アメリカは50の州・1つの特別区の集合体です。
日本の地方自治と比べて、アメリカの各州は、強い自治権と主権を併せ持っているので、アメリカにおける州の定義は、ほとんど国家に相当するといっていいでしょう。
しかし、州を越える犯罪になりますと、各州では対応できないため、アメリカ政府はFBIを設置。
FBIは捜査権・逮捕権は保有しているものの起訴権はもたないので、管轄州が、どこになるかで犯罪者たちの運命は明暗を分けることになります。
つまり、死刑にされるのか、終身刑にされるのか。
アメリカの死刑は州によって若干の差異がありますが、基本的に執行を公開しています。
ガラス越しではあるが死刑囚家族、被害者家族、警察官、検察官、弁護士が立ち会うことが原則となっています。
また特徴的なのがマスコミも立ち会うこと。
「民意」が望めば、司法にも報道が介入するというあたりは、自由の国アメリカならではでしょうか。
しかしながら、アメリカは日本と違い、死刑制度存廃の論議自体も非常に盛んです。
その議論のひとつが、未成年・精神発達障害者に対する死刑執行の問題。
そして、人種の坩堝アメリカならではの問題が人種・性別問題。
これは、死刑判決が人種的に偏っているとする問題です。
白人に比べて有色人種の死刑執行率が圧倒的に高いという事実があります。
そして、自殺問題。
アメリカの刑務所は日本よりも監視がゆるい(よくいえば自由)ことから、死刑囚が自殺するというケースが多いという問題。
それから、なにかとマスコミに大きく取り上げられることが多いのが冤罪問題。
アメリカでは、死刑宣告を受け服役していた受刑者の無実が相次いで判明し、社会問題になっています。
この背景にあるのは、進化を続けるDNA鑑定の技術。
残された微量の証拠品から、事件の真相に近づくことが可能になり、改めて浮かび上がってきたって問題です。
そして、これらの問題は、その度にアメリカでの「死刑廃止」討論のマナ板に乗っけられ、議論につぐ議論。
しかし、これだけ、議論がされていても、いまだに死刑が廃止されない理由はただ一つです。
それは、「民意が死刑制度を望んでいる」ということ。
特に、それが顕著な州がテキサス州ですね。
テキサス州は、アメリカ国内で、最も死刑執行が多く行われている州です。
その理由は、テキサス州の犯罪率がアメリカの中でも、非常に高いという背景があります。
南部アメリカでは、ご存知の通り、奴隷制度が盛んであったことがあり、奴隷たちを拘束するために、死刑を法定刑とする刑法条文が増加していったというわけです。
けれども、敬虔なクリスチャンが多いということで、その正反対の死刑廃止運動も、他の州以上に盛んだというのもこのテキサス州。
さて、こういった、アメリカにおける死刑制度周辺事情を、ざっと予習した上で、こんな映画を見てみるのはどうでしょうか。
「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」。
『エビータ』『ミシシッピ・バーニング』のアラン・パーカー監督が死刑制度に鋭く異議を唱えた社会派サスペンスですね。
この監督はイギリス出身。あの「小さな恋のメロディ」の脚本からキャリアをスタートさせた人です。
彼は、まず異国の地アメリカのテキサスという地の「空気」を、映画の中に取り込むことに徹底的にこだわります。
彼のコメント。
「外部の人間だからこそ、アメリカがはっきり見える。」
レイプ殺人の罪で死刑宣告を受けた大学教授・デビッド。
彼の依頼で独占取材を許された記者・ビッツィーが、この取材を通して、たどり着いた衝撃の真実とは。
デビッドを演じたのが、ケビン・スペイシー。女性記者ビッツィーを演じたのがケイト・ウインスレット。
アラン・パーカー監督自身は、死刑制度に対してこう語っています。
「私は死刑制度には反対しています。死刑が犯罪に対して抑止力を持たないというのも、理由のひとつですが、道徳的な観点から見ても、復讐のためにもうひとつの命を奪うことには賛成できません」
しかし、彼はそんな自分の主張を声高に映画に盛り込むというようなことはしません。
賛成派、反対派双方の主張を、上手に脚本にすくった上で、この映画を極上のミステリーに仕上げています。
そして、鮮やかなドンデン返し。
このラストのための伏線が、どれだけ巧妙に張られていたか、もう一度確認してみたくなりました。
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