殺人は、もちろん犯罪です。
現実世界の中で発生すれば、当然犯人は逮捕され、法の裁きを受け、場合によっては死刑です。
たいていの人は、出来れば自分の身の回りでは起こってほしくないものと思っているでしょう。
ところが、これがフィクションの世界では少々取扱い方が違ってまいります。
殺人を素材にした犯罪小説やミステリーは、これまでも星の数ほどに、発表されています。
そして、それを原作にした映像作品ともなれば、さらにおびただしい数になります。
なぜ、それほどの作品が、本日現在も生まれ続けているのか。
それは、殺人を題材にしたフィクションが、古今東西、人々の本能の微妙な琴線を刺激してきたからということに他なりません。
つまりは、フィクションの世界では、殺人は犯罪であると同時に、エンターテイメントでもあるということ。
殺人事件と、その背後にうごめく人間の業、そしてそれが解決にいたるカタルシス。
これが極上のエンターテイメントになるからこそ、ミステリーは、いつの時代も廃れることなく、一定数のファンを獲得し続けてきたといえるでしょう。
本格古典ミステリーを愛読してきたであろう著者が、そこで得た知見を思う存分駆使して、殺人という「不穏当かつ非倫理的な出来事」を、それを承知の上で、自分好みにカスタマイズして、エンターテイメント作品に仕上げたミステリー。それが本作です。
小学生高学年から中学生になる頃には、いよいよ誰もが「大人の世界」へと首を突っ込むようになっていきます。
特撮怪獣映画や、スポ根アニメが次第につまらなくなってくると、大人の世界の入り口として、ゲートを広げていたのは、僕の場合は海外古典ミステリーでした。
多くの人がそうであるように、僕の場合の最初の入り口は、コナン・ドイル原作の「名探偵シャーロック・ホームズ」であり、その次の扉がモーリス・ルブラン原作による「怪盗アルセーヌ・ルパン」でした。
両方とも最初は、小学校高学年用に翻訳された児童書からスタートしますが、基本的にマセガキでしたから、次第に子供用のぬるい翻訳では物足りなくなり、より刺激的な大人の世界を体感すべく、一般の文庫本を手に取るようになっていった記憶です。
そんなわけで、ミステリー界の両雄に続く作家としてファンになっていったアガサ・クリスティや、ディクスン・カーは、ほぼ文庫で読んでいます。
僕は、前期高齢者になるこの年まで、自分の身の回りで殺人事件を経験したことは一度もありません。
それは、日本という平和と治安には折り紙付きの国に生まれたからという事情もあるでしょう。
おそらく多くの人にとって、殺人という日常的には超レアな出来事は、もっぱらテレビや映画、そして小説などのフィクションの世界で描かれてきたことが、ベイシックな経験値となって積み上げられてきているように思えます。
殺人礼賛、暴力奨励といった、目に余る非道徳的な作品を作るクリエーターはそうそういるものではありません。
(何人かの名は挙げられますが)
たとえ、暴力的な描写があったにせよ、その背後には、通常はアンチ暴力のメッセージが逆説的に込められているという体にはなっているもの。
そうでなければ、基本的に人間社会では、世間一般的な評価は受けられないという建付けになっている気はします。
しかし、どうやら、これが人間が作り上げてきた「たてまえ」なのではないかという疑問も、次第に湧き上がってくるわけです。
モラルでいくら押さえつけようと、人間だれしも「見たい」ものは制御できないのではという話です。
殺人をリアルに描写すれば、表現的にはグロテスクになります。
これを生理的に受け付けないという人もいるでしょう。
しかしこれを、顔を覆った手の指の隙間から覗き見ながら楽しめてしまう人も、一定数以上いるということもまた事実。
グロテスクにはせずとも、スマートな描写や演出で、殺人を見せてしまうその道の達人は、クリエイターの世界には多く存在します。
映画界でいえばこの人。
どんなに面白い作品を作ろうとも、アカデミー賞という公式評価にはソッポを向けられたアルフレッド・ヒッチコックです。
彼の作品が、「殺人」というテーマをとことん掘り下げて、映画ファンには圧倒的な評価を受けたことなどは、殺人がエンタメになるという最もいい証左といえるかもしれません。
小説や映画が、非日常を体験させてくれる仮想現実体験装置だとすると、そこに描かれることは、非日常であればあるほど面白いということは理解できます。
その意味では、SF的未来宇宙や、タイムリープした過去世界と肩を並べるくらい面白いのが、仮想殺人ミステリーなのもうなづけます。
そんなわけで、大変前置きが長くなりました。
本作は、殺人という「不穏当で非倫理的」な出来事を、あくまでも小説というフィクションの世界で、仮想現実として存分にお楽しみくださいという殺人ミステリー小説です。
エンターテイメントでありますから、殺人をとことん楽しむ仕掛けは、ふんだんに盛り込まれています。
まずは殺人事件が繰り広げられるのが、謎の団体が地下に建設した「暗鬼館」というクローズド・サークルであるということ。
ミステリー好きであれば、大半の人は知っています。
クローズド・サークルに閉じ込められれば、たいていの登場人物は殺されていきます。
そして、この暗鬼館に集まってくる人物たち。
本作においては、求人雑誌に掲載された時給112000円の募集広告に、怪しみつつ応募した、いずれもわけありの男女12人。
主催者のお眼鏡にかなった人物たちは、いったいどんな基準で選ばれ、どんな関係があるのか。
そして、主催者から指示される暗鬼館の心理実験における奇妙なルール。
このあたりから、物語は一気にサバイバル系RPGゲームの様相を呈してきます。
実験期間は七日間。
参加者それぞれには、個室が用意され、夜間タイムは各自がその部屋で過ごすこと。
人を殺したもの、殺されたもの、探偵として犯人を指摘したもの、その助手を務めたもの、そして、犯人逮捕の証言をしたものには、ボーナス・ポイントが与えられます。
反対にペナルティもあります。
犯人を間違えた探偵、睡眠時間に出歩いたもの、探偵役に犯人と指摘されたものは監獄室行きなどなど。
つまり、この実験期間中、暗鬼館に集まった被験者の間では殺し合いが起こるということがはじめから想定されているわけです。
個室のほかに暗鬼館に設置されている部屋が、殺されたものが収容されるであろう霊安室。
そして、犯人と指摘されたものが監禁されるであろう監獄室。
被験者たちは、思わず顔を見合わせます。
しかし、誰かが言います。
「だって、期間中、みんな一緒に行動し、誰もなにもしなければ、全員が高額のアルバイト料をもらってここから出られるよね。」
誰もがそれに納得をしますが、それをあざ笑うかのように、三日目の朝に起こる最初の殺人・・・
この殺人ゲームをエンタメ化していく仕掛けはまだあります。
まず参加者の個室それぞれに置かれた奇妙な箱。
この箱の中に入れられているものは、人を殺す際に使用せよといわんばかりの武器です。
ある者の箱に納められていたのは火かき棒。
もちろん、マントルピースの火種処理に使用される道具ですが、人を殺す武器に使えないこともないという代物。
するとそこには一緒に一枚のメモが置かれています。
「殴殺用」「まだらの紐」
メモには、この武器に関する古典ミステリーにおけるこの武器が使用された際の蘊蓄が書かれているわけです。
こうなってくると、著者の古典ミステリー懐古趣味全開という気になってきますが、「まだらの紐」を知っているものとしては、これはやはりニンマリとしてしまいます。
シャーロック・ホームズが解決した事件の一つですが、気になって確認したところ、ホームズが毒蛇を殴打したのは、火かき棒ではなくて、ステッキと書いてありましたね。
ある参加者の部屋にあったのは、緑色のカプセル。
これは、ディクソン・カーの長編ミステリーに「緑のカプセルの謎」というのがありました。
中に仕込まれていたのは毒薬です。
小説では青酸カリでしたが、本作の参加者の緑のカプセルに仕込まれていたのはニトロベンゼン。
ちなみに、こちらの小説では、別の殺人事件で火かき棒が使われていました。
ボウガンという武器をあてがわれた参加者もいました。
この武器は、弓矢を拳銃のように発射して、相手を殺傷するもの。
これは、すぐに思い当りました。
つい最近読んだ古典ミステリーに登場していましたね。
これも、ディクスン・カーが、カーター・ディクソン名義で発表した「ユダの窓」に登場したクロスボウと同義の武器です。
但し本書では、「僧正殺人事件」がその例として挙げられていましたが、これは未読です。
マンドリンという楽器を武器として与えられた者もいました。
本作の中では、武器としては登場する場面はありませんが、この楽器を撲殺の武器に使った有名なミステリーとしては、エラリー・クイーンの「Yの悲劇」で間違いないでしょう。
これも、最近読んだばかりなのでよく覚えています。
ニコチンなんていうのもありましたが、これが武器になるとピーンときた方は、「Xの悲劇」を読んだことのある方でしょう。
この作品では、コルクボールに無数に刺された針先にニコチンが塗られていましたが、このニコチン針ボールは、本作には登場していません。
あくまでも毒殺用に使うニコチンのみ。
その他、「氷のナイフ」「手斧」(横溝正史の作品にあったかも)「スリングショット」と登場しますが、これが何の小説に使用された武器なのかわかる方は、本作を10倍楽しめるミステリー・ファンかもしれません。
武器というわけではありませんが、暗鬼館のダイニング・ルーム広いの中央テーブルの上に置かれていたのは、参加者人数分のインディアン人形。
これも、クローズド・サークル系ミステリーとしては、古典中の古典。アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」にオマージュを捧げたものです。。
小説のように、人が死ぬごとに人形が倒されていくという演出はありませんでしたが、全員死亡する展開が多いクローズド・サークル系ミステリーには、欠かせない小道具です。
そんなわけで、古典ミステリーを愛してやまないファンにとっては、遊び心満載な作品になっているのが本作。
筆者の米澤穂信氏も、本作の執筆は楽しくてしょうがなかったのではないかと推測する次第。
作者の言葉によれば、タイトルの「インシテミル」は、「淫シテミル?」から思いついたそうです。
なにやら作者からは、本作はかなり危ない小説になっていますけど、よろしかったら楽しんでみませんかと、挑戦的にささやかれているような気分になりますね。
昔々のお話です。
まだ、名探偵ホームズや、怪盗ルパンに夢中だった小学校高学年だった頃、何冊が読んだ後には、A6判の小さめの大学ノートをよく購入いたしました。
これに何を書いたのか。
実は、自作のミステリーなんですね。
思い付いた稚拙なトリックを駆使して、学校の中の気に入らない奴を、悪意たっぷりにデフォルメした被害者に仕立てて、作中で殺す構想を、学校の授業中にいろいろと練っていたことを思い出します。
大きな声ではいえませんが、かなり危ない小学生だったかもしれません。
僕は幸いにも、いまだに人生において、人を殺したことはありません。
いまのところ、特に殺したくなるほど、憎き相手もいません。
しかし、古今東西のミステリーを読み漁って、自分なりにしたためた殺人のアイデアはないわけではありません。
ミステリー・ファンのひそかな楽しみですね。
これを墓場まで持っていくのももったいない話ですので、せめて一遍くらいは、殺人ミステリーをしたためてみたいという気にはなっております。
老後の楽しみに、密かに「インシテミル」のもいいかもしれません。
ボケ防止にはなるかも・・・・
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