人はなぜ、ゴキブリを嫌うのか
養老翁の著書は相当数読んでいます。
iPad に仕込んだものは、全て読んでいると思っていたのですが、未読のものが一冊出てきました。
20年以上前の講演会の内容をまとめた一冊。
ですから、今まで読んできた養老エッセンスを、わかりやすく復習できました。
養老翁の「ぼやき」は、基本的にほぼ変わっていません。
つまり、日本という国も、この20年は何も変わっていないということでしょう。
大きく変わったのは、僕自身の日常。
去年、勤めていた会社を定年退職させてもらって、今現在は、その会社の持ち物である野菜畑で、好きなように野菜を作らせてもらっています。
現金収入は無くなりましたが、自分の胃袋に入る物は、自分で作るという暮らし。
この先を考えて、不安がないかと言えば、嘘になりますが、毎日畑に行って野良仕事をしていると、不思議とストレスはありません。
特にこの4月からは、日曜日も含め、雨の日以外は、毎日畑に通っています。
雨が続いても、二日続けて休むことはしないで、できることをコツコツやっている日々。
サラリーマン時代でも、こんなに休みなく働いいた事はありません。
労働時間で言えば、ほとんどブラック企業並み。
それでも、過労と感じる事はありません。
仕込んだタネや苗が、どうなるのかが気になって、ワクワクしながら通っています。
思えば、自分がこの選択をするまでの過程では、養老翁の本から学んだことが大きく影響しています。
もちろん、こちらには、養老翁のような明晰な頭脳回路はありません。
知見も、説明する能力もありません。
しかし、ないなりにも、頭の中で、漠然と考えていたものはありました。
そのもどかしくも、言葉に出来ないイライラを、明快に「言葉」で、説明してくれたのが養老翁の著書たち。
名著「バカの壁」も含め、とにかく、彼の著作は、片っ端から読んで行きましたね。
自分がおぼろげに考えていたことを、明確に肯定してもらえる快感が、養老翁の著書には溢れていました。
なるほど、これはこういうことなのか。
なるほど、剛説明すればいいのか。
そして、仕事をやめたら「田舎暮らし」「百姓暮らし」という人生設計が徐々に出来上がっていきました。
とにかく、養老翁の文章は、読みやすいので助かります。
もちろん、養老翁が、こちらのレベルまで降りて来てくれて、わかりやすい言葉で、語ってくれていることは承知しています。
でなければ、ついていけるはずがない。
なので、サラリと読めて、読んだ直後はわかった気にはなれる。
しかし、後から思い返すと、結局わかっているつもりで、何もわかっていない。
あれ、なんだっけ?
だから、また次の著作を読む。
そして、また同じ。
そんなことをリピートしていましたね。
ところがそのうち、頭でわからなくてもいいんだということに気がついてくる。
頭でわからないんだったら実践してみればいいだけのこと。
つまり、養老翁の仰っていることは、とどのつまり、脳ではなく「心と体」の問題なんですね。
とにかく、体を動かしてさえいれば、脳は後からついてくる。
それこそ正常な回路。
ということで、考えることは一切やめにしました。
結局考えてもしょうがない。
もともと、これまでの人生で、自分の思い通りに行ったことなんて、何一つありませんでしたから、当然これからの人生も同じこと。
なるようにしかならないなら、考えるだけ無駄。
下衆の勘ぐり休むに足らずとやらです。
「都市」の居心地の悪さを感じ始めたのは、20年ほど前でしょうか。
運送会社勤務でしたが、多少パソコンの心得はありましたので、気がつけば仕事は、体を動かさないデスクワークになっていました。
これが全ての間違いの元。
あっという間に体重は増え続け、血糖値も、血圧も、中性脂肪も増加。
健康診断の結果は、恐るべきものでした。
そりゃそうです。
一日いくらも体を動かさず、好きなものを好きなだけ食べていれば、誰でもそうなるというもの。
自分なりに、身の危険を感じて、会社には無理を言って、現場に戻してもらい、日々体を動かしながら、同時に会社所有の畑で百姓修行。
定年退職後は、田舎へ移住して、死ぬまで百姓というセカンド・ライブの構想が徐々に出来上がっていきました。
その計画の論理的正統性を 後押ししてくれたのが、養老翁の著書の数々。
とにかく読み漁りました。
そして、誰かに聞かれて説明する時には、幾度となく、その受け売りをさせていただきました。
不思議なもので、人に語り始めると、自分のどうしようもない脳でも、いっぱしに回転し始めるものです。
そのうち、自分で言っていることに、自分自身が納得していくということが起きるんですね。
養老風に申せば、「脳は五感でインプットし、運動でアウトプットする」とのこと。
しゃべることも、もちろん立派な筋肉の運動です。
人間の脳は、「ああすればこうなる」ということが明確になっていることを好む傾向にあると養老翁はいいます。
しかし、自然と付き合っていくと、そうは問屋が卸さない。
そこに起きることは、いつでも複雑怪奇で人間の意識では分からないことも多い。
でも、わからないからと言って、何にもしなければ、結果はやはりそれなり。
わからないなりにも、何かしら、手を入れておいた方が少しは良さそう。
これが、「手入れ」の思想ですが、素人が素人なりに農業をやっているとそんなことの連続です。
でも、教科書通りやって、教科書通りの結果になるよりもこちらの方が断然面白い。
そもそも、自然を相手にして、こちらの思うようにさせようというのがおごりというもの。
人間様が勝手に、自然よりも「上位」においているつもりの、「意識」とやらで、自然をうまいことコントロールしてやろうなんていう発想がそもそも間違いの元。
相手をしてもらっているこちらだって、もともと自然です。
無理に回らない頭脳をこねくり回して、頭でっかちの農業をするよりは、自分に与えられた自然の中で、訳がわからないながらも、きちんと「手入れ」の手を抜かずに、粛々と続けていけば、なんとかカッコはつくだろうという気はしています。
百姓を志した以上、死ぬまで体を動かして働くという覚悟だけはありますので。
まあ、そんなことを言っている限り、いつまで経っても食える百姓には慣れそうにありませんが、それはそれ。
そして、いつしか気がつけば、「なぜヒトは、ゴキブリを嫌うのか?」という、本書のテーマもおぼろげながら、人に説明できるようになっていそうです。
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