野生の思考
定年退職をして、まる2年経ちましたが、このコロナ禍で世の中はひどく様変わりしました。
この騒動を予測したつもりはありませんが、気がつけば、野菜作りのため、自宅と畑を往復する毎日。
人のいるところへ行くのは、買い物のための「カインズ・ホーム」や「業務スーパー」くらいのもの。
図らずも、人と接することの極めて少ない日々を送れていますので、幸いかな普通の人たちよりは、感染のリスクは少ない暮らしを選択している結果になっています。
但し、年金などが受け取れるのはまだ先のことですので、贅沢などは到底できない身。
読書も、サラリーマン時代は、読みたい本があれば、多少高くても、ほぼ衝動的にAmazon のサイトをポチッとしていたものが、今はそうもいかず、この読書ストレスの解消をするために図書館を頻繁に利用しています。
畑にいて、雨などが降ってくれば、これ幸いと、すぐに最寄りの図書館に退避して、せっせと読書に励んでいます。
実家が本屋でしたので、とにかく本がズラリと並んでいる空間にいると、不思議とそれだけで気持ちが落ち着いて、何時間でもいられるようです。
まさに「晴耕雨読」の日々を送っています。
図書館読書では、なかなか旬の最新刊には出会えませんが、その代わりに歴史にその名を残すクラシックな名著ならふんだん。
「温故知新」ではありませんが、時代を超える名著に、60歳を超えてから改めて触れるのも、読書オタクにとっては悪くありません。
さて、そんなわけで今回手に取ったのは、フランスの人類民俗学者レヴィ=ストロースの「野生の思考」。
1962年発表とありますから、もう60年も前の著作です。
ブラジルの大学に招かれて、社会学を教えていたストロースが、休みの日などを利用して、アマゾン川流域の未開人達の部落をフィールド・ワークしながらまとめ上げた力作です。
未開人たちの暮らしに根ざした「野生の思考」は、近代文明を築き上げた都市社会に住む人たちの科学的思考に比べて、決して劣っているものではなく、むしろ並列して語られるべき、人間本来が持っている最もベーシックで自然な「哲学」の形だというわけです。
未開人たちの村に立つトーテンポールや、語り継がれる神話の形態。
そして、必要なものがあれば、身の回りある自然環境の中からその素材を調達してきて、新しいものを作り上げてく未開人たちの中に脈々と受け継がれているブリコラージュの手法。
これらと、近代文明に粛々とその身を委ねる現代人の科学的思考は、「構造的」には全く同じモノで、ただ環境の違いにより、それぞれ違う形で表出しているだけのことだと、ストロースは言います。
つまり、言語学者ソシュールが提唱していた「構造主義」の正当性を、ストロースは、人類学という枠組の中で、証明してみせたというわけです。
これは、当時の哲学界を席巻していた「実存主義」を、真っ向から否定するモノでした。
本書の最終章では、実存主義のオピニオン・リーダーであるサルトルを名指しで批判しています。
実存主義といえば、人間としてどう考え、どう振る舞うかという「実存」こそが、現実世界の本質より先立つという思想。
これに対して、ストロースは、そんな人間の思考回路は、すでにその環境要因による普遍的で根源的な「構造」の枠組みに、知らず知らず支配されているモノだとして、人中心の「実存」の危うさを突きつけてきます。
うーん。書いていてちょいとこそばゆくなってきました。
白状いたしますが、サルトルの「実存主義」も、ソシュールが提唱した「構造主義」も、この百姓がわかっているわけがありません。
かつて、関連する何冊かの本は読んだことはあります。
つい先日も、内田樹氏の「寝ながら学べる構造主義」を読んだばかりですが、ちゃんと座って読んだにも関わらず、頭にはまるで入らなかったですね。
知ったかぶりをすると、お里が知れますので、偉そうなことを言うのはやめましょう。
現役引退後の今はパソコンからも遠ざかり、近代文明にも背を向けて、ただひたすら自然と向き合って、野菜作りをする毎日。
まっしぐらに「文明人」から「未開人」への道を歩んでいる身としては、「それならば」と、我が身にも内在しているはずの「野生の思考」に磨きをかけていく暮らしも、悪くないぞと本書を通読して思い始めているところです。
野菜作りを始めた頃、自然を相手にする労働のはずなのに、こちらの思考は、「野生の思考」とはほど遠いモノでした。
とにかく、ホームセンターの園芸コーナーに通っては、使えそうで面白そうな道具や材料を見つけてきてはどんどん試すわけです。
凝り出せば、お金を注ぎ込むことには躊躇しないという、オタク道楽人生を送ってきましたので、この新しい道楽も完全にその延長線上。
いろいろなものを次から次へと試しては、素人百姓をそれなりに楽しんでいました。
しかし、老後の「生きる糧」とするべく、定年退職後、この「野菜づくり」に専念するようになると、事情はまるで違ってきます。
便利なものや、高価な材料を、何も考えずに注ぎ込むという「道楽農業」は続けられません。
畑にあるものを、上手に使って、無駄なコストはかけないということを考えるようになるわけです。
気がつけばやっていることは、ストロース言う「野生の思考」のブリコラージュです。
土作りをするのに、わざわざ堆肥を買ってこなくても、冬の間に枯れ草を燃やした草木灰を、満遍なく散らして、土壌に漉き込んでやれば、その灰汁が、立派に堆肥の代わりになります。
畝にマルチを一本一本張らなくても、草むしりをした後の、膨大な量の雑草や、捌ききれなかった葉物野菜をそのまま畝に敷いてやれば、立派に有機マルチになります。
もちろん、ビニール・マルチのように完璧な保水効果や雑草抑制はできませんから、水やりや、草むしりをする頻度は多くなりますが、要はそれで済むことです。
わざわざ培養土を買って来なくても、目の前にふんだんにある土を、鉄板の上で焼いて殺菌して、腐葉土と混ぜれば、立派に代用となることは、有機農家の研修で教えてもらいました。
近くに便利なホームセンターなどない、縄文弥生時代のご先祖さまは、おそらく経験を重ねることで、自分たちの身の回りにあるものを上手に利用して、直感的にこれらの方法を学習していたはず。
おそらく当時のこの農法では、今の慣行農業のような均一大量生産はできないかもしれませんが、しかしそれでも当時の彼らは、自分たちが意識することもなく、現代の消費者たちよりも、「安心安全」で健康的な野菜を食べていたわけです。
そして、畑の中に「科学」を持ち込まない彼らの農法は、長い目で見れば、環境を破壊せずに、共存していくことで、結果として、その子孫たちにも、変わらぬ供給を残していくことを実践してきたわけです。
自分たちの利益と、現在の消費者のためだけに、未来に残すべき環境さえも食い荒らして、なおも膨張するハイテク農業と比較して、果たしてどちらが優れた農法と言えるのか。
自分の日常である「野菜作り」に落とし込んで、本書を読んでいると、この辺りは大いに考えさせられます。
畑には「人間のその場限りの浅はかな知恵」は何も加えず、畑から出たものに、少々の工夫をして再び畑に還元させることで、無理のない循環サイクルが永劫に続く農業が出来上がるわけです。
近代化以前の農業には、そんな直感と経験に基づく「野生の思考」が詰まっていたのだろうと思います。
脳が、地球の歴史から見れば極短期間に以上に発達してしまったホモ・サピエンスは、ともすれば、自分たちの高度に発達した知性の下では、自然さえコントロールできるという奢りを持つようになりました。
自然を自分達と切り離して、一歩も二歩も高いところから「上から目線」で見下ろすようになってしまいました。
しかし、そんなインスタントで自己中心の知性など、自然が何億年にわたる命の営みを経ることで獲得した隙のない無駄のない知恵には到底太刀打ちできるものではありません。
せめて、自分たちもその自然の一員であるという謙虚な姿勢で向かい合い、認め合い、折り合いをつけて、粛々と共存していく以外、長い目で見れば、未来へ続く道はないと思います。
そしてこのことは、他の生物同様、自然の中から進化してきた人類のDNAの中に、「野生の思考」として、はっきりと刷り込まれているはずだと、ストロースは考えるわけです。
人類が長い時間をかけて進化してきた過程で獲得された「野生の思考」は、どうその環境が変わろうとも、構造的には変わりようがなく、その範疇から逃れられるものはないというのが、「構造主義」の骨子であろうと個人的には、納得することにしました。
サルトルたちの「実存主義」に、ノーを叩きつけた、ストロースの「構造主義」ですが、読んでいて頭を掠めたのは、孔子の儒教に対する、孟子や老子たちの唱えた道教の立ち位置です。
孔子が「論語」で述べたことは、平たく言えば、社会に秩序を求めるためにあるべき、人間の内面を説いた行為規範の学問でした。
これが、どことなく「実存主義」と同じ匂いがするわけです。
そして、これに対して、道教の先人たちが解いたのが「無為自然」。
人は頭でっかちになってしまってはいるが、所詮は自然という枠の中で生きている生き物。
あまり無理をしないで、「自然」と上手に折り合いながら、生きてみてはどうかと説くわけです。
どうでしょう。こちらの方は、プンプンと「構造主義」の匂いがしてきませんか。
儒教は、言ってみれば、たくさんの人が集まる都市社会にフィットした学問と言えます。
我が国でも、国を統治するためのツールとして、時々の為政者に取り上げられてきた学問でした。
一方、道教は、農村社会などで、人よりは、自然と向かい合って生きる人々のための思想と受け入れられてきましたが、これが意外や意外、今日では、この思想こそ、人間関係で疲弊してきた都市生活者に、受け入れられつつあります。
この双方の学問に優劣をつけることなど出来ませんが、どちらが今の自分にフィットした思想なのかと言えば、この答えは火を見るよりも明らか。
当然のことながら、自然との共生を説いた道教です。
この古き東洋の思想と、20世紀後半に盛り上がった「構造主義」は、2000年以上の時を経ながらも、実はかなり深い部分で、密接にリンクしているような気がしています。
本書からは離れますが、晩年のストロースは、その東洋の一員である我が国日本には、民俗学的見地から、大きな関心を寄せてくれていたようです。
1977年代に、初来日したストロースは、日本の地方を積極的にフィルド・ワークし、伝統工芸に従事する職人たちの仕事ぶりを具に観察していきました。
そして、雅楽などの日本古来の音楽、そして日本料理など、日本の文化に大きな関心を示しています。
それらをじっくり観察した結果、彼はこう結論づけてくれています。
「日本文化には、自然への畏怖とリスペクトが息づいており、自我中心の西洋文化とは明らかに一線を画す。そこには自然との対話があり、その共生姿勢が芸能の姿を借りてが浮き彫りになっている。野生の思考を具現化している文化としては、他国に比類がない。」
これにはもう有り難くて有難くて、日本人としては、ストロース先生には、平身低頭頭が上がりません。
当の日本人さえ気が付かない日本文化の側面を、民俗学者の視点で、冷静に分析してくれています。
ここ最近の、我が国の政治経済、文化教育の劣化を思うにつけ、複雑な気持ちにもなりますが、日本人としては感謝の念はひとしおです。
もしも未来の日本人から、近代文明の中に巧みに「野生の思考」を取り入れるという比類なきポテンシャルを奪ってしまったとしたら、その原因は間違いなく、今日現在を生きる私たちにあることだけは明白であると、肝に銘じておきたいところです。
一万年以上もかけて、脈々と受け継がれてきた財産を、ノーテンキなボンボンが、知らず知らずその上にアグラをかいて、セッセと食いつぶしている、そんな「穀潰し」が私たちかもしれません。
日本人が見失いつつあるものが、本書の中にはあるように思います。
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