日本の現代ミステリーと、海外の古典ミステリーを中心に読書ライフを楽しんできたのですが、ここらで最近の海外ミステリーも読んでみようかという気になりました。
選書に当たっては、いつもYouTubeの動画を参考にしているのですが、本作の評価が高かったので今回手に取ってみました。
作者はピーター・スワンソン。アメリカの作家です。
スワンソンの作品は心理サスペンスの要素が強く、読者を引き込む巧妙なプロットが特徴。
彼の作品は日本でも高く評価されており、『このミステリーがすごい!』などのランキングでも上位にランクインしていますね。
とにかくこの人の描写は思い切り映画的です。
ト書きの連続のような短いセンテンスで、情景やら心情を的確に描写してくるので、こちらの脳内シアターでは、かなりリアルに映像が再生出来て、まるで映画を見ているように読書を楽しめました。
いつものように、スマホを脇において、聞いたことのない単語が出てくれば、すぐに検索してそのビジュアルを確認。
2015年当時のアメリカ東海岸の風俗を、出来る限り忠実に脳内再生しながら、480ページを2日間で一気に読破いたしました。
物語の発端は、ロンドンのヒースロー空港。
妻ミランダの浮気にストレスを抱えていたテッドは、謎の女リリーに声をかけられます。
彼が冗談半分に「殺してやりたい。」と口走ると、リリーはテッドにクールにこう囁きます。
「彼女は殺されて当然だわ。手を貸すわよ。」
いかにも、サスペンス・ミステリー映画の冒頭シーンみたいでゾクッとしますが、よくよく考えれば、これはあまりに映画的すぎて、普通ではありえないシチュエーションだろうと、一旦は冷静にはなります。
しかし、作者の絶妙な文章力は、二人の繊細な心理を的確にとらえて、知り合ったばかりの男女による浮気妻殺害計画が次第に現実味を帯びてゆく過程がリアルに描写されていき、読者は次第に一級のサスペンスに引きずり込まれていきます。
いったいリリーという女は何者か。
上手なのは、その構成です。
前半は、テッド主観による妻ミランダ殺害計画が進行するパートと、リリー主観による彼女のこれまでの人生のエピソードが、交互に語られていきます。
人を殺すという行為に、罪悪感を感じないサイコパスな女が、いったいどうやって誕生したのか。
リリーのパートは、これを淡々と描写していきますが、これが明らかになるにつれ、リリーの行動に、次第に説得力が生まれてくるという仕掛けです。
まず、頭に浮かんだのは、ヒッチコックの1951年のサスペンス・スリラー「見知らぬ乗客」でしたね。
この映画が扱ったテーマは、交換殺人。
この映画の主人公が、サイコパス男と出会ったのは、空港ではなく列車でした。
本作は交換殺人という設定ではありませんが、「あなたの奥さんを殺してあげましょう。」というプロットはほぼ同じといっていいでしょう。
テッドは、この謎の女リリーの魅力に次第に翻弄されて、妻殺しという沼にハマっていきます。
まず、たっぷりと「殺す側」主観の物語が展開していくという点では、本ミステリーは倒叙モノです。
犯人視点の物語が冒頭から展開していくというパターンは「刑事コロンボ」スタイル。
もっとわかりやすくいえば、「古畑任三郎」スタイルです。
しかし、本作の構成はさらに複雑。
ここに新たに、第三の視点が登場してきます。
それは、二人に命を狙われるテッドの妻ミランダの主観です。
なんと、ミランダはミランダで、浮気相手と共謀して、テッドを亡き者にしようと計画していたという展開です。
物語は、ここで俄然緊張感が高まっていくわけですが、さらに驚くべきことが起きます。
なんと物語の主人公だとおもっていたテッドがあえなく殺されてしまうんですね。
これはビックリです。
物語はまだ中盤です。いったいこのミステリーはどうなる?
(物語は、まだこの後二転三転いたしますので、ここまでのネタバレはどうかご容赦を。)
しかし、ここでも脳裏に浮かんできたのは、ヒッチコック作品でした。
もうピンときた方もいらっしゃると思いますが、そうあの「サイコ」です。
映画のヒロインと思われていたジャネット・リーが、映画の中盤のシャワー室のシーンでいきなり殺されてしまうあの衝撃です。
ここでテッドが殺されて、リリーのミランダ殺害計画はどうなるのか。
そして、ミランダの意外な正体とは・・・
とにかく本作の展開はとことん予測不可能。
物語の解説はこの辺りにしておきますが、本作の後半には、さらにもう一つの視点が登場します。
それは、テッドの殺人事件を追うキンボール刑事主観のパートです。
前半は「殺す側」視点で語られましたが、後半は「追う側」と「追われる側」主観が交互に登場する展開になります。
一つのシーンが、犯人側から語られると、今度は時間を巻き戻して、同じシーンが刑事側から描かれるというわけです。
すかさず脳裏に浮かぶ映画のシーンは、クウェンティン・タランティーノ監督の出世作「レザボア・ドッグス」ですね。
そして、その元ネタとでもいうべき、スタンリー・キューブリック監督のフィルム・ノワールの傑作「現ナマに体を張れ」。
時間軸をいじって、一つのシーンを多面的に描いた傑作はまだありますが、その面白さも、本作のプロット構成は確実に取り込んでいます。
恐るべきサイコパスであるリリーの完全犯罪は成功するのか・・・・・・
本作のラストは、正直個人的には予測できてしまいましたが、驚きこそなかったものの、クライム・サスペンスとしての面白さは欠け値なし。
本作の幕切れは、やはりどうしてもあの映画を思い出させてくれます。
先日亡くなったアラン・ドロンの出世作「太陽がいっぱい」ですね。
そういえば、ヒッチコック監督の「見知らぬ乗客」も、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」も、原作小説を執筆したのはパトリシア・ハイスミス女史でした。
この人は「犯人目線から犯罪の成否を追った小説が、一番サスペンスフルで面白くなる」と語った方です。
そして、こういう原作の方が、もちろん映画の原作には、なりやすいということでしょう。
とにかく、事件を追う刑事も含めて、本作の登場人物は皆かなり危ない人たちばかり。
よくも、これだけ倫理観の欠如した人物を揃えて小説にしたもんだと感心した次第。
ある意味では、犯罪大国アメリカを象徴するようなミステリーであるのかもしれません。どいつもこいつもろくなもんじゃないわけです。
そして、あまりに殺人と言う行為が身近にありすぎてぞっとします。
しかしたとえ悪人ばかりのミステリーでも、小説の面白さは損なわれません。
いやむしろ善人が活躍するよりも、サイテー人間やサイコパスが活躍する小説の方が面白くなるのはエンタメの必然です。
誰しも殺したい奴が一人や二人いてもおかしくないご時世です。
もしも、絶世の美女に「あなたの代わりにその方を殺してさしあげましょう」などと言い寄られたら、どうするか。
あなたは、躊躇なく善人の仮面を脱ぎ捨ててしまうかもしれません。
それは、僕のミランダ通り・・
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