久しぶりに見直しました。
映画の公開当時は、まだ小学生でしたので、もちろんロードショーでは見ていませんが、たぶん高校生になってから、どこかの名画座で見ていますね。
当時は、映画雑誌「スクリーン」「ロードショー」は欠かさず読んでいました。
そして、グラビアの映画紹介で、キワどいシーンのありそうな映画をもれなくチェック。
それを自分の映画ノートに書き出して、見たものを赤線で消していくなんてことをやっていました。
1970年代くらいになると、一般映画でも、バストトップまで見せてくれるくらいのサービスは、映画業界でも当たり前になってきました。
日本映画ですと、お色気映画は、日活ロマンポルノや、東映の時代劇ポルノなど、すべて成人映画に指定されてしまい、さすがに高校生にはハードルが高くなります。
ですので、動く女性のヌードを見ようと思ったら、どうしても洋画になります。
映画雑誌に掲載されるスチールで、お目当てのヌードシーンがあることかわかれば、どんなにB級の低予算映画でも見に行ったものです。
まだ、アダルトビデオなどなかった時代ですから、スケベ高校生がそのスケベ心を満たすには、手間も時間もかかったわけです。
もちろん、映画雑誌がヌード情報をすべて伝えてくれるわけではありません。
思いもかけずお気に入り女優のバストトップが拝めたという作品もあります。
今でこそ白状しますが、とにかく映画鑑賞の目的はかなり不純でしたので、そのうちに、映画のストーリーや、キャスト欄の情報だけで、お目当てのシーンがあるかないかを判断できるようになってくるんですね。
スケベの直観はナメたものではありません。
例えば、「ゴッドファザー」に出演していたシモネッタ・ステファネッリという女優がいます。
シチリア島に逃げたマイケル・コルレオーネと結婚して妻となるアボロニアを演じたのが彼女。
マイケルの目の前で爆死してしまう役です。
実は彼女の作品は、「ゴッドファザー」を見たのと同じ年にもう一本見ています。
イタリア映画で、その名も「黄金の七人/1+6エロチカ大作戦」。
ロッサナ・ポデスタ、シルバ・コシナというイタリア映画界の大物女優がお色気を競う映画でしたが、若い彼女が演じた純真な娘は、個人的にはとても印象的でした。
その彼女が、同じ年に公開された「ゴッドファーザー」にもクレジットされていたので、あの名作の何たるかも知らずに、個人的にはただ彼女目的で見に行ったんですね。
そして、そこで思いもかけず彼女のヌードを拝めることが出来て、コッポラ監督にはお礼を言いたいところでした。
映画「ゴットファザー」は、後にこれが映画史に残る傑作になっていると知り、あわてて何度か見直しましたが、最初に見たときには、正直アボロニアのかなり独特の乳首の印象しか残っていませんでした。
さて、本作「愛の狩人」も、そんなスケベ映画オタクのレーダーがしっかりとキャッチした映画の一本でした。
日本の映画会社がつけたこの邦題(確か同じタイトルのロマンポルノもあったような?)も秀逸でしたが、本作の原題は "Carnal Knowledge"。
翻訳ソフトの直訳によれば「肉欲の知識」ということですから、ずばりセックスを真正面から扱った映画ということになります。これを、あの当時の僕が見逃すはずがありません。
監督は、マイク・ニコルズ。
この人は、なんといっても1967年の「卒業」で名を馳せた名監督です。
元々この人は舞台演出監督出身なのですが、その前年に撮られた「バージニアウルフなんて怖くない」が映画監督デビュー。
この映画がなかなかすさまじい映画で、倦怠期の夫婦がひたすら罵り合うというだけの会話劇です。
彼はこの作品で、リチャード・バートンか、エリザベス・テイラーのどちらかに(未見なのでわかりませんが)、映画史上初めて "Fuck!" という言葉を言わせています。
これはそれまでアメリカ映画界を自主規制していたヘイズ・コードに対して完全に反旗を翻した作品でした。
規制撤廃の引導を渡したのは1967年「俺たちに明日はない」や「卒業」だとされていますが、事実上は「バージニアウルフなんて怖くない」がそのきっかけとなっているのは間違いないところ。
このコードは、1968年に廃止されます。
そんな、既存のの倫理観をぶち壊すことでアメリカン・ニューシネマの旗手となった監督が、セックスに正面から取り組んだ作品を撮るというわけですから、これはスケベの血が騒いだのは言うまでもありません。
映画雑誌のビジュアル情報をチェックすると、まず目に入ったのは、あのサイモン&ガーファンクルの、アート・ガーファンクルが、キャンディス・バーゲンとキスをしながらそのバストに、服の上から手を伸ばすシーン。
もちろん、最近のAVのような激しいものではありませんが、これは当時としてはかなり強烈でしたね。
それまでの映画では、グラマー女優の魅惑のバストを誇張する演出というのはさんざん見てきましたが、たとえ服の上からでも男優が女優のバストに触れるというカットは、この映画で初めて見ました。
これは期待できる。
直感的にそう思ったのはよく覚えています。
そして、さらに強烈だったのは、アン=マーグレットでしたね。
この人は、60年代は、エルビス・プレスリーとの共演映画で人気を獲得した歌って踊れる女優でした。
そのフェロモンをまき散らすダイナミックなダンスで、「女エルビス」なんて呼ばれていました。
しかし、本作の彼女は、歌とダンスは完全封印。
そのグラマラスな肢体と、演技力のみで、愛に苦悩するリアルな女性像を演じていました。
特に衝撃的だったのは、彼女の巨乳に、ジャック・ニコルソンが顔を埋めていくシーンです。
(もちろんドレスは着ています)
これには、恥ずかしながら「なまつばごくり」でした。
それまでどれだけお色気映画を見てきていても、そんなエロいシーンにお目にかかったことはありませんでした。
僕の「おっぱいフェチ」は、この瞬間に誕生したといっても過言ではありません。
本作は、ジャック・ニコルソン演じるジョナサンと、アート・ガーファンクル演じるサンディの、学生時代から中年になるまでのおよそ20年に及ぶ愛と性の遍歴を描いたもの。
学生時代の二人の間で揺れる女子大生スーザンを演じたのがキャンディス・バーゲンです。
当時すでに34歳になっていたジャック・ニコルソンと、30歳になっているアート・ガーファンクルに演じさせる大学生というのは、今再見するとかなり無理があるのは否めません。
しかもサンディは、まだチェリー・ボーイという設定でした。
キャンディス・バーゲンは、撮影当時25歳で、これは女子大生でもギリギリセーフの年齢ですが、スクリーンの彼女はかなり大人っぽい印象。
髪を二つ編みにしたり、若く見えるように工夫はしていましたが、サンディに「君は処女かい?」と聞かれてうなずいているシーンでは、「それはないだろう」と思ってしまいました。
時間軸を戻れば、冒頭のダンスパーティのシーンでは、グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」が流れていましたので時代はまだ1940年代でしょう。
もしかしたら、その時代の若者たちは、まだそこまでお盛んではなかったかもしれません。
スーザンは、ジョナサンがサンディの親友と知りつつ関係を持ちます。
純朴なサンディにしてみれば、これは完全にNTRの構図。
その三人との会話シーンで、スーザンは、これでもかというくらい笑い転げています。
このシーンを、マイク・ニコルズは、男性二人を画面に出さずに、ひたすらスーザンのアップのみのワンカット撮影で捉えます
二人の間で苦悩しているはずのサンディが、涙を流して笑っているシーンが延々と続くのですが、これが妙にリアルでした。
そして、サンディに自分のことを言えと迫るジョナサンに、最後は別れを告げられる電話のシーンでは、今度は大粒の涙が彼女の鼻先を伝って(確かにそう見えた)こぼれ落ちます。
この対比が強烈に効いていて、愛と性のモラルに苦悩するスーザンの心情と、男と女の愛と性の深淵は垣間見た気にはなれました。
しかし、男ども二人は・・・
さて、30代になったジョナサンの前に現れた女性は、アン=マーグレット演じるボビー。
とにかく、その登場シーンから、黒いドレスにはちきれそうな彼女の胸の谷間が、大方の男性観客の目をくぎ付けにします。
そして、前記したその胸に、ジョナサンが顔をうずめるシーン。そして・・
二人はすぐに同棲を始めます。
しかし、最高のセックス・パートナーを得ても、縛られたくないジョナサンは結婚を承諾しません。
それでもボビーを籠の鳥にしておきたいジョナサン。
家事をほとんど出来ないボビーとの生活は、次第に殺伐としたものになっていきます。
ボビーを口汚く罵るジョナサンに、それでもボビーは結婚を懇願します。
サンディは、スーザンと別れ、シンディというパートナーを得ています。
ある日、ジョナサンのアパートに訪れた二人に、彼は夫婦交換を持ち掛けます。
ジョナサンは、シンディにあっさり振られますが、ボビーの寝室では・・・
そして、40代になったサンディは、まるで娘のような年齢の少女と付き合うようになり、ジョナサンは、高級情婦のもとへ。
これだけガッツリと大人の映画を見せられて、当時の映画オタクの高校生は精一杯背伸びして考えます。
男と女にとって、愛とはなにか。セックスとは何か。
まずは、男性の立場からです。
男性は進化論的な観点から考察すれば、まずは遺伝子を広めるために多くのパートナーを求める傾向があるということ。
これは、男性がより多くの子孫を残すための戦略に過ぎない。
また、社会的には、男性はしばしば競争的であり、ステータスや力を示すことが重要視されることが多い。
このため、愛と性に対する解釈も、自己の価値を高める手段として捉えられることがありがち。
本作のジョナサンを見れば、それは一目瞭然。
男の性欲は、長い人類の歴史の中で培われた遺伝子による生存戦略。
では、女性の立場からも考察してみましょう。
女性は進化的には子供を育てるために安定したパートナーを求める傾向がある。
これは、子供を育てるための資源や保護を確保するための戦略である。
社会的には、女性はしばしば感情的なつながりやコミュニケーションを重視する傾向があり、愛と性に対する解釈も、深い感情的な結びつきや信頼関係を重視するものとなる。
本作のスーザンも、ボビーも、愛と性を切り離せずに苦悩します。
愛と性の問題は女にとってはいつでも複雑怪奇、しかし男にとっては単純明快。
1934年にアメリカ映画界で導入されたヘイズ・コード(Hays Code)は、映画の内容を厳しく規制する自主規制基準でした。
映画の普及に伴い、その内容が社会に与える影響についての懸念が高まり、特に、暴力や性描写、反社会的行為を含む映画が増えたことで、宗教団体や公共道徳を守る団体からの批判が強まりました。
カトリック教会を中心としたこれらの団体は、映画が社会の道徳を堕落させると主張し、規制を求める声が高まりました。
映画業界は、政府による直接的な検閲を避けるために、自主規制を導入する必要があったわけです。
映画を広く大衆に受け入れてもらうために、映画界は、自ら進んで健全で品行方正という方向に舵を切りました。
しかし、こういった建前のモラルに支配されたお行儀のいい映画は、次第に観客には見透かされていき、映画産業は衰退していくことになります。
そしてそのカウンター・カルチャーとして登場したのがアメリカン・ニュー・シネマでした。
このムーヴメントは既存の倫理をことごとく破壊していき、喝采を浴びていきます。
「イージー・ライダー」しかり、「ソルジャー・ブルー」しかり「バニシング・ポイント」しかりです。
そして、セックスというモラルに対しては、ポルノ映画という直接的手段を使わずに、一般興業の映画として、真正面から向き合った作品として本作があるわけです。
よし、これくらい、愛と性の深淵について掘り下げ、本作の映画史的立ち位置を検証できていれば、この映画を語る資格はあるだろう。
当時の僕は、ただのスケベであること悟られないために、せっせとそんな理論武装をしていました。
しかし、本作を久しぶりに再見して再確認したこと。
それは、見終わってみれば脳裏に焼き付いていたのは、圧倒的なアン=マーグレットのバストの魅力でした。
愛と性の深淵もどこへやら。
ジョナサンは彼女のバストは「特大のDカップ」といっていましたが、あれは今の基準なら間違いなくGカップ以上。
その彼女が、ベッドに全裸で横たわって、ハンバーガーと紅茶をすすりながら新聞を読んでいるシーンや、あたりまえにブラジャーをつけるシーンがなんとも普段ぽくて艶っぽいことよ。
そして常に彼女のバストトップが、見えるか見えないかギリギリのカメラワークは、なんとも憎い限り。
巨乳AVをさんざん見てきた助平爺の目からも、十分すぎるくらいエロチックでしたね。
アン=マーグレット最高!
そしていつだって、いい女とエッチすることだけを考えている男たちは、サイテーと言われてもしょうがないでしょう。
ジョナサンもサンディも、芸能界のセックス・スキャンダルのゴシップを賑わすタレントも、結局皆ロクなもんじゃありませんが、そういう自分自身もほぼ同じ穴の狢であることは明白。
彼らにモノ言う資格など、僕にあろうはずがありません。
「愛の狩人」たちは、たいていは自分で仕掛けた罠に自らハマって、最終的には身動きが取れなくなるということは、どちら様もどうかお忘れなく。
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