ここのところ運転する時間が長い毎日なので、はじめてオーディオブックで、長編小説を聞いてみました。
時間にすると、およそ11時間。
あしかけ3日間かかりました。
ところでまずそれよりも、この名作を僕は過去に読んでいたかどうか。
ここが非常に微妙な記憶でした。
文豪夏目漱石の名作中の名作ですから、読んでいなくとも、かなりの量の情報は、もちろんすでにあります。
もしかしたら、中学か高校の現代国語の教科書に載っていた気もします。
まてよ。
もしかしたら、高校入試、大学入試の試験問題にあったかもしれません。
とにかく、かなりの量の断片的な情報が、蓄積されていることは確か。
ですから、名作「こころ」がどんな小説か、人に語れないこともない。
少なくとも、展開と結末は知っています。
でも、「知っている」と「読んでいる」は違う。
読んでいなくとも、「知っている」ということは、これだけの名作なら十分にありえます。
というよりも、世界の名作と言われる文芸小説のほとんどは、僕の場合その類でしょう。
例えば、原作は読んでいなくとも、映像作品としてはみていることが多いというのもその理由の一つ。
そこで、映像作品をWiki してみますと、今までに、小説「こころ」の映画化は、1955年の市川崑監督作品からはじまり三度。
テレビドラマ化は、それよりも、もっと多くて6度。
かなり多くの映像化作品があることが判明。
もしかしたら、そのどれかを見ていたのかもしれません。
しかしその記憶は微妙。
そしたら、ハタと思い出しました。
Eテレの、読書エンタメ番組「100分de名著」を見ていましたね。
この番組で、この夏目漱石の名作「こころ」を取り上げていました。
全25分4回の放送を、僕は録画して全て見ています。
司会は伊集院光。
この番組は好きでよく見ているのですが、番組を見てから、読んでみた本ももちろん何冊かはあります。
でも、この「こころ」はそのタイミングでは購入していません。
ここ最近は、購入した本は、すべて裁断して電子書籍に自炊して、iPad に入れてから読む習慣なのでこれは明白。
ですから、覚えていたのは、原作ではなく、この番組の記憶だと思われます。
というわけで、前置きが長くなりましたが、小説「こころ」は、58歳にして、初めて読んだ小説というところに、やっとたどり着きました。
さて、「こころ」です。
明治の文豪夏目漱石の小説ですから、明治時代の作品かと思っていたら、この作品は、大正時代になってから執筆されたもの。
大正3年の作品です。
ちょうど、ヨーロッパで第一次世界大戦の火蓋が切って落とされた年の作品ですね。
小説のラストにも出てきますが、この時代を象徴する出来事として、小説の中でも語られるのが、乃木将軍の殉死。
彼は、明治天皇の大葬の夜、その後を追うように、夫人とともに自刃して果てました。
この事件が、夏目漱石にこの作品を執筆させる原動力になったようです。
彼は、この事件を明治イズムの終焉と位置づけ、自らの小説でも、「先生の自殺」をもって、明治というひとつの時代に精神的なケジメをつけたというのがこの作品の一般的な見方。
そして、このタイトルも示すように、漱石がこの小説で深く切り込んだのが「個人」です。
彼の有名な随筆に「私の個人主義」がありますが、夏目漱石という人は、明治以降日本になだれ込んだ西洋文化の圧倒的な「個人主義」に対して、我が日本の「個人主義」は、果たしてどうあるべきか。
そして、その「個人主義」の表裏一体として存在する「個人の孤独」。
それを、自らが胃潰瘍になるくらいに、真剣に深く考えていた人です。
そのあたりの漱石晩年の心境が、この小説「こころ」のテーマとして、色濃く反映されています。
まあ、しかし僕如きが、偉そうに世界に認められたこの名作を論じても始まりませんので、ここはひとつ趣向を変えてみましょう。
この小説はよく、現代国語の試験問題に取り上げられます。
調べてみたら、我が母校東洋大学の入試問題にも取り上げられていました。
もしかしたら、僕もどこかで、試験問題として、格闘したことがあったかもしれません。
では、ネットで拾ったその試験問題に、ここで挑戦してみることにします。
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1 「私はその人を常に先生と呼んでいた」(上・一)という「私」の言葉は、先生へのどのような思いを表現しているか。
回答 :
先生に対する気持ちは、友達というような、フレンドリーなものではなく、ベースにあるのは「信頼に足る人」「深い思慮のもとに行動する人」という自らの直感に根ざした深いリスペクト。
単なる友人とは、明らかに違う位置づけ。
2 「私」はなぜ手記を書いたのか。
回答:
先生とのふれあいを通じて、自分の内面にあらわれる変化、先生の変化を記録したいという衝動。
3 「今考えるとそのときの私の態度は、私の人生のうちで最も尊むべきものの一つであった」(上・七)、「尤もその時の私には奥さんをそれ程批評的に見る気は起らなかった」(上・二十)という言葉は、現在の「私」がどのような位置(視点)にいることを意味していると考えられるか。
回答 :
先生にとって自分は、ある一面では、奥さんよりも精神的に倫理的に近く、不可欠な存在であるかもしれないという視点。
4 先生の遺書の冒頭の内容は、「私」へのどのようなメッセージを含んでいるか。
回答:
妻を含む他の誰にも言うべきでないと封印していた自分の「こころ」の内面すべてを打ち明けるのですというメッセージ。
それを確認する意味で、先生はこう問いかけている。「君は真面目ですか。」
5 先生はKに対してどのような思いを持っていたか、二人が上京する前と先生が小石川の下宿に移ってからを比較しながら説明しなさい。
回答:
Kは、人間として純粋。そして自分よりもしっかりしている。行動力もある。容姿も自分より優れ、女性にもモテるはず。しかし、純粋であるがゆえに、もろい一面もある。
これが、同じ女性に思慕を寄せるという事態が出現して、冷静な観察眼はなくなり、小石川に移ってからは、嫉妬と敵対心に苛まれ始める。
6 Kにとって恋愛とはどのような意味を持つ出来事であったか、Kの目指す人間像と関連させながら説明しなさい。
回答:
Kの口癖だったのが「精神的向上心のないものは馬鹿だ」
これが、この問いに対するキーワード。
先生にお嬢さんへの想いを告白した後、Kはこの点を「お嬢さんとの恋愛は、君のこのポリシーに矛盾するものではないのか。」と問い詰められ、返す言葉を失いました。
そして、その自己矛盾が自殺の引き金となった展開を考えると、Kにとって、恋愛は、少なくとも自分を向上させるものではなかった。
7 Kの言う「覚悟」(下・四十二)は三つの意味に解釈することができる、それはどのようなものか、それぞれ説明しなさい。
回答:
- 自殺も辞さないという覚悟。
- 自分の前言を翻し、恋愛に突き進むこともよしとする覚悟。
- 恋愛に対する気持ちはばっさりと切り捨て、自らの精神的向上に邁進するという覚悟。
8 Kが下宿の襖を開けるという行為は、どのようなことを意味していると考えられるか、下・四十三と下・四十八を参照しながら説明しなさい。
回答 :
二つのシーンに共通しているのは、Kが襖を開ける前に、先生に「寝たか」と声をかけていること。
前のシーンでは、「私」は起きていて、Kからの声がけに答えている。しかし、自殺の夜のシーンでは、返事は返ってこない。
Kの自殺は、先生が寝ているのを確認して実行された。
従って、襖を開けるという行為は、Kにとっては、自らの命を絶つかどうかを決定するための行為であった。
9 先生がお嬢さん(静)に結婚を申し込むまでの心の動きを、Kとの関係性、お嬢さんへの思いを中心にしながら説明しなさい。
回答 :
先生は、Kから告白される以前からお嬢さんに対して恋心を抱いていた。しかし、Kにはそれを言えなかった。ところが、Kの告白を聞き、自分よりも男としての魅力に溢れるKにお嬢さんを奪われたくないという自己防衛本能が働く。そして、Kにその覚悟を問い、ますます不安にかられ、最終的に自己嫌悪との葛藤も黙殺し、Kを裏切る形で、お嬢さんの母親に結婚を申し込む。
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はい、そこまで。回答用紙は裏返しにして、筆記用具はしまって。
さあ、現代国語の林先生。これで何点かはいただけますでしょうか。
たぶん、受かりませんね。こんな解答では。
さて、ちょっと話はずれます。
この本の朗読を聴きながら、どうしても脳裏をかすめてしまったこと。
まずこの文学史に残る著名作家4人に共通していることはなんでしょう。
太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫、川端康成。
わかりますよね。
そうです。自殺です。
この有名作家たちがやらかした自殺という行為で、どうも文豪と呼ばれる文学者は、みんなやたらと自殺するというイメージが、僕の中についてしまいました。
どうも、僕は昔からこれが気に入らないんですね。
反対意見は覚悟の上で言ってしまいますが、僕の個人的見解として、多くの文豪大先生たちには、みんな自殺することで、どこかみずからの人生を美化してまとめたいという下心がありやしまいか。
そう思えてしょうがない。
この小説「こころ」が扱う二人の自殺も、どこか、自殺を精神的に崇高な行為として描いている気がしてしょうがないわけです。
純文学で扱う自殺は、どうにも、人生を「綺麗事」にしてしまう最終ツールのような気がしてしょうがない。
これがどうも生理的に気に入らないわけです。
ぐちゃぐちゃでも人生。ボロボロでも人生。自己嫌悪に苛まれてもライフゴーズオン。
自分の置かれた環境を憂いても、自分自身に失望しても、それでも命はちゃんと自身の責任において、引きずってでも生きてゆく。
こちらの方が崇高なナマの人間という気がするわけです。
人間を描くのが文学であるなら、小説を完結させるように、人生を綺麗事でまとめるのではなく、たとえ収拾がつかなくとも、ぐちゃぐちゃな人生の方をちゃんと描いて欲しい。
自身の人生も、登場人物の人生も、「自殺」でまとめてしまうのは、なんだかズルい気がしてしょうがない。
「人生を深く考えない馬鹿は自殺なんてしない。」
まあ、夏目漱石がそんなことを思っていたりはしないでしょうが、その馬鹿としてはそれで上等。
それのどこが悪いという話です。
深く考えて自殺するくらいなら、何も考えないで生きている方が、人としてははるかに尊い。
僕はそんな気がします。
純文学を目指す皆様、大作家先生を見習って、くれぐれもそんな衝動や誘惑になど負けませぬように。
大丈夫か。又吉。