久しぶりに見直しました。
夏を思い返したくなるこの時期に見ると、やはりこの映画は本当にいい。
20代前半までで、おそらく数回は見ていると思います。
鑑賞したのはすべて関東一円の名画座ですね。
当時は、「ぴあ」という、情報誌がありましたので、この映画が見たくなると、上映館を探して、埼玉県から日帰りで行ける範囲の映画館なら、どこへでも出かけた記憶があります。
本作は1971年に公開されたアメリカ映画です。
監督はロバート・マリガン、脚本はハーマン・ローチャーが担当しました。
この映画は、ローチャーの回顧録に基づいており、思春期の少年のひと夏の経験を描いています。
ローチャーの回顧録は文庫本にもなっており、これも当時しっかりと読んでいます。
物語は1942年の夏、ニューイングランドのナンタケット島を舞台に展開します。
主人公のハーミーは、友人のオシーとベンジーと共に島で過ごすことになります。
彼らは性への好奇心が旺盛な思春期の少年たちです。
ハーミーは、丘の上の一軒家に住む美しい人妻ドロシーに魅了されています。
ドロシーの夫が戦争に出征した後、ハーミーはひょんなことから彼女との接近遭遇に成功。
彼女の海岸沿いの自宅に呼ばれるまでになります。
ある晩、ハーミーが彼女の自宅に訪れると・・・
いわゆる思春期の少年の「筆おろしもの」とカテゴライズされる映画は、あの当時かなりありました。
とにかく、映画を見る動機はかなり不純でしたので、その手の映画は片っ端から見ていましたね。
たいていは、主演女優のエロティックなシーンが期待できるので、まず見逃していないはずです。
映画を作る方も、僕のようなスケベを映画館に呼び込む標的にしていますので、そのサービスが行き届くほど映画はB級になっていくという悲しき宿命でした。
しかし、そのカテゴリーの中にあって、本作には映画史に残る名作の香りが漂っていました。
もちろん、監督であるロバート・マリガンの、ノスタルジックを前面に押し出した格調高い演出に依るところも大きいでしょう。
本作を永遠の名作にすることに大きく貢献した要因は二つあると思っています。
その一つは、間違いなく、ミッシェル・ルグランによるテーマ曲の素晴らしさでしょう。
このテーマ曲の、本作への貢献度は計り知れません。
今、前期高齢者の年寄りとなった自分が、久しぶりに本作を鑑賞しても、このテーマ曲が流れるシーンは、もう無条件で胸が締め付けられます。
おそらく、このテーマ曲の、胸キュンBGMとしての威力は、生涯ベストワンの位置を下りることはないと確信出来ます。
多感な思春期の頃に刷り込まれた音楽体験は、それくらい強烈だということでしょう。
1987年に、当時はまだ高価だったビデオ・カメラを購入して以来、毎年秋風が吹くこの時期には、撮りためた「おもいでの夏」の映像をせさっせと編集していました。
そして、そのエンディングには、かならずこのテーマ曲をBGMとして使っていたことを思い出します。
まだ、YouTubeなどは、影も形もない頃でしたので、編修した動画は、毎回会社の同僚たちを呼んで上映会をしていたことを、つい昨日のことのような思い出しております。
この映画のサントラ盤アルバムも探し回りました。
まだAmazon もなかった頃でしたので、新宿駅西口の中古レコード・ショップで目指すLPレコードを見つけたときには、小躍りして喜んだ記憶があります。
今もこのブログを書きながら、テーマ曲を聞いていますが、気が付けばパソコンを打つ指先が止まっていますね。
そして、本作を永遠の名作にすることに大きく貢献した要因のもう一つは、なんといっても本作の主演女優ジェニファー・オニールの魅力です。
彼女が本作で演じたドロシーは、当時、ティーン・エイジャーだった僕のハートをガッチリと鷲掴みにしてしまいました。
あの当時、名画座のスクリーンで、ジェニファー・オニールの姿を見つめる僕の顔は、おそらくあの15歳の少年ハーミーを演じたゲイリー・グライムスのとろけるようなヤニ下がり顔よりも、締まりがなかったとような気がします。
映画とは、日常ではお目にかかることのない魅力的な美女を堪能する娯楽という、僕の映画に対するポリシー形成に、おおいに貢献したのが本作であることは間違いありません。
この映画で、彼女にハマってからは、彼女の出演する映画は、公開されれば片っ端から追いかけましたが、あのドロシーには二度とあえませんでした。
映画の面白さに主演女優の美しさや魅力が貢献することは多々ありますが、本作の場合はそれけににとどまらない印象です。
映画と主演女優の魅力が、明らかに化学反応を起こしているんですね。
これはもう理屈ではありません。
同じ脚本、同じスタッフでもしこの映画を作ったとしても、主演女優がジェニファー・オニールでなければ、それは全く違う印象の映画になっているような気がします。
そういう作品にめぐり逢えた女優も幸運なら、この時期にこの年齢のジェニファー・オニールを獲得できた映画自体もラッキーだったと思います。
「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン、「冒険者たち」のジョアンナ・シムカス、「小さな恋のメロディ」のトレイシー・ハイド、「ロミオとジュリエット」のオリビア・ハッセイ。
たった一本の映画で、永遠のミューズになった女優はたくさんいますが、本作のジェニファー・オニールも間違いなくその一人だと思います。
ただ、それはもしかしたら、映画女優としては不幸なことだったかもしれませんが。
さて、本作にはハーミーとドロシーのひと夏の出来事同時に、15歳の「猛烈トリオ」によるおバカ騒動が描かれていきます。
思春期の少年たちの「おバカ騒動」といえば、セックスがらみなのは古今東西一緒でしょう。
とにかく、頭の中は、エロい妄想ではちきれんばかりだったというのは、個人的にも大いに心当たりがあります。
仲間の一人ベンジーの家にあった写真解説付きの性医学書をこっそり持ち出して、メモを取りながらかじりつくというシーンがありました。
これは似たような思い出があります。
わが実家は実は書店でした。
性医学書は並んでいた記憶はありませんが、全編オールカラーのグラビア書籍「HOW TO SEX」のことは、よく覚えています。奈良林祥という医学博士による医学書という体裁なのですが、挿入写真はかなり刺激的でした。
これを閉店後の店に下りて行って、夜な夜な眺めていたんですね。
本屋の息子であることの幸福を心の底からかみしめていました。
しかし、そういう密かな楽しみがあると、これを黙っていられないのが悲しい性。
その本から得た知識を友人たちに自慢気にひけらかすことになります。
するとそれを聞いて、あきらかに、コチラにすり寄ってくる連中がいるわけです。
彼らの目的はひとつ。
「今度おまえんちに行くから、その本を見せろ」というわけです。
どういう目的であるにせよ、友人が増えることについては悪い気はしませんので、こちらは彼らのために、前日そっと店からクスねてきたその本を部屋に隠しておき、遊びに来た彼らに見せるわけです。
彼らは、その本を食い入るように見る。こちらは、両親や弟たちが、突然この部屋に入ってこないか、外の気配に全神経を集中させる。
まるで、この映画にもあるようなシーンを、こちらも個人的にリアルに経験しているわけです。
なんだよ。
中学生がスケベなのは、埼玉もアメリカの片田舎も一緒じゃねえかと、妙に安心させられました。
実は、同じ時期、我が家にはドロシーもいました。
実家の本屋で、パートのアルバイトをしてくれていたS子さんです。
彼女は、岩手県から出て来ていて、当時の我が家から徒歩で10分程度のところに、お兄さんと一緒に住んでいました。
この人がジェニファー・オニールに負けず劣らず綺麗な人だったんですね。
両親が話していたのを盗み聞きしたところによれば、当時で年齢は22歳。
どこか東北弁のアクセントが抜け切れていない話ぶりを本人が気にしていたかどうかは不明ですが、それが妙に魅力的でした。
当時の僕はマセた高校生でしたので、突如我が家に現れたミューズには、いろいろな意味で困惑しました。
高校のクラスにも、美人はもちろんいましたが、それよりももっと身近なところに現れた年上の女神の魅力は圧倒的でした。
今から考えてみると22歳は決して大人ではないかもしれませんが、クラスメイトの女子に比べて、彼女は圧倒的に「大人の女」でしたね。
あの当時の、僕の彼女に対するアプローチは、涙ぐましいものでした。
デートに誘うなどということは絶対にしません。
僕がしたことは、彼女の休憩時間になる4時から4時30分の間に、家に戻ってくること。
これのみです。
しかも、それが毎日では、両親にいらぬ勘繰りをされるので、二日に一遍、もしくは三日に一遍という、いかにも偶然とおもわれるようなアルゴリズムを作って、彼女の休憩時間を狙いすますわけです。
目的は一つ。それは、その休憩時間に、彼女に笑ってもらうこと。それだけでしたね。
とにかく、自分が女性にもてるための最大の武器は、「楽しい人」と思われることだけだと思っていましたので、ここにはこだわりました。
彼女にも通じそうなネタを思い付けばメモしていましたね。
そして、彼女にウケたネタは、当然そこから広げていきます。情報収集も怠りません。
後に付き合うことになる女性たちとも、デートの際、会話の話題に困ったことがなかったのは、この時期の彼女と過ごした時間で培われたものだと断言できますね。
とにかく、彼女はよく笑ってくれました。
S子さんとは、実は一度だけデートをしたことがあります。
といっても、僕が誘ったわけではありません。
我が家は、本の他に、文房具も扱っていたのですが、その見本市に二人で行って来いと送り出してくれたのは両親でした。
場所は赤坂プリンス・ホテル(だったような?)。
招待客にはフルコースの食事も用意されているという豪華なイベントでした。
基本は店主夫婦そろっての招待なのですが、フルコースと聞いただけで母親がおじけづいたわけです。
願ってもないチャンスでしたので、「面倒くさいなあ」という姿勢は崩さないまま、内心ではガッツポーズ。
とにかくこの日のために、着るものも靴も新調しました。
このあたりは、ドロシーの家に訪れる約束を取り付けたハーミーとまったく一緒のノリです。
フランス料理のフルコースなど、もちろん僕も食べたことはありませんでしたが、これはしっかりと事前に学習しました。
複数おかれたナイフとフォークは、外側から順番に使うこと。目の前に一品ずつ出された料理は食べきらないと次の料理が出てこないこと。
もちろんネット情報などなかった時代ですが、我が家は本屋です。
実用書のコーナーには、フランス料理のマナー本も、しっかりと置いてありました。
赤坂までの電車のアクセスも、しっかりと時刻表の「首都圏国鉄地下鉄案内図」を頭に叩き込みました。
帰りは新宿によって、ゲームセンターに彼女を案内するという青写真もバッチリ。
本作のハーミーよろしく、高校生の僕は、完全に背伸びしまくりで、この一日彼女をつつがなくエスコートすることに全神経を集中させていました。
当日我が家に現れた彼女は、今までに見たことのないお洒落な装い。
これを我が両親に思い切りいじられた彼女は、顔を真っ赤にしていました。
駅で彼女の分の切符を買って渡そうとすると、彼女がポツリと一言。
「わたし東京行くのなんて初めてだから。ちょっと怖いなあ。頼りにしてるからね。」
当時の彼女は、僕よりも4歳か5歳年上でしたが、この時だけはこちらが年上の気分でした。
この思いがけない東京デートは、なんとかつつがなく終了。
最後、新宿駅に向かうまでの道を、彼女は僕のリクエストを快く受け入れてくれて、腕を組んで歩いてくれましたね。
S子さんは、僕が大学生になってからしばらくすると、突然店をやめてしまいます。
それを聞いたのは、両親からでした。
理由は、結婚が決まったからとのこと。
彼女にそんな相手がいたなんてことは、こちらとしては、まさに寝耳に水。
そんなわけで、結局彼女とは、今思い返せば「別れ」の挨拶もしていません。
映画の中のドロシーは、別れの朝、ハーミーに手紙を残していましたがそれもなし。
彼女の家はわかっていましたが、訪ねていく理由も勇気も持ち合わせていませんでした。
もうその彼女も考えれば今は70歳近いはずです。
おそらくは、東北訛りの抜けきらない「いい」おばあちゃんのはずです。
こちらも負けず劣らず年輪を重ね、高血圧と頻尿に悩む前期高齢者になり果てているわけですが、悔しいのは彼女がこちらの記憶の中では、永遠にあの時のままだということ。
しかも、その20代前半の彼女は、その年齢のままで、永遠に魅力的な「年上の女性」であり続けるということですね。
この「おもいでの夏」に主演したジェニファー・オニールも、撮影時の年齢は22歳。
しかし、この映画でドロシーの虜になった映画少年たちにとっては、たとえ自分たちがいくつになろうとも、彼女は永遠に「年上の女性」なんですね。
今65歳になって、改めて本作を見直しても、この映画を始めてみたときの切ない思いが見事に蘇ります。
ドロシーの家に訪れるハーミー。そして彼はテーブルの上に広げてある電報を読んでしまいます。
「あなたのご主人はフランス戦線において、名誉の戦死を遂げ・・・」
奥の部屋から泣き腫らした顔で現れるドロシー。
彼女は何も言わずに、レコード盤に針を乗せます。
静かに流れだす、ミッシェル・ルグランの旋律。
ハーミーはふり絞るようにドロシーに言います。
「お悔やみを・・」
ドロシーは、ハーミーの肩に頬をうずめます。
レコードに合わせてゆっくりと身を寄せて踊る二人。
ハーミーの目からも自然に涙がこぼれ落ちます。
ドロシーは、やさしくハーミーにキスをして、ゆっくりと寝室へ。
そして、服を脱ぎ、ハーミーの胸に身をゆだねるドロシー。
一つになった後、ドロシーはガウンを羽織り、テラスに出て煙草をくわえています。
家を去ろうとするハーミーの背中に、ドロシーがいいます。
「おやすみ。ハーミー。」
この二つのセリフの間に流れていた時間は10分42秒(ちゃんと計測しました)です。
この間に、聞こえる音声は波の音だけ。
余計なセリフは一切排除した静かなラブ・シーンは心に残ります。
次の朝、ハーミーがドロシーの家を尋ねると、もうそこに彼女の姿はありません。
ドアには、ハーミーに当てた彼女からの手紙が。
ハーミー。私は実家に帰ります。
わかってください。せめてもの書置きです。
昨夜のことは弁解しません。
時がたてばあなたにもわかるでしょう。
わたしはあなたを思い出にとどめ、あなたが苦しまないことを望んでいます。
幸せになってください。ただそれだけ。
さようなら。 ドロシー
夫の死の知らせを聞いた夜。
なぜドロシーは、15歳の少年とベッドを共にしたのか。
そして家を去るハーミーの背中を見つめながら、ドロシーは何を思っていたのか。
実は今の今まで、そんな大人の女の心の機微なんて、映画の中のハーミーはわからなくとも、自分自身はわかったつもりでいたんですね。
ところがどっこい。
今回何十年ぶりに本作を再見してドキリとしてしまいました。
この時のドロシーの気持ちは、実は今もよくわかっていないということに気がついてしまいました。
僕の答えは明らかにどれも陳腐です。
そのどれもこれもは、全てあの10分42秒の静かな波の音に呑み込まれてしまいました。
どうやら、死ぬまでにもう一度くらいは、この映画を見る必要がありそうです。
女心の深淵は、そんなに浅いものではないようです。
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