修正主義西部劇というジャンルがあります。
従来のクラシックな西部劇映画が描いてきた「アメリカ西部の神話」や「善と悪の明確な対立」といったテーマを見直し、それを修正する形で作られた西部劇映画のサブジャンルです。
このジャンルは、従来の西部劇の勧善懲悪のパターンを嫌い、より現実的で複雑なキャラクターやテーマを扱い、それまでの西部劇における単純化された価値観を覆すことを目的としています。
ジョン・ウェインが体現したクラシックな西部劇では、主人公は常に正義を象徴し、敵役は明確に悪として描かれることが一般的でした。
しかし、修正主義西部劇では、主人公にもモラル崩壊がある「アンチヒーロー」として描かれるようになるわけです。
彼らは皆、犯罪者やアウトローでありながらも、複雑な動機を抱える人間臭い人物です。
従来の西部劇が「フロンティア精神」や「文明対荒野」といった理想化されたテーマを描いていたのに対し、修正主義西部劇はその裏側にある暴力性や抑圧、差別などを深く掘り下げます。
このジャンルの決定的な特徴は、暴力がよりリアルで残酷に描かれること。
従来の西部劇が暴力を美化する傾向があったのに対し、修正主義西部劇ではその現実的な影響や悲惨さを強調します。
そして、このジャンルは西部開拓時代だけでなく、それを舞台にしたアメリカ社会全体への批判的視点を持つことが多いのも特徴。
特に1960年代から1970年代にかけての時代に、この分野の傑作が多く排出された背景には、ベトナム戦争や公民権運動といった現代社会の問題があったことも見逃せません。
1969年に公開された本作は、アメリカ西部の終焉を背景に、時代の移り変わりと暴力の変質を描いた「修正主義西部劇」の代表的傑作として知られています。
物語は1913年、テキサス州で始まります。
主人公パイク・ビショップ(ウィリアム・ホールデン)は、老齢化した無法者たちのリーダーであり、最後の大仕事として鉄道事務所の強盗を計画します。
しかし、この計画は裏切りによって失敗し、仲間の多くが命を落とします。
生き残ったパイクと数人の仲間はメキシコへ逃亡し、新たな計画を立てます。
彼らはメキシコ革命中の将軍マパチェ(エミリオ・フェルナンデス)と取引を行い、アメリカ軍から武器を奪い、それをマパチェに売ることに同意します。
しかし、この取引は次第に裏切りや緊張を孕み、最終的には壮絶な銃撃戦へと発展します。
最後には仲間たちが次々と倒れる中、パイクたちは自らの信念と誇りを守るために戦い抜きます。
本作の監督はサム・ペキンパー。
彼は脚本家でもあり、特に暴力的でありながら詩的な作風で知られています。
彼の映画の多くは、道徳やアイデンティティ、そして人間社会の腐敗や暴力をテーマにしています。
個人的には、本作よりも先に「わらの犬」や「ゲッタウェイ」などの現代劇を見ていますので、特に西部劇の監督という印象はなかったのですが、本作を監督したことにより、そのスタイルの独自性が認められ、西部劇ジャンルを再定義した人物として、映画史的には評価されています。
ハリウッドがそんな彼に与えた異名は、「血まみれのサム(Bloody Sam)」。
ベトナム戦争中のアメリカ社会における暴力への意識も、この映画に大きな影響を与えました。
ペキンパーは、人々が暴力という現実から常に目を背けていると感じており、その残酷さと現実感を観客に突きつける作品を作りたいと考えていたようです。
「殺人は清潔で簡単なものではなく、血生臭く恐ろしいものだ」という彼のこだわりが、映画全体に色濃く反映されています。
またペキンパー自身がアウトサイダーとしての人生を歩んできたことも、この映画には影響しています。
本作以前、ペキンパーは前作の制作でトラブルを経験し、一時的に業界から干されていた時期がありました。
しかし、この挫折が彼の創作意欲をさらに駆り立て、『ワイルドバンチ』で、自分のビジョンを完全に実現するという並々ならぬ決意を持つに至らせたわけです。
アーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』(1967年)や黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)など、他の革新的な作品も『ワイルドバンチ』に影響を与えました。
特にスローモーションや多角的でスピーディな編集手法は、これらの作品からインスピレーションを得ています。
「七人の侍」で、勘兵衛が、子供をさらって小屋にたてこもった盗賊を仕留める際に、スローモーションを効果的に使った場面がありましたね。
本作のクライマックスとなる血まみれの銃撃戦(「ブラッディ・ポーチ」)シーンは、明らかに「俺たちに明日はない」のあの衝撃のラストに影響を受けています。
本作は単なるエンターテインメント映画ではなく、暴力や人間性、そして時代遅れとなった価値観について深く考察する作品として完成したわけです。
『ワイルドバンチ』は公開当初、その過激な内容から物議を醸しました。
しかし、評論家がどう評価しようと、観客は正直です。
映画は大ヒットし、ハリウッドで冷遇されていたサム・ペキンパー監督は、再び映画監督としての信用を自力で取り戻すことになります。
そして本作は、西部劇ジャンルだけでなく映画全体における表現方法を変えた革新作として認識されていきます。
映画における暴力描写をめぐる議論は、芸術表現の自由と社会的影響の狭間で常に揺れ動いています。
ペキンパーの革新性は、スローモーションと血しぶきの視覚的演出で暴力を「美学化」しながらも、その本質を痛烈に告発した点にあります。
終盤の銃撃戦では、娯楽的な興奮とともに、暴力の連鎖が人間性を剥奪する過程が克明に描かれます。
銃撃戦の中で、ウォーレン・オーツ演じるライルが、負傷しながらも、相手に機関銃を撃ちまくるシーンが描かれますが、彼の表情には神々しいエクスタシーさえ感じられます。
ここには「観客の欲望を刺激しつつ、その快感から自覚を促す」という一見矛盾した二つの意図が意識的にセットアップされています。
21世紀のアクション映画では、殺傷数の増加と「スタイリッシュな暴力」の洗練が加速しています。
ゲーム的要素の導入(コンボ攻撃の可視化など)は、現実感を希薄にしつつ、報酬系神経を刺激する設計です。
この種の描写は「暴力をパズル解決の手段として再定義し、道徳的負荷を軽減させる」と指摘されています。
映画のカタルシスは、明確な物語的文脈(暴力の代償や倫理的葛藤)があって初めて機能します。
しかし、YouTube動画などでは「印象的な暴力シーンの切り出し再生」が日常化しています。
文脈から切り離された暴力の断片に、カタルシスはなく、暴力に対する「感覚の麻痺」を招きかねません。
クリント・イーストウッドが『グラン・トリノ』で示したように、暴力描写には「作者がその意味を全人生をかけて背負う覚悟」が必要です。
同時に、観客側には「暴力を消費する際の倫理的ジレンマを直視するリテラシー」が求められます。
結論として、暴力描写の是非は単純な二分法では語れないということ。
作品が暴力の文脈(歴史的・心理的背景)を真摯に掘り下げているか。
表現形式が観客の生理反応に耐えられる表現になっているか。
制作者が自らの選択に伴う文化的責任を認識しているか。
『ワイルドバンチ』の暴力描写をめぐる議論は、基本的には今もなお解決されていません。
映画における暴力描写は、映画という媒体が持つ責任を考慮に入れて、これからも真剣にチェックされるべきでしょう。
暴力を肯定する人はいないはずです。
映画の中の暴力描写は、人間の本能の中に入れ込まれた暴力に対するガス抜きのためのエンターテイメントとして肯定されるべきか。
それとも、それとは正反対に、眠っている暴力性を呼び覚ます爆撃剤になる可能性があるので自粛すべきなのか。
ある意味では、バイオレンス映画は、人間の暴力性を考える上での、リトマス試験紙なのかもしれません。
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