文字が詰まりすぎていて少々読みづらいという難はありましたが、何とか読み終わりました。
次々と重要人物が紹介され、謎が次々と織り重ねられていく前半は、頭の中の交通整理係の悲鳴も聞こえましたが、後半、その謎が徐々に解き明かされていくパートでは、それが次第に快感に変わっていきました。
外国のミステリーを読む際には、本の冒頭の「人物紹介」をプリントアウトしておいて、誰かわからなくなると、それを眺めて確認し、新しい情報があれば、それに書き加えながら読むという工夫をしています。
外国人の名前は、ミドル・ネームまであることがザラなので、フルネームでメモをしておかないと、まず登場人物が迷子になります。「あんた誰だっけ?」ということになりかねない。
そしてそこに、イギリスのミステリー特有のシニカルな人物描写が加わり、まそれを日本語に翻訳する際の不自然さも手伝って、なかなか日本の小説のようにはスラスラと読めないのは悩ましいところ。
気は張っていても、気がつけば物語進行に置いてけぼりを食らって、何ページが戻って読み直すということもしばしばでした。
それでも、ミステリー史上傑作の誉れ高い本作は、ミステリー・ファンとしては、読み飛ばすわけにもいかず、なんとか食らいついたという次第。
ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』(アメリカ版タイトル: The Three Coffins、イギリス版タイトル: The Hollow Man)は、1935年に発表された推理小説で、特に「密室殺人」のジャンルにおける傑作として知られています。
この作品は、カーの数ある傑作の中でも代表作であり、彼の作品の探偵キャラクターとしては、メルビルと双璧をなすギデオン・フェル博士が登場するシリーズの一つです。
物語はロンドンの冬の夜、居酒屋で魔術やオカルト研究で知られるグリモー教授が友人たちと談笑している場面から始まります。
そこに奇術師ピエール・フレーが現れ、自分の兄弟が教授を狙っていると警告します。
その後、グリモー教授は自宅の書斎で密室状態の中で射殺されるという不可解な事件が発生。
同時に、別の場所でも「足跡を残さない殺人」というもう一つの不可能犯罪が起こります。
これら二つの事件を解明するため、フェル博士が、ロンドン警察のハドレイ警視と共に調査に乗り出します。
物語の中心となるグリモー教授の密室殺人は、最初から徹底的に「不可能犯罪」として描かれています。
「フーダニット」よりも、まずは強烈な「ハウダニット」で、作者は読者に挑戦状を叩きつけるわけです。
部屋は完全に密閉されており、外は雪、外部から侵入する手段がないにもかかわらず、教授はその部屋の中でそのへやのな射殺されています。
そして、その衝撃も冷めやらぬうちに、作者はさらにもう一つの衝撃を畳みかけてきます。
それは、第一の事件直後、雪で覆われた通りで起きたもう一つの殺人事件です。
被害者は銃撃されて死亡しますが、周囲には犯人の足跡が一切残されていません。
この「足跡のない殺人」の謎もまた、常識では考えられない不可能殺人。
ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr、1906年11月30日 - 1977年2月27日)は、アメリカ出身の推理作家で、「ゴールデンエイジ」と呼ばれる時代のミステリー文学を代表する一人です。
彼は「カーター・ディクスン(Carter Dickson)」や「ロジャー・フェアバーン(Roger Fairbairn)」などのペンネームでも執筆しました。
彼の作品は特に「密室殺人」や「不可能犯罪」をテーマとしたもので知られ、その革新的なプロットと論理的解決が後世の作家や読者に強い影響を及ぼしました。
彼は約100種類もの不可能犯罪の解決方法を考案し、超自然的に見える事件に対しても論理的な説明を提供しました。この点で、彼は同時代の他の作家とは一線を画しています。
カーは読者との「フェアプレイ」を重視し、すべての手がかりを物語内で提示するスタイルにこだわりました。
これにより、読者は探偵と同じ条件で謎解きに挑むことができるようになるわけです。
このスタイルは、「黄金時代」の推理小説全体において重要な基盤となりました
彼は、アガサ・クリスティやドロシー・L・セイヤーズなど、多くの同時代作家からも高く評価されました。
カーは、かの有名なミステリーの女王にさえ、こういわせしめています。
「ジョン・ディクスン・カーの作品だけは私を困惑させる」
これはもちろんディスっているのではなく、その複雑なプロットがいかに優れていたかを、その専門家であるクリスティも認めているということです。
僕のような素人ミステリー・ファンが頭を抱えるのは当たり前ということでしょう。
グリモー教授の過去の秘密が明らかになるにつれ、物語はトランシルヴァニアで起きた出来事や「三つの棺」というタイトルに込められた意味へと時計の針は遡ります。
トランシルヴァニアといえば、かの吸血鬼ドラキュラの生誕の地。
グリモーは、19世紀末のこの地で、革命の政治犯として投獄され、脱獄のための手段として、自ら生き埋めにされることを選びます。
そして、荒野に放置された棺桶から、自力で脱出するわけですが、このエピソードが、ドラキュラ伝説をなぞっているのは明らか。
作者は、こういう怪奇趣味を、意識的に物語に取り込むことで、ロジック中心のミステリーに、ゴシックホラーの味付けをしていく小技が実に巧みです。
そしてこのエピソードや、その結果として生じた因縁が、現在の事件と結びつく展開が非常にドラマチック。
この背景が事件の動機や真相解明に重要な役割を果たします。
現代ならかなり眉つばものの設定ですが、この小説の書かれた1935年の段階なら、そのリアリティもギリギリありだったしょう。
反対に、この時代の小説をこよなく愛している現代のミステリー作家たちが、使いたくても使えないで、地団駄踏んでいる設定であるのかもしれません。
もちろん、今の作家たちもしたたかで、特殊設定ミステリーという、これを逆手に取ったミステリーの新しい分野も開拓はしてはいますが。
グリモー教授が残したダイイング・メッセージもまた、本作のラストでは大きなどんでん返しを生む「仕掛け」にななっています。
一見すると無意味、または誤解されそうな言葉ですが、これはダブル・ミーニングになっていて、フェル博士による再解釈によって、この言葉は、真相への重要な手がかりとして、事件解決への鍵を握ります。
そして、物語終盤では、すべてのピースが組み合わさり、一連の事件が完全に解明されます。
しかし、その直後にもさらにプチどんでん返しが待ち受けており、この結末は読者に強い余韻を与えます。
てなことで、『三つの棺』は、密室ミステリーとしてだけでなく、その複雑なプロット、多層的な謎、不可能犯罪を解明する論理的な手法や多くの驚きが、2025年の読者にも立派に届いているのはさすがというべきでしょう。
伊達や酔興で、推理小説史上屈指の名作として位置づけられているわけではないというのが正直な感想です。
少々苦戦はしましたが、まずは完読出来てホッといたしました。
さて、本作には、とても豪華な付録がついていることでも有名です。
それは、第17章をまるまる一章分費やした「密室講義」です。
この講義では、探偵役のギデオン・フェル博士が、推理小説の中の登場人物であるにもかかわらず、突如読者に向けて直接語りかけはじめて、おもわずニヤリとさせられるパート。
ちょっと経験したことのない読書体験でした。
三谷幸喜脚本の「古畑任三郎」で、田村正和が、突如暗転した場面で、カメラに向き直って、なにやら視聴者に語り掛けるあのシーンと同じサプライズですね。
フェル博士は、「密閉された部屋」という状況について、これが推理小説の中でどのように構築され、解決されるべきかを詳細に説明しはじめます。
彼はこの講義を通じて、密室殺人というジャンルがいかに多様で創造的であるかを強調し、同時に読者に対して論理的思考を促します。
ビックリしてしまうのは、その講義の中には、1935年時点までで、密室殺人を扱った名作の数々が実名で登場すること。
僕が最近読んだ「ビック・ボウの殺人」やガストン・ルルーの「黄色い部屋の謎」もちゃんと講義資料として挙がっていました。
我が国のミステリーでも、過去のミステリー小説が、作者の名前と共に実名で登場する場面にたびたび出くわします。
それが自分の読んだことのある小説だったりすると、突如小説の世界から、現実の世界に引き戻されるような不思議な感覚になります。
そこには、ミステリーの先達たちに対する、作者たちの多大なるリスペクトがあるわけです。
ちゃんと調べたわけではありませんが、ミステリーにおける、こういったメタ認知的お遊びの走りは、もしかすると本作からだったかもしれません。
ミステリー愛好者は、書き手も読み手もかなりディープな方が多いので、その意味でこの手法は、両者の連帯意識を高める高等テクニックなのかもしれません。
いずれにしても、これから本作以前のクラシック密室殺人ミステリーを読もうという方は、読む順番は、どうか間違われませぬように。「密室講義」は、しっかりと旧作のネタバレになっているので。
そして、解決パートの直前で行われるこの講義により、作者は、本作の真相は、そのいずれにも属さない新しいアイデアだぞと宣言しているわけです。
そんなわけで、本作は、この「密室講義」によっても、ミステリー文学史上不朽の名作として位置づけられているという側面はありそうです。
これだけ多岐にわたり、緻密に密室トリックのネタが明かされてしまうと、この分野の新しいアイデアをひねり出すのは相当至難の業だと思われます。
その意味では、この「密室講義」は、ディクスン・カーから、以降の推理小説作家たちに対して放たれた挑戦状といってもいいのかもしれません。
推理作家の森博嗣氏は、物語を面白くするために、最初はまず解決法は考えないで、とことん謎を広げていく方向で書き出してしまうのだと、なにかのインタビューでいっていました。
そして読者を掴んだと確信したら、そこから広げた風呂敷を回収するプロットを考えていくとのこと。
しかしながら、ディクスン・カーは、たぶんそれはしていないだろうというのが個人的見解ですね。
とにかく、本作に仕込まれた緻密に仕掛けられたロジックや伏線は、ラストから逆算したプロットが、完全に出来上がっていなければ、絶対に書き始められないものだと確信します。
優れたミステリー作家は、みなパズルを解く天才かもしれません。
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