まずこの作品には、トラックが通過できるような大きなプロットの穴があります。
そして、セックスシーンは皆無。
本作は黄金時代のミステリーに敬意を表して、1928年にロナルド・ノックスが提唱した「探偵小説十戒」を冒頭に提示し、それを忠実に遵守し、語り手であり探偵役でもある主人公アーネスト・カニンガムは、常に「信頼できる語り手」となります。
当然、真相解明に至るまでに、必要な情報はすべて提示し、その情報の範囲で、その都度アーネストの推理は正直に語られ、それが読者にとってミスリードになっていたとしても、けっして嘘の情報は与えません。
それから、このタイトルが示す通り、本作では、全編にわたって殺人が繰り返されます。
殺人もしくは、誰かが死んだことを匂わせる描写は、以下のページで登場。
25, 68, 95, 102, 112, 245.......
残虐なシーンだけ読みたいなら、このページだけ読むのも一考かもしれません。
さらに、アーネストは32章で叔父のマルセルに殴られ、右手が使えなくなるような怪我をし、316ページではキス・シーンがあり・・・
待て待て。
そんなことを、読書レビューで晒してしまうのはネタバレだろう。
そう思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実はこれすべて、語り手であるアーネストから、本作冒頭で事前告知されているんですね。
そして、その問題のシーンになると、「そう、ここは25ページだ。」「次の死者が出るまであと94ページ」とこう来るわけです。
まずは、この人を食った書きっぷりに、ニンマリさせられるわけです。
リサーチしてみると、作者のベンジャミン・スティーヴンソンという方は、オーストラリアでは名の通ったコメディアンとのこと。
なるほど、これくらいのウィットは当然なのかもしれません。
そうこられればこちらも対応します。
まずは、殺人が起こると予告されたページは、すべてメモに書き出し、それをチェックしながら読むわけです。
そうすると、そのページが近づくと、読者なりにその展開を予想することになるので、通常の謎解きミステリーに、自然にサスペンスの要素が加わるんですね。
なるほど、考えたものです。
今までにも、過去のページを指定して、読者に起きたことを思い出させる工夫ならあったような気もしますが、ミステリー小説で、これから起こることを事前に告知してしまうなんて小説は読んだことがありません。
主人公のアーネストの職業は作家。ミステリーを書こうと思ってる人のためのハウトゥ本の書き手です。
従って、ミステリーには精通しており、この事件に関しては、当事者兼ライターとして、編集者とやりとりをしながら原稿を書いているという設定。その視線は完全に読者に向いています。
とにかく、このミステリーは本であることを徹底的に意識されています。事件を俯瞰するメタ的書きっぷりが独特のユーモアとなり、斬新なテイストを生んでいるのは間違いのないところ。
これだけ人が死ぬ小説なのに、まるで陰惨なところがないという不思議な味わいのミステリーになっています。
さて、どんな事件が起こったのか。
カニンガム一家は、家族再会のため冬の山岳リゾートに集まります。アーニーの家族は皆「誰かを殺したことがある」というイワクつきの一家。
物語は、アーニーの兄マイケルが刑務所から出所するタイミングで始まります。再会の場で雪嵐に閉じ込められた一家のもとで、最初の殺人事件が発生。
事件の発端は、マイケルが車で死体を運んでくるところから始まります。死体は銃で撃たれており、現場には大金の入ったバッグも発見されます。アーニーは家族への忠誠心と法への義務の間で葛藤しつつ、実兄マイケルを警察に通報します。
カニンガム家は、血縁や再婚による複雑な構成で、全員が何らかの形で「殺し」に関与しているというなかなか刺激的な設定。父親は過去に警官を殺害し、母も、叔母も、義妹も・・・
そして、アーニー自身は兄の事件で殺人を証言したことにより、家族から疎外されています。
各キャラクターには個別の秘密や確執があり、物語が進むにつれてそれぞれの「殺し」の真相や動機が明かされていきます。
殺人事件が発生すると、ここに集まった家族全員は容疑者となります。
しかも全員が何かを隠しており、誰もが怪しい行動や言動を見せるため、こちらは「誰が犯人なのか」を最後まで予測できません。
巧みなのは、各キャラクターの個性や背景が実に丁寧に描かれていること。どの人物も物語の中で強い存在感を放っていて、どの人物も犯人候補からなかなか落とせない展開が秀逸です。
家族全員が何らかの「殺し」に関与しているため、善悪や正義の基準が曖昧になっていきます。誰もが罪の意識や後ろめたさを抱えつつも、それを隠したり正当化しようとするため、家族内でのコミュニケーションは常に緊張感を孕みます。暴力は家族の「共有遺産」となり、誰がどこまで家族を守るべきか、どこまで許されるのかという問題が絶えず問われ、最後は家族について考えさせられることになります。
秀逸な表現がありました。
「家族は重力だ。家族とは同じ血が流れている者を意味するのではない。この人のためなら、血を流してもいいと思える相手のことだ。」
事件の真相は複雑で、何度も「犯人は誰か」と疑念を持たされる巧妙なプロットが展開されます。
そして、真犯人が明かされる最終対決では、家族の秘密と過去の罪がすべて暴かれるというカタルシスのある展開。
本作においては、ミステリーにおける「ハウダニット」の部分は、意外にあっさりと解明されてしまいます。
そのかわり、作者がこだわったのは、やはり「フーダニット」でしょう。
この部分は、作者が黄金時代のミステリーに傾倒しているのが歴然。容疑者を一堂に集めて、アーニーが謎解きを披露し、最後は全員の前で、ズバリ真犯人を指名するという鉄板の大円団。
最近のミステリーでは、これがあまりにコテコテの黄金パターンのため、馴染まないのか、照れくさいのか、とんと見かけなくなってしまいましたが、僕のような古典ミステリーオタクには、「待ってました」ということになります。
作者の筆致は、しばしばブラックユーモアに満ちています。
「ぼくはこれから乾燥室で兄マイケルの死体を見つけるわけだが、・・」
「どうだ、編集者、カットできるものならするがいい」
「左の指で押さえているページがまだだいぶ残っていれば、殺人犯が明かされても、それが真犯人ではあり得ない。」
これにより、殺人事件という緊張感が、読者にとって親しみやすく、時に滑稽に映るわけです。
このメタ的な語りは、事件の重さを和らげ、読者に“物語を楽しむ余裕”を与えます。
雪山のロッジで連続殺人が起こるという緊迫した状況下でも、アーネストのユーモアや家族の奇妙なやりとりが絶えません。
シリアスな場面でも、登場人物たちは皮肉やブラックジョークを連発。このギャップが物語に独特のテンポと軽快さをもたらし、読者に“笑いながらもハラハラする”という摩訶不思議な体験を与えてくれます。
作者ベンジャミン・スティーブンソンは、アガサ・クリスティやゴールデンエイジの探偵小説への愛情と同時に、ジャンルの“お約束”をパロディとして笑いに昇華。
このあたりはコメディアン出身という作者の面目躍如といえるでしょう。
本作におけるダークユーモアは、カニンガム家の異常な状況や重苦しいテーマを、読者が“楽しめるエンターテインメント”へと昇華させています。アーネストの皮肉や自虐、家族のブラックな会話、メタ的な語り、そして古典ミステリーへのパロディによって、物語はシリアスさとユーモアが絶妙に混ざり合う、唯一無二のミステリーとなっています。
読後、どうしても気になってしまったので、この質問をAI にぶつけてみました。
「本作には、ページ数に言及する表現が連発しますが、原稿執筆の段階で、製本された本のページ数を指摘することは可能でしょうか」
解答は以下の通り。
原稿執筆段階で製本された本のページ数を正確に指摘することは、技術的には非常に困難です。
原稿段階では、フォントサイズ・行間・用紙サイズ・レイアウト・装丁など、出版工程で決定される要素が多く、最終的なページ数は確定していません。そのため、著者が「○ページ」と明記したとしても、実際の製本本では異なるページに該当することがほとんどです。
もし著者がどうしてもページ数にこだわる場合、編集・組版担当者と協力して該当箇所の前後に空白や挿絵を入れるなどして調整することは理論上可能ですが、現実的には手間やコストがかかるため一般的ではありません。
(ちなみに、本書には挿絵は一切ありません)
結論をいえば、本作のように「ページ数」を物語の演出として頻繁に言及する場合、原稿執筆段階で製本後のページ数を正確に指摘することはほぼ不可能です。著者や編集者もその点を理解した上で、あえてメタ的なジョークや遊びとして取り入れているのが本作の特徴です。
なるほど。
しかし、ページ数をメモして読んでいた読者としては、作者があらかじめ指定したページで確かに、事件が起きていたことを知っています。むむむ。これはいったいどうしたことだ。
だとするなら、本作における最大の謎はこれかも。
作者はあとがきで、何度も編集者にその労をねぎらっていましたが、いったいそのトリックとは?
真相は〇〇ページで。