畑仕事をしながら、ラジオがわりに聞いているのがYouTubeです。
短い動画ですと、いちいちその度に、動画チェンジをするのが面倒くさいので、比較的再生時間の長いものを選ぶのですが、広告も入らずに、連続再生してくれる「世界史講義」が結構お気に入りです。
お笑いタレントから、教育系YouTuberに転身した中田敦彦の「YouTube大学」も聞きますが、どうにも彼のテンションの高さが肌に合わなくて、比較的地味な「高校世界史20話プロジェクト」や「高校世界史トライイット」などをチャンネル登録しています。
高校時代に授業で聞いた世界史は、試験前の徹夜勉強しかした記憶がなく、そんな人間の脳の生理を無視した詰め込み知識(学習した後はちゃんと寝ないと知識として定着しないそうです)は、試験が終われば全て雲散霧消。
世界史の基礎知識など、悲しいことにほとんど残っていない状態でした。
しかし、なぜか映画では、歴史モノは、嫌いではありませんでした。
学生の頃には映画館にも通いましたし、旧作はテレビで放映されたものもよく見ていました。まだTSUTAYAもGEOもなかった時代です。
とにかく、1950年代以降の史劇は、台頭してきたテレビに対抗するために、そのスケール感で客を呼ぼうという映画会社の戦略もあったりで、たっぷりと製作費をかけた大作が多かったのも好きだった理由の一つ。やはり、映画ファンとしては、迫力のある映画は大好物でした。
オールド・ファンとしては、ウィリアム・ワイラー監督の「ベン・ハー」を筆頭に、「ソムソンとデリラ」「聖衣」「天地創造」「スパルタカス」「クレオパトラ」「冬のライオン」「エル・シド」「アントニーとクレオパトラ」「ラスト・エンペラー」などなど、世界史の一ページをめくるような絢爛豪華な作品は今でも記憶に鮮明です。
不思議なもので、勉強となると頭に入らないものが、映画で鑑賞したものは、今でも脳裏に焼き付いています。
そんなわけで、世界史のドラマチックな場面は、映画鑑賞を通して蓄積した記憶が蓄積されていたところで、改めて高校の世界史の授業に耳を傾けてみると、これが面白いように、一つの物語として、どんどんとつながっていくんですね。
スティーブ・ジョブスが、スタンフォード大学の講演でスピーチした「Connecting the dots(点と点をつなぐ)」を、ちょっと思い出してしまいましたが、点在していた知識が、線として繋がっていくという経験は、結構快感でした。
野良仕事をしながら、「おお、あれはそういうことだったのか。」と、かつて見た映画の理解が深まることもしばしば。
そんなわけで還暦を超えてからは、世界史がマイブームになっております。
その世界史の流れから、改めて本作「十戒」を俯瞰してみましょう。
まず描かれている時代は、今から3000年ほど前。紀元前10世紀頃の物語です。
当然この時代は、イエス・キリストのいた時代からも、さらに1000年以上も遡ります。
歴史というものは、言い換えれば「残された文書」の記録です。
人類の営みはいつから始まったのかといえば、旧石器時代あたりまで遡りますが、それは人類学の分野。世界史の始まりはどこからかといえば、人間によって、文字が発明された時点からということになりますね。
世界史の中で、最も古い文字による記録が残っているのは古代オリエント文明の頃。
人類史上初めて文字を使ったのはシュメール人で、彼らは楔形文字を粘土板に残しました。
最初は簡単な数字みたいなものからだったでしょうが、文字が使われるようになると、いよいよ地名や人名が、歴史に登場してくるようになり、本格的な世界史が始まるというわけです。
本作は、そんな世界史の草創期の物語です。
「十戒」のネタもとになっているのは、ヘブライ語で記載された「旧約聖書」です。
この本はユダヤ教の経典として編纂されたものですが、完成したのは紀元前1世紀頃。
ですから、およそ1000年にわたって残されてきた文献をまとめたものがこの書物ということになります。
そういう意味では、その成り立ちは、日本の「古事記」や「日本書紀」とよく似ていますね。
世界の成り立ちパートでは、当時の人たちが、色々と妄想を膨らませて、神様を活躍させるという寓話的展開にしているのは、洋の東西を問わず変わらないということは興味深いところ。
唯一神と八百万の神の差こそあれ、人知の及ばない生命や自然の神秘は全て「神の仕業」で説明して、神に対する畏敬の念を民に植え付けるという姿勢は、人類共通の思考回路なのかもしれません。
そして、人民を上手く治めたいと考えた権力者たちが、この「神」を讃え上げた上で、上手に利用したという図式もまた同じようです。
「旧約聖書」の冒頭は、「創世記」。
ここは、天地創造や、アダムとイブ、カインとアベル、ノアの方舟、バベルの塔といった、歴史文書というよりは、壮大なファンタジーの世界です。
そして、その後ユダヤ人の誕生までが描かれ、いよいよ第二章となる「出エジプト」へと続くわけです。
この時点では、ユダヤ人は、まだヘブライ人と呼ばれていますが、パレスチナに移り住んだ彼らの一部が、大国エジプトに連行されて、国王ファラオの下で、奴隷として過酷な労働を課せられています。
そんなヘブライ人たちを、約束の地カナン(イスラエル)へと導く指導者が、唯一神ヤハウェイの神託を得たモーゼです。
創世記に登場するアダムやイブが、歴史上実在したとはちょっと考えにくいので、世界史の流れの中で、実在した可能性のある歴史上の人物として一番最初に登場したのが、このモーゼかもしれません。
本作は、インターミッションを含む3時間52分を費やして、ほぼ忠実にこの「出エジプト」にある記述に沿って、シナリオが練られています。
本作は、1956年の作品ですが、ちょうど僕が日比谷の映画館に通い始めた1973年に日本でリバイバル公開されていたのでよく覚えています。
実はその当時は、この映画は見ていないのですが、その予告編は何度も見た記憶がありますね。
もちろん、この映画の最大のクライマックスである、紅海が割けて、道ができるスペクタクル・シーンは、その予告編で繰り返し見ています。
映画を全編を通して鑑賞したのは今回が初めてでしたが、あのシーンを見ただけで、この映画を見た気になっていたかもしれません。
シナイ山に登ったモーゼの前に、火柱が現れて、岩盤に神からのお告げである「十戒」が刻まれるシーン。
ナイル川の水が、みるみる鮮血に変わるシーン。
投げつけたろ杖が、一瞬で蛇に変わるシーン。
本作の後半は、これでもかというばかりの特撮のオンパレード。もちろん当時としては、最高水準の特撮技術です。
本作はこの年の、アカデミー賞特殊効果賞を獲得しています。
主演を務めたのは、チャールトン・ヘストン。
監督のセシル・B・デミルは、映画人生の総決算として、本作を製作するにあたり、わざわざローマまで出向き、ミケランジェロによるモーゼ像をじっくりと観察した上で、そのイメージに一番近い俳優として、チャールトン・ヘストンをキャスティングしたそうです。
確かに、彫りの深いマスクと190cmを超える長身、そしてその屈強な肉体は、まさに歴史劇のヒーローとしては申し分なし。
本作でも、その圧倒的な存在感で、モーゼの生涯を格調高く演じています。
十戒は、ユダヤ教の成立の過程において、唯一神ヤハウェイによって、民衆に提示された戒律です。放置しておけば、すぐに私利私欲や享楽に走ってしまう民衆を律するために、神が文字として残した世界最初の律法が十戒です。
内容は、Wiki していただければすぐに出てくる思いますが、神を敬うことや、人間として犯してはならない罪を定めたシンプルなもの。
いわば、後のユダヤ教やキリスト教へと続く戒律の原点とも言うべきものです。
映画は、約束の地カナンを前にして、後継者にジョシュアを指名した後、民たちの前からモーゼが去るところで終了します。
旧約聖書によれば、その後パレスチナを奪還した彼らは、ヘブライ王国を建国。
ダビデ王やソロモン王が統治した頃に全盛期を迎えますが、やがてソロモン王が亡くなると王国は南北に分裂。
北部はイスラエル王国、南部はユダ王国となります。
その後、イスラエル王国はアッシリア王朝により滅ぼされ、ユダ王国は新バビロニア王国に滅ぼされてしまうのですが、より悲惨だったのがユダ王国の人々でした。
彼らは、新バビロニア王国に、再び奴隷として強制連行されてしまいます。
これが世に言う「バビロン捕囚」です。
エジプトによって拉致され奴隷となったヘブライ人たちは、モーゼによって救出され、イスラエルに自分達の国を作ったのも束の間、数百年の時を経て、バビロン捕囚として、再び奴隷の暮らしを強いられ、苦難の日々を送ることになってしまうわけです。
そんな虐げられたユダヤ人たちの間で、芽吹いていった宗教がユダヤ教でした。
従って、ユダヤ教には、この辛酸を舐めた時期の彼らの中に芽生えた歪な感情が色濃く反映されることになります。
その一つが終末思想です。
世界には必ず終わりが来るという、この宗教の独特の考え方です。
そして、その場面において必ず行われるのが、いわゆる「最後の審判」。
それぞれの人生おける善行と悪行が天秤にかけられ、善行が勝れば天国にいけるが、悪行が勝れば地獄に落ちるという究極の裁判です。
つまり、現世ではどんなにつらくとも、それに負けずに、神を信じ、善行を積んでさえすれば、誰もが必ず天国に行けると彼らは信じたわけです。
こうなると、ちょっと怖いのは、辛い目に遭え遭うほど、逆に神への信仰心が強くなるということになります。
「神は、我々を試されている」となるわけです。
考えてみると、これはなかなか巧みな、宗教維持装置です。
つまり、苦難に会えば会うほど、ユダヤ人の信仰心は増幅されていくことになります。
それから、ユダヤ教を語る上では欠かせない、もう一つの大きな特徴。
それは、そんな世界の終末が訪れようとも、このユダヤ教を信じる民だけは、必ず救われるという選民思想です。
助かるのは、辛い思いをしてきた自分達だけというのがミソ。
ユダヤ人が、迫害の中で育んできた怨念とも呼ぶべきフラストレーションの発露が、自分達以外の宗教に対する強烈な排他意識と閉鎖性を育んでしまったとことは、その後の彼らの運命と無関係ではないでしょう。
そんなユダヤ教徒の中から、「信ずるものは、皆救われる」と説くイエス・キリストが登場すると、ユダヤ人司教たちは彼の存在を恐れて迫害し、遂にはゴルゴダの丘で、その他の犯罪者と共に、磔にして処刑してしまいます。
キリスト教はその後、本家本元のユダヤ教を凌駕して、世界中にその信者を広めていきますが、「汝隣人を愛せよ」という教義は粛々と受け止めつつも、主イエスを迫害したユダヤ人を憎む感情を、キリスト教徒たちの心の奥底に植え付けたことはいうまでもありません。
そして、第二次世界大戦中のヒットラーによるホロコーストに至るまで、その後の世界史における、長きにわたる陰湿で残酷なユダヤ人迫害の歴史は、繰り返され続けました。
定住する場所を奪われ、農工業などの生産をベースにする民族維持の手段を諦めざるを得なかったユダヤ人は、その後、世界中に散らばり、「ユダヤ人といえば高利貸しか殺人者」などと蔑まれても、金融業や商取引で成功していきます。彼らは各地で地道に活動し、やがて、世界中に広がった、そのネットワークとフットワークを最大限に活用しながら着実に足場を固めていきました。
そして、時代がグローバル化を迎え、経済活動を中心に世界が回り始めると、彼らはその活躍の場を広げてゆき、存在感を示すようになっていきました。
特にその傾向は、20世紀を迎えたアメリカにおいて顕著でした。
ロスチャイルドやロックフェラーなどの財閥をはじめ、金融業でウォール・ストリートの席巻したJPモルガン商会は、全てユダヤ系です。
やがて、アメリカが世界のリーダーに躍り出ると、彼らの力も同時に絶大なものになっていきました。
自分達の土地を持つことができなかった彼らは、その代わりに世界中の隅々から集まる情報を武器に、今や国際経済社会のあらゆる場面に、ユダヤ人たちのネットワークを張り巡らせています。
ユダヤ人が活躍した分野として、もう一つ忘れてならないのが、映画産業です。
映画の草創期には、利益の独占を狙って特許を盾に、自由な映画製作を妨害しようと起訴しまくるエジソン陣営との法廷バトルに嫌気がさして、映画づくりの新天地を求めて、西海岸のカリフォルニアに移住していった多くの独立系映画プロデューサーがユダヤ系でした。
そしてその新天地こそ、今をときめく映画の都ハリウッドです。
19世紀の終わりに誕生したばかりの映画ですが、20世初頭ではまだエンターテイメントとして、その可能性は未知数でした。
金儲けのツールとしては、まだ誰もが疑問符を持っていたわけです。
しかし、この新産業においても、ユダヤ人たちの才覚は十分に発揮されていきます。
ハリウッドで映画制作会社を起こした人の多くはユダヤ系でした。
彼らは、持ち前のネットワークで、多くの人材をハリウッドに呼び寄せます。
あのチャリー・チャップリンもそんな映画人の一人です。
その後の映画界で活躍したスティーブン・スピルバーグや、ウッディ・アレンもユダヤ系ですし、俳優の中にも、ダスティン・ホフマン、リチャード・ドレイファス、マリリン・モンロー、カーク・ダグラス、マイケル・ダグラス、バーブラ・ストライサンドなどなど、たくさんのユダヤ人がいて、挙げればきりがありません。
そして、そんなユダヤ系の映画人の一人として、本作の監督であるセシル・B・デミルも、ハリウッドのビッグ・ネームとして君臨していたわけです。
映画「サンセット大通り」で、本人役で出演していた彼を覚えていますが、なかなかの貫禄で、ハリウッドの「顔」としての自分自身を余裕たっぷりに演じていましたね。
彼は、ハリウッドの草創期から映画界で活躍していて、1915年には、「チート」という映画で、日本人俳優早川雪洲を人気スターにしたりしていますが、実は「十戒」というタイトルの映画も1923年にも撮っています。
これは、僕は未見ですが、モノクロのサイレント映画で、前半はモーゼを主人公にした歴史劇で、後半はそれを現代(もちろん当時の)に置き換えた物語に翻案した二部構成の映画だったとのこと。
ですから、その前半部分を、たっぷりと尺をとり、製作費もかけてセルフリメイクしたのが、本作ということになるわけです。
遠い3000年以上も前の物語が、ユダヤ人によって旧約聖書に記載され、歴史に残り、その彼らの遠い子孫たちによって、20世紀のアメリカで、再び映画という媒体になって生まれ変わり、映画史に永遠に刻まれる名作になったのが映画「十戒」というわけです。
世界史上のドットが、見事に線となって繋がり、本作にまでたどり着いたという気がいたします。
1970年に発表されたエルトン・ジョンの2枚目のアルバム「僕の歌は君の歌」に収められた「人生の壁」”Border Song”という曲の中に、こんなフレーズがあります。
Holy Moses let us live in peace
Let us strive to find a way to make all hatred cease
There's a man over there what's his color I don't care
He's my brother let us live in peace
聖モーゼよ、我らを平和に暮らせ給え。
我らに全ての憎しみを取り去る道を教え給え。
そこに男がいるが、彼の色など関係は無いのだ。
彼は私の兄弟、我々は平和に暮らしたいのだ。
虐げられている移民を憂いた歌ですが、今聞き直してみると、どうしても浮かんでくる映像は、ウクライナで戦渦に耐えている国民たちです。
聖モーゼも、まさか21世紀の世の中で、こんなことが起こっているとは露知らないとおモーゼ。
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