なかなか読み応えのある小説でした。
読み終えて思い出したのは、高校生の時に読んだ松本清張の「砂の器」。
あの読後感によく似ていました。
もちろん、テーマこそ違いますが、どちらにも感じたのは、ミステリーだけでは括れない、濃密な人間ドラマ。
一昨日の夜から読み始めたのですが、ページをめくる手が止まらなくて600ページ近くあった本書を一気読み。
次の日の畑作業は臨時休業して、1日中この本にかじりついていました。定年退職者の特権ですね。
ありがたいことです。
この小説は2019年に全米で一番売れた本とのこと。
想像するにその6割は女性だったのではないでしょうか。
それくらい本書の内容は、女性たちにとっては、身につまされる内容がふんだんに盛り込まれていいました。
2022年には映画化もされていますが、プロデューサーから監督、脚本、撮影等の主要スタッフが全て女性とのこと。
この事実がそれを物語っています。
「世の男性たちよ。この映画を見よ。」彼女たちはそう言っているようです。
映画の主題歌は、テイラー・スイフトによるもの。
彼女も、この小説に大きく心を動かされた女性の一人だったようです。
本作の著者も、もちろん女性です。
デリア・オーウェンズ(Delia Owens)は、1949年4月4日生まれのアメリカの作家、動物学者、保護活動家。
彼女はジョージア州で生まれ、ジョージア大学で動物学の学士号を取得。
1974年から1981年にかけて、夫のマーク・オーウェンズと共にボツワナのカラハリ砂漠でライオンやハイエナを研究したそうです。その後、1985年から1997年までザンビアで象の保護活動を行っています。
アフリカでの経験を基にした回顧録『カラハリの叫び』や『象の目』などを夫と共著で出版しています。
そんなキャリアですので、彼女が自然を見つめる視線は当然学者のレベル。
自然に対する豊富な知識が、詩的に昇華されて紡ぎだされる言葉のなんと知的で美しいことよ。
「太陽はいまだびくびくと冬の顔色をうかがて、気の荒い風や冷淡な雨の合間にときおりちらりと姿をのぞかせていた。」
「秋の葉は落ちるのではない。飛び立つのだ。」
「潟湖には、生命と死のにおいが同時に漂っていた。成長する有機体と、腐敗する有機体が交じり合った匂い。」
本作は、彼女の作家活動のなかにおいては、はじめての小説なのだそうです。
彼女は、本作執筆時69歳。
いってみれば、この小説には彼女の一生分のキャリアが詰め込まれているといっても過言ではないでしょう。
物語は 2 つのタイムラインに沿って進みます。
最初のタイムラインは 1952 年からスタート。
家族に捨てられて孤独に育った「湿地の少女」と呼ばれるカイアを軸にストーリーは進行します。
最初に母親が出て行き、続いて姉や兄たちが出て行き、カイアは虐待的でアルコール依存症の父親と 2 人きりになります。
しかし、やがてその父親も姿を消し、カイアは家族7人が暮らした湿地の小屋で一人で自活せざるを得なくなります。
彼女は船着き場で雑貨店を営むジャンピンとメイベルに、湿地で採ったムール貝と生活必需品を交換することで生き延びる方法を獲得。
この優しき黒人夫婦が実にいいんですね。
一人で生きようとするこの6歳の少女を、二人は決して子ども扱いしません。
「ミス・カイア」といって敬意を払い、彼女が差し出すムール貝をきちんと正規の値段で買い取り、教会から寄付される衣服を、正当な対価として進呈するわけです。
カイアは成長するにつれ、近くの町に住む 2 人の男性と恋愛関係になります。
1 人は彼女に読み書きを教えてくれるテイト ・ウォーカー。
14歳で初めて文字に触れた彼女は、まるで乾いたスポンジのように、テイトが毎回持ってくる本から様々な知識を吸収していきます。
しかし彼は、やがて大学生となり、必ず戻ってくるという約束の日に、戻ってきません。
絶望するカイア。
そして、その後に現れたのが、チェイス・アンドリュースです。
彼はカリスマ的だが問題を抱えた地元の有名人。
彼はカイアに結婚まで匂わせて、近づいてきます。やがて二人は・・・
一方テイトは、大学で博士号を取り、湿地の研究者としてカイアの元に戻ってきます。
テイトはカイアに謝罪しますが、カイアは、自分を裏切ったテイトを許せません。
しかし、そんな彼の勧めで、カイアは湿地の自然を記録した文章を本にしてもらうことに。
こうやって、「湿地の少女」は、一人の女性として自立していくことになります。
そんなある日、カイアに寝耳に水の知らせが。
なんと、チェイス・アンドリュースが、違う女性と婚約をしたと。
これが、1969年の出来事です。カイアは23歳になっています。
ここまでのカイアの17年間が一つの時間軸です。
そして、2番目のタイムラインは 1969 年からスタート。
湿地の物見櫓の上から落下して死んでいるチェイス・アンドリュースが、近所の子供たちによって発見されます。
チェイスの死は、事故か他殺か。
現場の状況から、警察は他殺を伺います。
では誰が、チェイスを櫓から突き落としたのか。
現場には、足跡も指紋もありません。
チェイスが、湿地で密かにカイアと付き合っていることを知った警察は、カイアを第一容疑者として逮捕します。
しかし、カイアにはこの夜のアリバイが・・
というわけで、この2本のタイムラインが、交互に章立てされ、最後には交じり合うという構成は、実にサスペンスフルで、ミステリー・タッチです。
はたして、湿地の少女カイアは、チェイスを殺した殺人犯なのか。
しかしながら、本作をフーダニットの本格推理モノとして読もうとすると、どうも読み方を間違う様な気がします。
もちろん、ミステリー作品として、本作には「どんでん返し」も用意してあります。
しかし、そのトリックも含め、ちょっと勘のいいミステリー・ファンなら、本作のラストは案外読めてしまうような気がしますね。あくまで、犯人が誰かはです。
ところが、本作はそこいらのミステリーとはちょっと違っておりました。
本作を読み終えてみると、その真相を凌駕してあまりある感動に包まれるんですね。
本作の中に幾層にも積み上げられた重厚なテーマが、津波のように押し寄せてくるわけです。
どうやら、本作におけるミステリー・パートは、物語を面白く読ませるうえでの手段に過ぎなかったとわかるわけです。
本作のメインに据えられているのは、間違いなくカイアという少女の成長譚です。
6歳から23歳までの女性の成長を、ここまで濃密に描き切った作者の筆力は感嘆の一言。
過酷な運命を背負ったカイアには、まず読者のほとんどが感情移入させられてしまうはず。
そして、真相がどうであれ、法廷の被告席に座った彼女に対する陪審員の評決が無罪であってくれと願わずにはいられなくなるわけです。
ここまで、引き込まれてしまったら、もう作者の勝ちでしょう。
作者は本作を完成させるのに、実に10年の歳月をかけています。
14歳で、はじめて学習する喜びに触れたカイアは、テイトの提供してくれる様々な本から、自分の住む湿地の自然についてたくさんのことを学び取っていきます。
虫や花や樹木の絵を描き、記録をし、その生命の営みの深淵さに魅了されていきます。
そして、彼女は思います。
どうして、自分の家族たちは、自分を見捨てていったのか。
カイアは、動物学の本の中に、こんな一節を見つけます。
過度のストレスにさらされた雌キツネは、子育てを放棄することがある。
そして、そのストレスから解放されると、また子供を産み直して、新たに子育てを始める。
そうすることが、結果的に種の個体総数を増やすことになることをDNAはきちんと記憶している。
悲しいけれど、両親が自分を見捨てたことは、ある意味、自然の摂理なのだ。
孤独であることに耐えながらも、カイアは自然を学習することで、次第に達観していくわけです。
自然界のルールと人間界の価値観が交錯する中で、カイアが自らのアイデンティティを徐々に見つけていく過程が、作者の叙情的な筆致によってリアルに描かれていきます。
本作の中に頻繁に出てくるのが「ホワイト・トラッシュ」というワードです。
これは、主にアメリカ南部の貧困層白人を指す蔑称で、直訳すれば「白人のゴミ」。
低所得・低学歴で農業や肉体労働に従事する者が多く、教育機会に乏しい階層のアメリカ市民です。
居住環境も劣悪で、田舎やトレーラーハウスに住むことが多く、地域コミュニティから孤立しがちです。
湿地に住むカイア一家も、当然この階層に含まれます。
都市部や中産階級から「道徳的欠如」「未開」と見なされ、社会的排除の対象となってしまうわけです。。
「ホワイト・トラッシュ」は、アメリカでは差別的な文脈で使われる一方、自嘲的に用いる場合もありますが、基本的に「労働者階級の白人」とは区別され、よりネガティブなニュアンスを含みます。
この差別ゆえ、カイアが殺人犯として裁かれる法廷では、傍聴席に座っている人々のほとんどが、カイアは殺人の罪で有罪になることを、あたりまえに思っているわけです。その理由は、彼女がホワイト・トラッシュだから。
カイアの無実を訴えるトム・ハミルトン弁護士の最終弁論を聞いていると、思い出してしまったのが、「アラバマ物語」で、グレゴリー・ペックが演じたアティカス・フィンチ弁護士ですね。
アティカスは、偏見の根強い街で、正義を貫こうと、黒人青年を弁護します。
彼は裁判には勝てませんでしたが、二階傍聴席にいる黒人たちは皆彼に惜しみない拍手を送ります。その拍手の中、彼はゆっくりと法廷を去ってゆきます。
本作のトム・ミルトン弁護士も、差別や偏見に対して、なかなか胸にしみいる名演説をします。
彼は、はたしてカイアを無罪にすることが出来るのか。
それは本書を読んでのお楽しみ。
この小説は、社会の問題や人間関係、特に女性の立場や差別を厳しい目で見つめています。
タイトルの意味について少々。
本作のタイトル「ザリガニの鳴くところ」の意味するところは何か?
ちなみに、ザリガニは実際には鳴かないそうです。
ただし、一部の情報では「ジジジ」や「ギギギ」といった音を発することがあるとされていますが、これは厳密には鳴き声ではなく、体の一部を擦り合わせて出る音である可能性があるとのこと。
本作の中では、カイアの母マリアが、まだ幼いカイアに向かっていうセリフに出てきますね。
「できるだけ遠くまで行ってごらんなさい。ずっと向こうのザリガニの鳴くところまで」
それは、湿地の茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きている場所。
ある意味それは、現実には存在しない場所を指しているのかもしれません。
娘が自然と共存し、人間社会の偏見や暴力から逃れるための場所を、母親は暗に伝えていたのかもしれません。
カイアが自然の中で成長し、自己発見をしていく過程は、そのまま彼女自身のアイデンティティ確立の過程であったともいえます。
本作は、終章で2009年時点のカイアが登場。彼女は生まれ育った湿地の小屋でその天寿を全うします。
(計算すると63歳だからちと若いか)
彼女の人生は果たして幸福だったのか、それとも不幸だったのか。
僕自身は、定年退職後、現在は野菜作りを楽しみながら自然と向かい合う66歳の独居老人です。
天候などにより畑作業が出来ない時には、基本的には読書。そして、読書感想文として、こんな拙文をアップしています。
うっかりすると、隣の畑のオバサンと顔を合わせなければ、一週間も人と会話をすることもないなんてことはザラ。
しかしながらこれが結構快適で、今は車でなければ通えない畑の近くに、終の棲家を見つけて、出来れば健康寿命の続く限り百姓を続けられる環境を手に入れたいというのが目下の目標です。
孤独を愛しているわけではありませんが、いたずらに人と関わるよりは、自然と日々向かい合っている方が、精神衛生上はすこぶるよろしいということは、しっかり学習しました。
幸いかな豊かな自然に恵まれた湿地とまではいかなくとも、野菜を作れる畑と、読書が楽しめる家があれば、基本的になんの不満もありません。
本作を読んで心を震わせた女性読者は多い気がしますが、このメッセージは、しっかりと埼玉県在住の独居老人にも響きましたね。
文章を書くのは好きですので、カイアのような才能には恵まれずとも、本書の作者ディーリア・オーエンス女史のように、69歳になるまでに、小説の一本も書き上げてみましょうか。残りの人生もそう考えればなかなか楽しめそうです。
カイアのように、「ザリガニの鳴くところ」にはたどりつけないかもしれませんが、このまま人生を全うしていれば「ジャガイモの鳴くところ」くらいならたどり着けるかも。
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