クラシック・ミステリーのファンとしては、クロフツの作品を読んでいないのは問題だなと思い、図書館に出かけました。
クロフツといえば、真っ先に浮かぶのが、処女作である「樽」。
これを探しに行きましたが、残念ながらおいていなかったので書棚に並んでいる本から選んだのが本作。
1934年に発表された、イギリスの本格ミステリーです。
タイトルからすると、西村京太郎に繋がるトラベル・ミステリーの元祖的作品かと思いきや、本作は倒叙ミステリーの草分け的傑作でした。
「クロイドン発12時30分」は、列車ではなく、当時旅の足として脚光を浴び始めていた飛行機の便です。
クロイドン空港は、かつてはロンドンにあった国際空港。
第二次世界大戦、ロンドンの航空需要が増加すると、この空港は施設の拡張が困難だったために、ヒースロー空港など新しい空港が建設され、1959年には閉鎖されています。
この空港から飛行機が向かったのは、パリのル・ブルジェ空港。
この空港はチャールズ・リンドバーグが単独無着陸で大西洋横断飛行を成功させ、スピリット・オブ・セントルイス号でこの空港に着陸したことで、航空史においては有名な空港です。
飛行機が空港に到着すると、飛行中に老人の乗客が死んでいるのが発見されます。
死因は、検死の結果、青酸カリによるものと判明。
果たして、老人の死は事故か、自殺か、他殺か。
これがミステリーの冒頭の第一章ですが、倒叙ミステリーは、ここからが通常のミステリーとはちょっと様子が違ってきます。
第二章から物語の主人公になるのが、名探偵でもなく、その助手のワトスン君でもなく、犯人自身ということになります。
ですから、倒叙ミステリーにおいては、ネタバレもへったくれもありません。
はじめから「フーダニット(Who done it?)」と「ワイダニット(Why done it?」を詰めていく面白さは放棄してしまっているわけです。
通常ミステリーであれば、名探偵の謎解きのクライマックスで明かされるべき真相が、倒叙ミステリーでは、まず最初に提示されてしまうわけです。
本作が何といっても見事なのは、この犯罪者の心理が、実に克明でリアルに描写されること。
通常のミステリーであれば、物語の最後の最後で、名探偵の真相解明を聞きながら想像するしかない犯人の心の機微が、倒叙ミステリーでは、物語の最初から犯人の目線で語られているわけです。
本格ミステリーにおいては、当然謎の真相解明が物語の主軸になってきます。
しかし、最初から謎が分かってしまっている倒叙ミステリーの面白さは、なんといっても、果たしてこの犯罪が成立するか? それともしないのか?
そのサスペンスになってくるといえます。
当然、物語の構成も、通常のミステリーとは違ってきます。
アンドリュー老人の飛行機内での不審死から端を発するこのミステリーは、次の章からは、犯人である実業家チャーリーが、工場の倒産を回避するために、叔父からの遺産目当てに、青酸カリでの毒殺を計画し、実行するまでの経緯が詳細に描かれます。
チャーリーの計画は、自分に容疑がかからないことにばかり熱心で、事故や自殺に見せかける工夫がもう少しないものかと気にはなりましたが、それでも、この事件を審議する陪審員たちは、アンドリュー老人の発作的自殺という判断を下し、事件はチャーリーの目論見通り成功したかに見えます。
さあここで、登場するのがクロフツのミステリー小説ではおなじみのジョセフ・フレンチ警部。
彼の小説では、数々の難事件を解決してきた名警部です。
中学生の頃、藤原宰太郎氏の「推理クイズ」シリーズを愛読していたミステリー・マニアとしては、この名前だけは、名探偵ポワロやフィロ・バンス、そしてドルリー・レーンらの名と共にしっかりと頭にインプットされていました。
これが小説のちょうどまんなかあたり。
倒叙ミステリーといえば「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」が頭に浮かびますが、彼らが登場するのはほぼ殺人事件が起こった直後。
フレンチ警部の登場は、それに比べるとかなり遅い気もしますが、いってみれば、それだけ犯罪のディテールがしっかりと描かれているといえばそういうことでしょう。
フレンチ警部は、他殺の線を捨てきれないロンドン警察に呼ばれて、この事件の再調査に当たります。
彼の優秀さを肌で感じたチャーリーは、焦りと恐怖を隠し切れません。
そこに、犯人チャーリーにとっては、思いがけない事態が発生します。
なんと、アンドリュー老人の執事が、チャーリーが犯人であることを裏付ける決定的なシーンを見たと脅迫してきたのです。
チャーリーは悩んだ挙句、第二の殺人を決意します。
これが、個人的感想を言わせてもらえば、殺人方法としては少々雑でした。
それは、夜中に執事を呼び出し、彼を用意した鉛管で殴り殺し、それを錘にして、湖の真ん中に沈めてしまうというもの。
そして、屋敷の中に侵入し、引き出しにたまたま入っていた現金を奪い、金目当ての強盗か、執事自身がそれを奪って逐電(とんずらの意味)したと偽装します。
イギリスの本格ミステリーとしては、あまりスマートな犯行ではないと思ってしまうのですが、犯人のチャーリーはなぜか自信たっぷり。
一度殺人を実行したものにとって、二度目の殺人のハードルはかくも低くなるものなのか。
そして大胆になるものなのか。
このあたりが、犯罪者心理としてリアルなのかどうかは、個人的には殺人を犯した経験がないのでちょっとわかりません。
しかし、二度目の犯行は、フレンチ警部が殺人であることをしっかり見抜き、湖が捜索され執事の死体が発見されることになります。
それでもなぜか強気のチャーリーなのですが、ついに二人の刑事が逮捕状をもって、チャーリーの前にやってきます。
二人を手にかけた殺人犯チャーリーは、逮捕され警察に連行されていきます
場面は再び法廷へ。
ここからは、チャーリーの殺人を立件しようとする検察側と、「疑わしきは罰せず」を盾に、彼の無罪を主張する弁護側との、丁々発止の法廷決戦になっていきます。
これもなかなかリアルでしたね。
こちらはもう真相は知っているわけですから、読みどころは、謎解きではありません。
面白いのは、陪審員に対してチャーリーの無罪を印象付けようとする弁護側の詭弁スレスレの弁護テクニック。
これに聞き入る陪審員たちの表情を観察しながら一喜一憂しているチャーリーは滑稽でさえありました。
むむ。
まさかこの高等弁論テクニックによって、チャーリーは、再び無罪になってしまうのか?
一瞬そんなラストが脳裏に浮かんでしまいましたが、ご心配なく。
最後は、これを見事にひっくり返す検察側の最終弁論により、今度は陪審員たちも、殺人者チャーリーに対して「ギルティ」を突きつけます。
そして、大円団には、ふたたび千両役者フレンチ警部の登場です。
検察側の論拠となる証言や証拠は、すべてこの事件を、最初から殺人事件と踏んで捜査を指揮したフレンチ警部の尽力によるもの。
法廷では明かされなかったすべての伏線が、フレンチ警部の解説によって回収されていきます。
そのテーブルには、チャーリーの弁護に当たっていた弁護士もいて、「なるほど。これは我々がどうあがいても勝てませんな。」などと笑っているあたりは、法治国家の元祖イギリスらしいといえばイギリスらしいところ。
ミステリー小説のラストを紹介してしまうのは反則だろうと思われるかもしれませんが、それがけっしてネタバレにはならないのが倒叙ミステリーです。
謎の解明そのものよりも、どうやって完璧(と犯人が思っている)と思われた犯罪が、名探偵の活躍により、綻びていくのかを楽しむのが倒叙ミステリーの醍醐味です。
それにより、右往左往させられる犯人の痛々しいまでの心理描写にこそ、倒叙ミステリーを楽しむ真髄なのではと思う次第。
コロンボや古畑に、毎回してやられるゲスト・スターたちの、地団駄踏んだ表情の数々を思い起こしながら、本作を読むのもまた一興かと思います。
倒叙ミステリーでは、犯人は初めからクロイドン!
**イラストは全て生成AIにより作成
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