これ、なんという虫のイラストだと思いますか?
あまり上手くない絵で恐縮ですが、アブラムシです。
僕が、アブラムシというと、頭に浮かべてしまうのが、70年代にお笑い系フォークデュオあのねのねが歌ってヒットした「赤とんぼの唄」。
「アブラムシ、アブラムシの足を取ったら柿の種」
そんな歌詞がある歌でした。
確かにアブラムシのティアドロップス型のその造形は、足を取ったら柿の種。
このイラストを描いて、今さらになって、そんなことに気がついている次第。
さてそのアブラムシ。その一匹だけを、イラストにすると、こんなふうに小奇麗にまとまりますが、実際のアブラムシは、草花の茎にびっしりと貼り付いて、集団で蠢いている昆虫。
その様子はあまり気持ちのいいものではありません。僕などは、ちょっとゾゾゾとしてしまいます。
農家にとっては、野菜にへばりつく害虫でもあります。
さて、では彼らがそこで何をしているのか?
実は彼ら、その小さな顔からにゅっと伸びている先のとがったストローのような口吻を茎に突き刺して、植物の汁を吸っているんですね。
その吸蜜の手口は鮮やか過ぎて、吸われている当の草花たちが、それに気が付かないほどといいます。
その汁は、糖分栄養分ともにたっぷりで、彼らの小さな体ではお釣りがくるほど。
アブラムシは、その余剰分の甘い蜜を、雫の球として、お尻から出していくわけですが、これを求めて集まって来るのがアリ。
アリは、この餌を彼らからもらうことと引き換えに、テントウムシなどの天敵から、アブラムシたちを守ります。
その関係が、彼らの自然界での暗黙の安全保障条約。
このパートナーシップ故に、アブラムシは、別名アリマキとも言われています。
さて、このアリマキ、何を隠そう、生物学的には、大変興味深い特性を有しています。
その特性とは何か?
実は、彼らは単為生殖で個体を増やしている生き物なんですね。
単為生殖、つまりアブラムシは、母体が生殖行為なしに、単独で子供を産める昆虫であるということ。
彼らは、昆虫でありながら、卵ではなく、哺乳類と同じように、直接子供を生み落とします。
そして、その繁殖のスピードが尋常ではない。
たった一匹のアブラムシが、ほんの数日の間に、何回も子供を生んで、倍々で増えてゆき、たちまち大集団になります。
この繁殖力こそが単為生殖の生物の真骨頂。
多くの有性生物の繁殖が交尾交配という面倒くさい手順を踏むのに比べると、単為生殖は圧倒的に効率的です。
何せ相手が要らない。
自分の都合と、自分のペースで子供が産めるので、一回に一匹ずつでも確実です。
つまりこ、単為生殖で増えるアブラムシの社会には、オスが必要ないということ。
話を進めましょう。
アブラムシの社会は、そのとおりメスだけでも成立できる、女系社会です。
そして、アブラムシたちは、今のアブラムシとほとんど変わらぬ姿で、人間の生まれる遥か以前の、2億年も前から、地球に住んでいました。
生物としてのキャリアは、我々人間よりも遥かに長い大先輩というわけです。
というところまで説明して、ここで男性にとってはショッキングな結論を申し上げましょう。
もうお分かりかと思いますが、実は、生物の起源をたどっていくと、オスが登場する遥か前から、メスはすでに単独で生物界に存在していたということ。
つまり、生物の仕様は、もともと、メスが基本主体だったということ。
オスは、生物の登場から、ずっと後になって、出てきた分派亜種だということです。
アブラムシの生態が、興味深いのは、実はそのことと大いに関係があります。
では生物の歴史において、どこで、どういう理由でオスは登場したのか。
結論から言ってしまいましょう。それは、メスたちが今自分が持っているDNAよりも、もっとよりよいDNAを求めたからに他なりません。
単為生殖は、個体を増幅していくという点から見れば、理想的な手段なのですが問題が一つ。
それは、単為生殖によって生まれる子供は、母体の完全なコピーになってしまうということ。
要するに複製ですね。クローンといってもいいでしょう。
さあ、これだと何が問題になるか。
その延々と続く生命のコピー作業の中で、DNAの改善、つまり生物学的に言うところの進化が起こらないということ。
これですと、なにか自然環境で大きな変化があったときに、それに対応できない場合は、同じDNAを持ったその種すべての個体が全滅してしまうという危険性をはらむということになります。
さすがに全滅はまずい。
さあ、そうならないために生物は、どうしたか。
そうです。リスクマネージメントをはじめたんですね。
そこで、登場したのがオスです。
メスは、自らの基本機能をちょっとだけ機種変更して、オスを造形しました。
そのにわか仕立てのオスに与えられた唯一のミッションは、ズバリ生殖行為。
要するにセックスです。
そういってしまいますと、生々しいので、生物学的に言い換えることにしましょう。
生物界におけるオスたちのミッションとは、母体のDNAを、せっせと他のメスに運んで混ぜ合わせること。
要するに、オスは、生物の進化の過程の中で、メスの意志で、メスの都合により、DNAの運び屋、つまり「ぱしり」として登場したということです。
同じ種の中でも、個体によっては、微妙な個性の差があります。
例えばちょっと暑さに強い個体。わずかに、寒さに耐性のある個体。いろいろいるわけです。
オスがせっせと他の個体と生殖することで何が起こるか。
つまり、これらの個体のDNAが混ざり合っていくことになるんですね。
そして、そして、DNAをシャッフルされた個体のうち、いくつかの個体は、DNAのいいとこどりをして、暑さにも寒さにも強い、より生命力のあるDNAを持って誕生してくるわけです。
つまり種の個体の中に、多様性が生まれてくるわけです。
みんな同じDNAならば、生物としての性能は一緒ですから、大きな環境の変化に耐えられなれば、その種は全滅。
しかし、その種の中にある程度の多様性があれば、どんな環境の変化があっても、それに耐えられる固体が何匹かは生き延びる可能性が出てきます。
例え9割が死滅しても、その環境に適応できた遺伝子をもつ個体が1割でも残れば、その種は、さらに次の世代でバージョンアップして存続していくことができます
そして、生き残った固体は、また新しい環境の中で、再び生命を綿々と繋いでいくことが出来ます。
身も蓋もないい方をしてしまいますと、オスとは、よりよいDNAを常に求め続けたメスたちの、種を絶やさず、進歩してゆくという、あくなき上昇志向を満たす手段として作られたDNAのメッセンジャーだということです。
わかりやすく言うとこうです。
単為生殖によるメスだけの複製によるDNAのつながりが縦糸だとすると、オスの役目は、その縦糸をつなぐ横糸の役目。
それまで、単為生殖のコピーにより、縦にのみ繋がっていただけの生物のDNAに、横糸が加わったことによって、DNAの流れかが、ネット状になったということ。
これが、メスたちの命により、インスタントに作られたオスたちに与えられた唯一にして最大のミッションであったというわけです。
さて、それでは話をアブラムシに戻しましょう。
冒頭で、アブラムシの集団にはメスしかいないと申しました。
しかし正確な言うと実はそうではありません。アブラムシのオスは、普段は集団の中で影も形も無いのですが、季節の移り変わったある時期。忽然と集団の中に登場します。
それは秋。そろそろ冬支度をしようかという季節ですね。
メスは、この季節になると、染色体をちょっといじって、自らの母体の一部を機種変更して、オスを作ります。
突如登場したオスは、にわか仕立てですので、ガリガリでいかにも頼りなげ。
メスに比べると貧相な風体で、明らかに生物の固体として見劣りがします。
そんな、ひ弱なアブラムシのオスに与えられたミッションはたったひとつ。
それは、命尽きるまで、ひたすら生殖行為に励めということ。
アブラムシのオスは、生きている間中、メスを探してはただひたすら交尾を繰り返します。
そして、それまで単為生殖で子供を産んできたメスは、ここではじめてオス精子を受精して、受精卵を作ります。
メスはここではじめて昆虫として卵を産み、受精卵を安全な場所に、固い殻につつまれた卵にして産み、長い冬を超える準備をするわけです。
そして、やがて冬が終わります。雪が解け、野山に草花が戻り、春の声を聞くと、アブラムシの受精卵から、新しいアブラムシが一斉に孵化してきます。
ところが、驚くことに、ここで孵化してきたアブラムシは、すべてメス。
なんと、オスは一匹もいないんですね。影も形もない。
そして、メスだけで新しいシーズンをスタートさせたアブラムシは、そこからまた怒涛の単為生殖を始めます。
しかし、新しく孵化したメスのアブラムシたちの中に、前年のアブラムシとはほんの少しだけ性能をアップさせた個体がいるわけです。
そのわずかな機能アップは、前年秋に一瞬だけ登場した、オスたちの活躍によるDNAの交流混合によってもたらされたもの。
幾つかの個体は、前年度よりも、ちょっとだけバージョンアップしているというわけです。
こうやって、アブラムシたちは、2億年も前から、その種を絶やさずに、ほぼ同じ造形のまま生き延びてきました。
メスが、より賢いより優れたDNAを本能的に求め続けたからこそ、アブラムシという種は、これだけ環境の変わった2億年後の地球にも、生き続けていられるわけです。
生物の基本主体は、もともとメス。アブラムシの一生は、雄弁にそのことを物語っています。
そんなわけで、アブラムシの生態は、それを物語る貴重なサンプルとして、生物学の世界では注目されているというわけです。
繰り返します。
オスは、もともとメスをベースにして発生した亜種。
つまり、生物としての基本性能は、もともとオスよりもメスの方が上であってあたりまえなんですね。
それはオリジナルなのですから当然です。
オスは、そのメスのオリジナルのパーツをいじることでつくられたわけですから、やはりオリジナルをいじった分だけ、生物として弱くなることはいたしかたありません。
人間の場合ですと、なにやら基本性能は、男性の方が上だろう。
オリンピックの記録もそうですし、スポーツ選手の多くも男性ではないかという声も聞こえてきますが、実はそうではありません。
走るのが早い、力があるなんていうことは、生物の性能としては、それほど重要な事ではありません。
たまたまそういう飛びぬけた例が、男性に多いというだけの話。
性能がいい方にとびぬけた例だけが注目されがちですが、実はその反対の、性能が悪い方にとびぬけた個体も、実は男性の方に多い。
これは、逆を言ってしまえば、そういう飛びぬけた例が多い分、生物の種としては安定していないと考えることが出来ます。
その点、女性は統計を取っていくと平均値あたりに安定している。
上もなければ、下もない代わりに、男性よりも、身体能力や生命維持能力が平均化している。
実は、種としてはこちらの方がより安定している状態だということが言えます。
では、生物としての「強さ」を一番如実に物語っている能力とは何か。
実はそれは平均寿命です。
この平均寿命というものさしで図ると、生物としての女性の優位は歴然です。
あらゆる人種、あらゆる部族に至るまで、ホモサピエンスでは、例外なく平均寿命は女性の方が長い。
これは例外なくです。
そして、もうひとついうと、あらゆる病気による死因のパーセンテージも、すべからく女性の方が低い。
唯一女性が男性に勝っている死因は老衰のみ。
あらゆる病気に負けずに、天寿を全うするという確率が、女性の方が圧倒的に高いという事実です。
つまり、女性は病気にかかりにくく、そして丈夫で長持ち。
生物の「生きる」という基本能力において、男性はいくら頑張っても女性にかないわないというのが現実だということです。
それは当然といえば当然なんですね。
なんといっても、生物としてのオリジナルが女性なわけですから。
ボートレールは、「女は、女に生まれるのではない。女になるのだ」といいましたが、生物学的知見から申せばこれは間違いということになります。
「男は、男に生まれるのではない。男にされた。」
実は、これが正解ということになります。
実際に、母親のおなかの中にいる胎児も、最初はすべてメスの基本仕様で生まれてきます。
そして、女児になる胎児は、なんのかわりもなくそのまま成長していきます。
しかし、遺伝子の命により、おまえは男になれと言われた胎児には、変化が起こります。
何週間かたったある日突然スイッチが入り、染色体がコントロールされ、女性基本仕様のパーツの一部分が機種変更されて、男になるんですね。
男子のおちんちんの下にぶら下がっている陰嚢をめくりあげると、そこに「蟻のと渡り」という、肛門に続く一本の線があることを男子ならみんな知っていることでしょう。
実はあれこそが、男性はみんな胎児の頃には女性であったという何よりの証拠。
あそこは本来、遺伝子から男性になれという指示がない限りは、女性の性器になるべきところだったわけです。
それが、男性になれという指示が来たことで、その必要なくなってしまい、遺伝子はそこはふさげという命令を出します。
そして、もともとあった女性器が塞がれた痕跡があの「蟻のとわたり」です。
生物のオリジナルは女性だったという証拠は、今も人間の体に、確かな痕跡を残しているんですね。
結論です。
地球の生物の長い歴史のものさしから考えれば、ほんのつい最近出現したばかりの人間という種の社会の中で、オスとメスの立場は微妙なことになってしまっていますが、もともと、生きて命を繋いでいくという生物の本質的な活動を営む上でのイニシアティブは、メスたちが握ってきたということ。
そして、その本質の部分は、これからも生物の歴史が続いていく限り変わらないということ。
たまたま人間という種の中において、そのあたりの関係性に勘違いが入ってしまっている感がありますが、結局のところ、オスはなんのかんのといっても、こと「生きて、子供を残す」というレベルにおいては、生物として、したたかで、強く、欲深い女たちの掌の上で、コロコロと転がされているに過ぎないということ
男性は、そのことは、しかと理解し、肝に銘じておく方が賢明でしょう。
オスの運命は、最終的にはメスしだい。
オスは、つまるところ、メスの生命力に依存しないと生きてゆけない。
アブラムシの一生は、それを暗示的に物語っているように思えます。