックスにもってくるあたり、この信念は、本作において見事にビジュアル化されています。
このシーンのために、ジョン・ウー監督が起用されたと言っても過言ではないのかもしれません。
もちろん、ワイヤーアクションで撮影したものを、CG処理で、後からワイヤーを消すという処理はしているでしょう。
しかし、同じ手法のアクション映画でよくあるような、役者がいかにも不自然に飛び上がったり、クローズアップにして空中アクションをカット割りで誤魔化すような子供騙しは、本作には見当たりません。
むしろ、アクションシーンを役者自身が演じていることを強調するように、スローモーションが多用されていました。
対決の中で、トム・クルーズは相手に対して、見事に延髄切りを決めているカットがあるのですが、これも明らかにトム・クルーズ自身が編集なしのワンカット撮影で決めています。
格闘技の試合以外で、生の延髄切りを見たのは、これが初めてでした。
但し、個人的には、それにこだわりすぎて、逆に違和感を持ってしまったようなシーンもありました。
やはりラストのビーチ・ファイトのシーンです。
敵が振り下ろしたナイフの切っ先が、トム・クルーズの眼球から数センチのところで止まるというシーン。
これは、トム・クルーズ自身が提案したシーンだと言います。
撮影は万が一の事故も起きないような、ミリ単位の精密な設定をして行われたと言いますが、もちろんこれも彼は吹き替えなし演じています。
もちろんトムの映画に対する気合はヒシヒシと感じます。
しかしこのシーンは、リアリズムよりもインパクトを優先し過ぎたかもしれません。
バイクアクションも本作にはふんだんに盛り込まれています。
スタントマンが吹き変えているシーンかどうか、カット割にはかなり注意を払って見ていましたが、やはりほとんどのシーンは彼が自身が演じているように見えました。
バイクの訓練も半端ではない時間を費やしていたと思われます。
肉体派アクション俳優というと、すぐにシルベスター・スタローンや、アーノルド・シュワルツネッガーを思い浮かべてしまいます。
トム・クルーズは、彼らのようなマッチョではありませんが、身体能力で比べれば、間違いなく彼らの遥か上の水準かもしれません。
それは、シリーズではお決まりのように描かれる、彼の全力疾走シーンを見れば一目瞭然。
どれだけ、CG技術が向上しようとも、これは誤魔化せるものではありません。
さて、本作を語るにあたっては、スパイ映画において、主人公は、相方となる女性と恋愛関係になるべきか問題を無視出来ません。
イーサン・ハントは、IMFの指令通りに、今回敵方にまわる元IMF諜報員の昔の恋人であるナイア・ホールに接近します。
演じるのは、タンディ・ニュートン。
イギリス人の父親とジンバブエのショナ族出身の母親のハーフです。
イーサンは、本業が泥棒であるナイアに接近し、危機一髪のところで彼女を守り二人は急接近。
アクション映画の鉄板の法則として、生死を共にした後で、二人は恋に落ちるというわけです。
心理学における「吊り橋効果」ですね。
これは、それなりに説得力があるので、アクション映画における、恋愛のプロットにおいてはしばしば見られる展開です。
しかし、スパイ映画となると、この法則はやや怪しくなります。
ジェームズ・ボンドにしても、ナポレオン・ソロにしても、マット・ヘルムにしても、この効果により、美女に惚れられることはあっても、自分は決して惚れないわけです。
スパイ映画やドラマの全盛期は、1960年代だったと思いますが、僕の知る限り主人公たちはもみんなこの暗黙のルールを守っていたと思います。
そして、観客側は、このクールさに勝手に痺れていました。「カッケー!」というわけです。
もちろん、この暗黙のルールを作ったのは、スパイ映画の元祖とも言える007シリーズでしょう。
第6作目の「女王陛下の007」のラストで、ジェームズ・ボンドが、ボンドガールと恋に落ち結婚をするという例もあるのですが、正直これにはかなり違和感がありました。
初期のスパイ映画のヒーローは、けっして女性に優しくありませんでした。
ジェームズ・ボンドは、女性に平手打ちをしたり、投げ飛ばしたり、女性を盾にして敵の銃撃をかわしたりしていました。
今なら、完全にNGですね。
女性にヤニ下がるスパイは、カッコよくない。イケてない。
いわんや、恋に落ちるスパイなど言語道断。
60年代のスパイ映画を浴びるように見てきた僕ら世代には、明らかにこの法則が刷り込まれているようです。
本作において、イーサン・ハントは、明らかにナイア・ホールに対して恋愛感情を抱き、ベッドも共にしています。
そして、その彼女を囮として、元恋人の元へ潜入させることに苦悩します。
このナイアに対する恋愛感情がベースになっているからこそ、ラストの怒涛のアクション・シーンにそれなりの説得力が与えられているのは間違いのないところ。
このあたりのエモーショナルなテイストは、もちろんオリジナルの「スパイ大作戦」には有りません。
オリジナル・ドラマのメンバーたちは、恋愛を演じることはあっても、自身が恋に落ちることはありませんでした。
スパイたるもの、一時的な感情に溺れてはいけない。
少なくとも60年代のスパイたちは、みんなクールでした。
しかし、今日の映画で描かれるスパイは、それではシンパシーが得られないということなのでしょう。
トム・クルーズ演じるイーサン・ハントは、過去のスパイたちとは、明らかに一味もふた味も違いました。
諜報員も、当たり前に恋愛をし、そして愛する者のためには命をかけるわけです。
結果、本作は、記録的には前作を上回る興行成績を上げているのですから、文句は言いません。
映画は、2000年に公開されていますが、この映画を支持した多くの観客は、すでにオリジナル・ドラマを知らない世代かもしれません。
彼がもし、ピーター・グレイブスが演じた冷静沈着で頭脳明晰なジム・フェルプスのキャラをそのまま演じたらどうなるか。
個人的見解としては、ジム・フェルプスを演じるには、トム・クルーズはまだ若すぎます。
この時すでに38歳になっているとはいえ、まだまだ現役バリバリ感のある溌剌としたトム・クルーズが、ジム・フェルプスを演じるのではいかにももったいない。
普通に考えて、トム・クルーズの役者としての魅力は半分も活かせないでしょう。
ジム・フェルプスは、間違っても休暇中にロッククライミングはしないでしょうし、バイクを乗り回して片手で拳銃をぶっ放したりしません。
もちろん、恋愛もしません。
やはり、本シリーズは、旧作のテイストも十分に活かした上で、トム・クルーズが上書きしたアクション映画としての魅力が加わって成功していると考えるべきでしょう。
スパイ映画のヒーローは、恋愛をするべきか、しないべきか。
とはいっても、僕のような頭が硬いクラシック映画ファンは、60年代スパイ映画にはコテコテに影響されているので、正直このあたりは少々悩ましいところ。
単発のスパイ映画であれば、その要素はある程度あってもいいのかもしれません。
しかし、シリーズ物ということになれば、登場する美しい女性キャラに、毎回恋愛するヒーローというのも、如何なものかという気はします。
寅さんのように、毎回登場するマドンナたちに、失恋してしまうという展開であれば、観客の支持はそれなりに得られそうですが、それが毎回ラブラブになったとしたら、はたしてシリーズが成り立つか。
恋多きスパイでは、いい仕事はできそうもありませんし、観客のシンパシーが得られそうもありませんね。
仕事仲間として、前回に引き続き登場し、以後不動のチームメンバーとなる天才ハッカーのルーサーは、イーサンにこう言いますね。
「この仕事をしていると、女と付き合うのは難しい。」
あるべきスパイ映画のヒーロー像は、やはり時代と共に変わっていくのでしょう。
ところで、ルパン三世と峰不二子のキスシーンて、ありましたっけ?
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