「ザ・エージェント」「あの頃ペニー・レインと」などを撮った映画監督のキャメロン・クロウが、最晩年のビリー・ワイルダーとのロング・インタビューを一冊にまとめた「ワイルダーならどうする?」を図書館でゲット。
丁寧にスキャンして、iPadにお納めました。
映画オタクとしては、「ヒッチコック/トリフォー」同様、何かの時の蘊蓄を語る際の辞書代わりに、持っているだけでも幸せな気分になれる一冊でしたが、やはり、映画監督が、自作のあれこれを語るというのは、なんだかんだで面白いもの。
つらつらとページをめくっているうちに、気がつけば、全頁読破しておりました。
なかなか興味深いネタでいっぱいで、読み終えた今だけは、いっぱしのワイルダー評論家になったような気分。
せっかくですので、このタイミングで、これまで未見のワイルダー作品を見てみることにしました。
我が人生で、これまでに鑑賞済みのワイルダー作品は、以下の通り。
「深夜の告白」
「サンセット大通り」
「昼下がりの情事」
「麗しのサブリナ」
「七年目の浮気」
「お熱いのがお好き」
「アパートの鍵貸します」
「フロント・ページ」
まず、撮りためたDVDの在庫の中から、チョイスした未見の一本が本作でした。
1953年の作品です。
本作の主役は、ウィリアム・ホールデン。
ビリー・ワイルダーと彼との付き合いは、1950年の「サンセット大通り」から始まりましたが、本作の他、「麗しのサブリナ」や、ワイルダーの遺作となった「バディ・バディ」にも出演。
ワイルダー自身も、彼の俳優としての資質を認めており、ジャック・レモンとの関係に似たところがあるとも語っています。まあ、ウマが合ったというところでしょう。
ホールデンは、本作でアカデミー賞主演男優賞を獲得していますね。
ワイルダーが、役者の魅力を引き出す才能に長けた監督であることは、このことからも明白。
本作は、ブロードウェイ舞台劇を元に、ビリー・ワイルダー監督が映画化した作品です。
脚色に当たったのは、ワイルダーとエドウィン・ブラム。
ワイルダー自身は、この脚本には満足していたようですが、彼とコンビを組んだのはこれ一度きり。
ドイツ出身のワイルダーは、終生英語には不自由していたので、共同脚本というスタイルを通した人ですが、長い間コンビを組んだ相方は、チャールズ・ブラケットとI.A.L.ダイアモンドだけ。
それ以外の相方は、ほぼ一作限りです。
しかしながら、映画の出来は、気に入っていたようです。
女っ気がなく、泥で薄汚れた男たちしか登場しない映画が当たるわけがないと、パラマウントは最初完成した映画に、かなり懐疑的だったようですが、本作は興行的にも成功しました。
この映画のヒットが、後の捕虜収容所映画に多大な影響を与えたことは、想像に難くありません。
物語は1944年のクリスマス直前のドイツ軍捕虜収容所「Stalag 17」を舞台に、アメリカ人下士官たちの間で生じる「スパイ疑惑」と脱走劇を描いています。
収容されている捕虜がすべて軍曹というのがこの映画のミソ。
つまり、捕虜間に上下関係がないため、こういう収容所モノにありがちな、陰湿なイジメやパワハラ描写はありません。
全員の関係がフラットなので、ワイルダーお得意のギャグも仕込みやすくなるという寸法です。
映画冒頭、収容所のアメリカ人捕虜たちが脱走を試みるも、なぜかドイツ軍に先回りされ射殺されてしまいます。
捕虜たちは「兵舎内にスパイがいるのではないか」という疑念を持ち、普段から商売や賭博で目立つセフトン(ウィリアム・ホールデン)がスパイではないかと疑うようになります。
いったい誰が収容所側のスパイなのか。
この緊張感と、まるでドイツ軍をおちょくっているようなワイルダーの辛辣なユーモア。
そして、本当のヒーローは誰かという映画的カタルシス。
戦争終結からまだ8年余りしか経っていないタイミングで、「戦争捕虜の日常と心理」をリアルに描くという題材が、ワイルダーには新鮮で重要に感じられていようです。
まだ戦争の生々しい記憶が癒えない時代に、「あえてユーモアを交えながらも絶望や疑念を漂わせるストーリー」に挑むことで、ワイルダー自身の監督手腕と創造力で新たな映画ジャンルを切り開きたいという意欲が伺えます。
捕虜たちの絶望・希望・怒り・笑いという幅広い感情がぎゅっと凝縮されていて、人生の縮図として多くの共感を呼ぶ要素を原作戯曲から読み取ったワイルダーのワイルダーの映画監督としての慧眼。
ワイルダーが映画化に踏み切ったのは、これら「リアリズム」「ユーモア」「サスペンス」「心理ドラマ」「感情の幅広さ」という具体的要素を、単なる戦争物語を越えた人間ドラマとして映画に出来ると踏んだからでしょう。
こういったワイルダーの想いは、映画冒頭の、ナレーションに溢れ出ていたように思います。
ワイルダーはセフトンを「孤独と個人主義の象徴」として、他のキャラクターとは一線を画した存在として描いています。
多くの登場人物が集団や仲間意識、名誉を重んじるのに対し、セフトンはあえてヒーロー役や指導者を拒否し、自分の道を進む皮肉屋で冷静な観察者として存在感を放っています。
それはどこか、ハリウッドにおけるワイルダー自身の立ち位置に通じるものがあるあたりが興味深いところ。
ウィリアム・ホールデン自身も「セフトンは従来のヒロイックな主人公とは違い、自己中心的であまり共感されないキャラクター」だと語っています。
セフトンが最後に脱走する場面でも、他者との絆や感傷に走ることはなく、ワイルダーらしい独自のヒューマニズムが光ります。
仲間との別れ際のセフトンのセリフ。
「お前たちとどこかで会っても、そしらぬ顔でいような。」
ちょっと冷たいセリフにも聞こえますが、これをセフトンの快心の笑顔で言われると、「アイ・ラブ・ユー
」にも聞こえてくるから不思議。これがまさにワイルダー・マジックです。
セフトンは、自己中心的・孤高で皮肉屋な一方、極限状況下でも冷静に物事を見抜く“現実主義者”として、ワイルダーが舞台キャラクターにない「映画的個性」を強く吹き込んだヒーローといえるでしょう。
セフトンは、戦争映画における「新型ヒーロー」の先駈けといえるのかもしれません。
彼は明らかに、典型的な「英雄」像とは一線を画していました。
シニカルで、ややずる賢く、自己利益的でさえあるキャラクター。
しかし、そうした人物が結果的に大きな役割を果たし、観客の共感を集めるわけです。
このような複雑な魅力を持つ「反英雄的」な主人公が、ヘイズ・コードがガチガチに生きていた時代に、商業的成功を収めたことは、その後同じく戦争映画でありながら、アンチヒーロー的キャラクターが登場するための「受容土壌」を整えた一面があるかもしれません。
僕の世代は、収容所モノとしては、本作よりも先に「大脱走」の洗礼を受けている人が多いはず。
本作を鑑賞してみて、改めて「大脱走」を思い出してると、スティーブ・マックイーンが演じた「独房王」ヒルツのキャラが、本作のセフトンと被る部分が多いことに気がつきます。
個人主義ではあるが、最後はチームワークに殉ずる姿勢などですね。
あるいは、ドイツ軍を手玉に取って、いろいろなものをせしめてくる「調達屋」ヘンドリー注意を演じたジェームズ・ガーナーのキャラクターも、セフトンに被ります。
ヒルツもヘンドリーも「大脱走」の中では、脱走に成功しませんでしたが、はたしてセフトンはどうか。
その成否までを映画は描いていませんでしたが、ふとエンドマークが出たところで、脳裏をよぎったのが、ジャン・ルノアール監督の1937年の「大いなる幻影」のラスト。
おもえば、本作から16年も前の戦前のフランスで、捕虜収容場を描いた大傑作がありました。
あの映画のラスト、国境を越えてスイスに向かうジャン・ギャバンと仲間のロング・ショットが、中尉を救って脱走するセフトンと重なりました。
これで、捕虜収容所映画のたどる道が、「大いなる幻影」から本作を経て、「大脱走」までが、一本につながったような気がします。
ちなみに、「ワイルダーならどうする?」によれば、ワイルダーが一番気に入っているシーンというのが、収容所の所長を演じたオットー・プレミンジャーが、本部に電話をかけるシーン。
このシーンで、所長は部下に、電話をかけながらブーツを履かせることを要求します。
部下が所長にブーツを履かせ終わると、所長は電話からの指示に、規律したままブーツのかかとを「了解」のしるしに何度か鳴らします。
そして、電話が終わると、今度は何事もなかったように、そのブーツを黙って部下に脱がせるというギャグ。
まさに、ワイルダー・タッチですね。
こんなユーモアは、「大いなる幻影」にも「大脱走」にもありませんでした。
それから、本作の登場する捕虜の一人に、どこかで見たことのある俳優が一人。
若かりし日の姿でわかりませんでしたが、あの「スパイ大作戦」のフェルプスで名を馳せたピーター・グレイブスでしたね。
さて、スパイ・チームのリーダーとして、不可能と思われるミッションに挑み続けた彼が、この映画でどんな役を演じていたか。
それは是非とも、本作を見て確認されたし。