聖書も含めた全世界歴代の出版物の中で、いまだに堂々第6位にランクインしているのが本書だそうです。
如何に古今東西の人類が、ミステリーが好きであるのかという証でしょう。
推理小説の歴史はアメリカから始まります。
記念すべき第一作目とされているのは、エドガー・アラン・ポーが世に送り出した「モルグ街の殺人」。
このミステリーに登場したオーギュスト・デュパンが名探偵第一号ということになりますが、このデュパンをモデルとして、アーサー・コナン・ドイルが生み出した名探偵の白眉といえばご存じシャーロック・ホームズ。
この名探偵の大活躍により、イギリスは一気に本格ミステリーの本場になっていきます。
そして、その牽引役となったのが、ミステリーの女王アガサ・クリスティということになります。
彼女の数多い作品群の中で、人気を博した探偵キャラが、灰色の頭脳の持ち主エルキュール・ポワロ。
そして、詮索好きなお婆ちゃん探偵ミス・マープル。
個人的には、小学生高学年の時、「名探偵ホームズ」で火が付いたミステリー熱は、モーリス・ルブランの「怪盗ルパン」シリーズに飛び火し、そこからアガサ・クリスティやディクスン・カーも追いかけるようになったという経緯です。
高校くらいになると、角川文庫の仕掛けた横溝正史、森村誠一のキャンペーンにまんまとはまり、映画を見るようになってからは、松本清張などの社会派へと読書の幅を広げていくことになります。
この頃には、いっぱしのミステリー・マニアになったつもりでいましたね。
なにせ実家が本屋だったのは、僕にとっては幸運でした。
お気に入りの作家が出来ると、もちろんお小遣いは使わず、店の商品に片っ端から手を出していましたね。
ハマりやすいマニア気質は自分でも承知していました。
面白い小説に当たると、途中でやめられなくなるわけです。
徹夜で読書しても、学生時代なら、授業中に寝ていれば済みます。
しかし、サラリーマンとなればそういうわけにもいきません
読書の時間はどうしても限られてきますので、やむなくミステリー小説は封印。
空き時間に細切れで読んでも問題ないような雑学系の読書にシフトしていきました。
そして、時は流れ、僕もめでたく定年退職を迎え、現在は農業に勤しむ自由業となりましたので、封印していたミステリーを解禁する気になりました。
きっかけは、読書系YouTuberの、ミステリー紹介動画です。
しかし年金生活者になっていますので、現役時代のように、Amazon をポチポチも出来なくなりました。
でも案ずることなかれ。
新刊本でない限りは、有名どころのミステリーは、図書館に行けばたいていそろっているではありませんか。
人気作品は予約となりますが、待てば手には取れます。
そこで、図書館通いをしながら、ミステリーを封印してからの空白の40年の間に世に出たミステリーの傑作と、そしていまだ未読の古典ミステリーを同時並行で読んでいくことにいたしました。
雨が降れば、畑仕事は出来ませんので、晴耕雨読を実践。
本年はもっぱらミステリー三昧することにいたします。
さて、その一冊目に選んだのが本書です。
この作品は、1945年に作られた映画は学生時代に見ていましたが、この超有名な原作小説は未読でした。
ミステリー小説を語るのに、やはりこの大傑作をスルーは出来ません。
ちなみに本作には、エルキュール・ポワロも、ミス・マーブルも登場しません。
登場するのは、絶海の孤島に建てられた屋敷に招待された、互いに面識のない10人の男女だけです。
陸と屋敷を結ぶのは、一日一回往復する小舟のみ。
もちろん電話もつながっていません。
10人は、ミステリー用語でいうところのクローズド・サークルに放り込まれてしまったわけです。
10人に招待状を送ったのはオーエンという人物。
それぞれの招待理由は、それぞれが巧妙にリサーチされており、この人物を知らなくとも、全員がこの招待を断れないという内容になっています。
しかし、招待客がそろっても、この招待主は姿を現しません。
全員がいぶかしがりながら夕食のテーブルに着くと、突然オーエン氏の声が、ダイニング・ルームに響き渡ります。
それは、10人それぞれの罪を告発した内容でした。
どの告発も、招待客たちが直接手は下していないまでも、捉え方によっては殺人に準ずる行為になるものばかり。
その内容に、それぞれ心当たりがある招待客たちは、これを聞いて大きく動揺します。
そしてこの直後から、逃げ場のない孤島の館で、謎が謎を呼ぶ殺人ショーが展開されていくわけです。
最初の犠牲者は、この夕食の後、衆人環視の中で毒殺されます。
いったい誰が毒を盛ったのか。
お互いを疑心暗鬼になって見つめ合う招待客たち。
殺人犯はこの中にいるのか。それとも11人目が屋敷のどこかに潜んでいるのか。
恐ろしいことが始まっているという予感の中で、招待客たちはこの館から逃げだしたくともそれが出来ません。
すると、招待客の一人が声を上げます。
全員がその声に引かれて、テーブルの上を注目すると、10体並んで立っていたはずのインディアンの人形のうちの一体が倒れているではありませんか。
翌朝、全員が朝食に集まると二人目の犠牲者が出ていることが分かります。
そして誰かが、テーブルの上を見ると、インディアンの人形がさらに一体倒れています。
さらに、この二人の死に方が、ダイニング・ルームに飾られている「10人の小さなインディアン」という童謡の歌詞通りであることが判明すると、招待客の恐怖のボルテージは・・・
この大傑作のネタバレは、小説が書かれてからすでに80年以上が経過していたとしても、さすがに顰蹙ものでしょうから、ストーリーの説明はこの辺りまでにしておきますが、とにかくアガサ・クリスティのこのプロットの立て方は天才的です。
周囲から隔離された空間の中で、童謡の歌詞内容通りに招待客がひとりずつ殺されていくというこの物語のアイデアを着想しただけでも、アガサ・クリスティの名前は、後世に語り継がれるべきだと思いますね。
クローズド・サークルの中で展開されていく見立て殺人。
この設定が、如何にミステリー・ファンのハートを鷲掴みにして離さないかということは、本作の後、名だたる推理作家たちが競うように、同様のアイデアを展開し発展させた作品を生み出し、この偉大な天才にオマージュを捧げたという、その後のミステリーの歴史をたどれば明白です。
このアイデアを自作の中に上手に取り入れた名手として思い浮かぶのは、個人的には横溝正史です。
彼の場合は、見立て殺人がお気に入りのようでした。
「獄門島」「悪魔の手毬唄」「犬神家の人々」は、市川崑監督によって映画化もされていますから、ご存じの方も多いでしょう。
横溝正史の作風は、おどろおどろしい怪奇趣味満載の作品が多かったので、見立て方はかなり派手でした。
確かに、どの殺人シーンも映画映えしていた記憶です。
しかし、クリスティの描き方は、この点実に淡々としていて、イギリスらしい品格が漂っています。
彼女が意識していたのは、この唯一無二の設定を活かすにあたり、煽情的な描写で、読者を煽ることは潔しとせず、犯人の仕掛けたトリックが破綻しないように、文章の細部にわたり細心の注意を払い、本格ミステリーとして、読者を納得させ切ることに徹したという点にあると思います。
3人目の犠牲者が出たところで、外部からの犯行を疑った招待者のチームが、全島をくまなく探索し、自分たち以外の人物がこの島にはいないことが明らかになります。
これが上手かった。
つまり、狂気に満ちた恐るべき殺人者が、自分たちの中にいるということが明白になるわけです。
これで、作品全体に言いようのない緊張感が生まれ、このサスペンスが最後まで継続することになります。
そして、誰もいなくなった・・・
そのタイトルには偽りはありません。
本作は、そのタイトルの通りに、絶海の孤島で、招待された全員が、ほぼ童謡の見立て通りに死んで終了します。
そして、そのエピローグは二段階。
事件後に、この島に乗り込んだ警察の調査結果報告がまず披露されます。
調査の結果は、ここまで読み進んできた読者の脳裏に残る情報が、警察目線で説明されます。
もちろんここでは真実は解明されません。
警察は11人目の存在を疑いますが、それを証明する証拠は発見されません。
事件は、警察もお手上げの迷宮入りとなってしまいます。
そして、驚きの最終エピローグ。
これはある漁師が、海に漂流していたボトルに入った手紙を発見したことで、事件の全容が解明されるという展開。
この手紙を書いたのはもちろん真犯人自身というわけです。
真犯人は、10人の招待客の中のいったい誰だったのか。
この結末を読めば、読者は、なるほど犯人は、結局この人物しか有り得なかったではないかという納得感を得ること間違いなし。
しかし、読み進めていく段階では、この結末を予測できる読者はまずいなかっただろうと思います。
これこそ、ミステリーの書き手としての、アガサ・クリスティの面目躍如たる筆力のなせる業。
この結末は、まずは本作のあまりに魅力的すぎる設定を思い付いた後で、それを成立させるための論理構成やトリックを練り上げたものだと個人的には推察します。
考えてみれば本作は、犯人による完全犯罪が、最終的に成立してしまうというミステリーになっています。
名探偵が難事件を解決するというミステリーは星の数ほどありますが、最終的に完全犯罪が成立して終わるという構成のミステリーは、個人的には本作以外に思い浮かびません。
そして、登場する人物のすべてが探偵役であり、そして同時に被害者でもあるという前代未聞のミステリーでもありました。
作者の「オリエント急行殺人事件」を読んだ時にも思ったのは、こんな究極のミステリーを創造してしまったら、もうこれを超える作品を生み出すことは不可能だろうということ。
それくらい、本作はミステリーとして完成されており、そのオリジナリティが抜きんでた傑作だと断言できます。
日本の新本格ミステリーの旗手・綾辻行人の「十角館の殺人」を代表とする「館」モノや、市川憂人の「ジェリーフィッシュは凍らない」、米澤穂信の「インシテミル」など、本作にリスペクトとオマージュを捧げたクローズド・サークルものの話題作は、日本ミステリー界にも多数存在します。
それらは今後順次読み進めて参りますが、果たして、この本家本元にどれくらい肉薄出来るかが興味の中心になりますね。
その意味では、本作はいまや、ミステリーのクオリティ評価を図るモノサシにさえなっていると考えても過言ではないかもしれません。
本作は、閉ざされた系の中で、しかも登場人物も限定されており、舞台劇としてはもってこいの素材です。
クリスティは、実際に上演された舞台のシナリオも、自ら執筆しています。
しかし、戯曲版の「そして誰もいなくなった」では、完全犯罪成立のラストではまずかろうと判断されたのか、そのラストは変更されています。
僕が、学生時代に見たモノクロ版の映画は、このシナリオをもとに作られていました。
確かに映画的な後味の良さを残したという点では、これもありかという気はしますが、やはり改めて原作を読んでみますと、ミステリーとしての完成度は、オリジナル小説の方が高いと評価する次第。
この作品の映像化は、この後にも手を変え品を変え、リメイクされ続けていますので、是非原作小説と比較してみることをお勧めいたします。
ちなみに、本作読了後、この文章の参考にするために、Wikipediaを確認したのですが、ちょっとビックリ。
なんと、完全にネタバレ全開で紹介されているんですね。
今から、もう85年も前の作品ですから、時効だろうということなのでしょうが、まだまだ本作に触れていないという方も世の中には大勢いるでしょう。
興味のある方は、くれぐれもWiki チェックを先にしないことをお勧めいたします。
是非とも、1939年にこのミステリーが世に出で、初めてこの小説を読むことになるファンのつもりになって読んでみてください。
今では、有名になりすぎて、当たり前のものとして刷り込まれてしまっている「クローズド・サークル系見立て殺人」のあるあるは、すべて脳内削除して、新鮮な気持ちで読んでみれば、公表当時において、本作がどれだけ斬新なアイデアに満ちていたかがわかると思います。
もしかすると、もう100年もすれば、本作を読んだことがないという人が、この地球上から、「そして誰もいなくなった」・・・