会社の畑でまるまる三年間、野菜づくりをさせてもらっています。
定年退職後は、田舎へ引っ込んで農業をしたいと思っていましたので、人生100年時代(そんな長生きをするつもりはありませんが)のセカンドキャリアへの、貴重な勉強をさせてもらっていると感謝している次第。
それまで、農業の「の」の字も知らないズブの素人状態から始めた野菜づくりでしたが、その過程でいろいろなサプライズにも遭遇。
改めて、自然の奥深さや、食の安全などにも関心が深まりました。
そんな中、手に取るべくして取った一冊がこの本。
「百姓が地球を救う」。いいタイトルです。
猫も杓子も都会へ出たがる昨今。
その巨大に膨れ上がった、都会の胃袋を支えているのは地方の農業です。
しかし、その巨大になり過ぎたがゆえに、わがままになった都会のニーズに応えようとして、本来の姿をいびつに変えられてしまったたくさんの農産物。
便利で売れる野菜を作るために、人間が手を加え過ぎた功罪を、著者は丁寧に説明してくれます。
その著者が声を大にして推奨するのが自然栽培 。
農薬も肥料も使わない農業です。
それは自然が本来持っている力を、十二分に引き出す農法。
人間が生まれるより、はるか前からこの世に存在していた植物には、その長年のキャリアの中で、どんな問題が起きても自前で対処できる能力がもともとあるということです。
それがあるからこそ、自然の中で淘汰されずに、今も種として存在出来ているということ。
要は、その対応力を最大限引き出すこと。
それが、地球環境にも優しい最良の農法であると氏は訴えます。
人間は、こちらの都合で、あまりに、野菜たちに手を加え過ぎました。
それにより、大量に安価な食料を手に入れらたことが、20世紀に入ってからの、急激な人口増を支えたということは事実です。
第二次世界大戦が終わった時、日本の人口は7200万人。
それが、戦後のベビーブームを経て、いまや、その人口は1億3000万人になるというわけですから、6000万人増。
これだけ巨大になった胃袋を支えてきたのですから、農作物に大量生産、大量消費という命題が課せられたのは、ここまではやむを得なかったかもしれません。
しかし、やはりそこには多少なりとも無理があった。
今少子高齢化時代を迎えて、これまで野菜たちに向けられていた「量」への課題は、「質」への課題にシフトチェンジする時期を迎えたのではないかと著者は言います。
つまり、野菜を、そろそろ野菜本来の姿に戻してあげませんかといこと。
僕が、野菜づくりを始めて、一番最初にビックリしたことは、収穫した野菜が、どれもみんなサイズも形も不揃いだということ。
笑ってしまうくらいどデカいズッキーニや、折れ曲がった胡瓜。
スーパーに綺麗に陳列してある行儀のいい野菜が本来の姿であると思い込んでいた僕は、これは失敗作だとすぐに思ってしまいました。
しかし、食べてみると、そんな野菜もちゃんと美味しいではないですか。
自分が作ったという色眼鏡はあるにせよ、少なくともスーパーに並んでいる野菜よりも、僕には美味しく感じられました。
そして、おすそ分けで、会社の人たちに配っても、みんなに同じことを言われるわけです。
ニンマリしながら、よくよく考えてみると、実はスーパーの決まったスペースに綺麗に並べられている野菜こそ、むしろ不自然なのではないかと気がつきます。
昔、子供の頃に住んでいた家は駅前商店街の本屋でした。
その僕の家の真向かいが八百屋。
当時は、並べられていた野菜の上から、秤とザルがぶら下がっていました。
野菜は、みんな量り売り。
グラムいくらで売っていたんですね。
「ナスを1ooグラムね。」というと、八百屋の親父さんは、手頃なナスを秤にのせて、「おっ、8グラムおまけ。」「ありがと」なんていうやりとりが店先で交わされていたのを思い出します。
つまり、当時の野菜は、みんな大きさがバラバラだったということ。
だから量り売りでなければ商売ができなかった。
しかし、商店街の八百屋が、大手スーパーに飲み込まれる時代になると、野菜を大量に仕入れて販売するために、店はそんな一対一の手間のかかる接客はやめてしまいます。
どんと揃えた陳列ケースの前に、一個200円というプライスカードをつけたいために、生産農家には、「作る野菜の大きさを揃えてくれ。でなきゃ買わないよ。」と言いだします。
生産農家も、作った野菜が売れなければ、生活ができません。
やむなく、野菜本来の味を向上させるための品種改良ではなく、大きさを揃えるための品種改良に精を出します。
そのために、編み出されたウルトラCが、「F1種」と呼ばれるもの。
これは、こちらが望む特性を持った品種を掛け合わせるという品種改良。
つまり「形が揃っている」「大きさが同じ」という品種を掛け合わせると、最初の第1世代のみ、あのメンデルの優性遺伝の法則により、双方のいいとこどりの品種ができるというものです。
野菜のハイブリットですね。
これで、スーパーにも重宝され、物流にも都合のいい、同じ大きさの形の揃った野菜が、大量にできるというわけです。
しかし、F1種のウィークポイントは、優性遺伝になるのは、第1世代のみということ。
第2世代からは、同じくメンデルの法則により、劣性が現れてきます。
そのため、第1世代の収穫が終わったら、その種子はすべて廃棄。
もう一度、既存種のタネからの作り直しになります。
つまり、この方法で野菜を作ると、永遠に同じDNAを引き継ぐ、固定種は出来ないということになります。
僕は、いまのところ、生産農家ではありませんから、ことの良し悪しを論じる立場にはありませんが、正直に思うことは、それはいかにも「不自然」ということ。
そうして作られた野菜は、流通の上では優等生かもしれません。
けれど、ひとつひとつの野菜は、思い切りストレスを抱えているに違いないという直感です。
そんな負荷をかけられた野菜が、美味しいわけがない。
ストレスをかけられないで、のびのびと育てた野菜は、姿形はバラバラで不揃いでも、きちんと美味しい。
このことは、三年間の野菜づくりで、至らないところはありながらも、とりあえず無農薬で、彼らと付き合ってきて得た実感です。
そしてこの素人百姓の実感が、どうやら間違いではないらしいということを、この木村さんの貴重な体験が、本書できちんと説明してくれました。
実際に、定年後に、自分が野菜畑に立って、野菜づくりをするのなら、やはりやってみたいのは自然栽培。
でも、はたして、その時にそんな綺麗事が言っていられるかどうか。
これは正直自信はありません。
しかし、この木村さんのように、生きているうちには、自分の畑の前で、声高らかに笑っていたいもの。
農業とは関係ありませんが、僕は実は「おじいさんフェチ」。
この木村さんの笑顔は、あの笠智衆さんにも引けを取らない実に胸に染み入る素敵な笑顔です。
僕も、木村さん同様、ほとんど前歯はありませんが、自分で作った野菜の前での笑顔なら、なんとか絵になるのではないかと思っています。
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