高峰秀子という名前は、この人の映画をまだ一本も見ていない小学生の頃から知っていました。
我が親戚たちの話の中にちょくちょく出て来ていたんですね。
もちろん、親戚たちの中に、この天下の大女優との知り合いがいたわけではありません。
父方の親戚たちは7人兄妹。
けっこう仲が良く、僕が小学生の頃には、盆暮れになるとそれぞれの家族を連れて集まりワイワイと宴会をやっていました。
兄妹の中にかなり美形の叔母がいて、彼女は若かりし頃、映画女優を目指していたとのこと。
叔父たちが、それを酔った勢いでイジると、彼女が決まって話し出すのが、長女のヤスコ姉さんの話。
兄妹たちが、口をそろえてこう言っていたのを覚えています。
「ヤスコ姉さんは確かに綺麗だった。高峰秀子みたいだった。」
残念ながら、ヤスコ姉さんは、37歳の若さで亡くなっています。
まさに美人薄命。
僕はまだその時三歳ですから、生きているヤスコ叔母さんを見たことはありません。
叔母のナマの面影のかわりに、高峰秀子という名前だけがインプットされていたわけです。
映画雑誌などを読むようになってから、この日本の映画界を代表する大女優の全盛期の美貌と、名前はしっかりと重なりましたが、この女優をハッキリと意識するようになったのは、名画座で見た一本の映画でした。
その映画は、1955年製作の成瀬巳喜男監督作品「浮雲」。
のっぴきならない男と女の恋の道行を、哀感たっぷりに描いた日本映画不朽の名作です。
当時大学生だった僕は、これ一本で女優高峰秀子の魅力にノックアウトされてしまいました。
そこで、彼女の映画人生を学習するつもりで手に取ったのが「わたしの渡世日記 上下巻」。
1976年に出された彼女自身による自伝なのですが、これがエッセイとしてもなかなかの優れもの。
映画女優を引退するつもりだった彼女が、半世紀にもわたる映画女優人生を総括するつもりで書いた渾身の半生記でした。(実際彼女の最後の映画となったのは1979年の「衝動殺人 息子よ」)
とにかく、グイグイと引き込まれるように読み終えたのですが、この美人女優は、筆までもがこれほど達者なのかと恐れ入ったた次第。
天は時には、二物でも三物でも与えてしまうもののようです。
これが、スターの自伝にはよくあるゴースト・ライターによるものではないことは、一読してわかりました。
それくらい、独特で、誰も真似できない魅力的な文体なんですね。
以降、彼女の珠玉のエッセイは、彼女の出演映画を追いかけるのと同時並行で読んできました。
ちなみに、女優のエッセイには秀逸なものがいくつかあります。
岸恵子の「巴里の空は茜色」、沢村貞子の「わたしの台所」は面白いエッセイでした。
二人とも筆達者で、これもしっかりと自分の筆で書いてあるのが分かります。
実は、我がiPadには、高峰秀子の未読のエッセイがまだ数冊眠っています。
今回は、その中の一冊を引っ張り出してきたわけですが、考えてみれば2024年は、高峰秀子生誕100年にあたります。
ネットを調べてみると、それを記念したプロジェクトも立ち上がっているようで、出演作の上映会や展覧会なども開催されているようです。
本作が、上梓されたのは2005年。
70代の「老婆」(自分でそう書いています)になった彼女の日常が、いつもの飾らない文章で生き生きと描かれています。
今回まな板に乗っけられたのは、そのタイトルからもわかるように、彼女の知古の友人たち。
まず驚くのは彼女の人間観察の鋭さです。
彼女の観察眼は、的確に相手の本質をとらえ、長所も短所もひっくるめて、自分のキャラクターで包み込んでしまいます。
彼女は誰に対しても正直であろうとするので、その筆は時に辛辣であり、ドライでもあるのですが、そこには常に、温かみとユーモアが溢れているので、読者を飽きさせません。
とにかく登場する人物たちは、誰もがその道で一流の人たちばかり。
クラシック映画ファンとしては、たまりません。
登場する「にんげん」たちは、小津安二郎、黒澤明、木下恵介、北野たけし、佐藤栄作夫人、美智子妃殿下、石井ふく子、淡谷のり子・・・などなど。
登場人物たちの多くは、「わたしの渡世日記」でも取り上げられていた人々ですが、エピソードはみなそれ以降の新ネタばかりでした。
彼女の住所録にのっていた人物たちとの友好関係は、それ以降も概ね良好に続いていたことが伺えてニンマリ。
もちろん彼女の夫である松山善三氏も「夫・ドッコイ」としてたびたび登場。
これだけの人物がズラリ並ぶと、Wiki からではわからない、その人物の意外な側面も楽しめて、本書の歴史的価値もちょっと見逃せません。
もちろん、有名人ばかりではありません。
いきつけの寿司屋の職人から、バンコックの友人といった市井の友人たちまでもが、彼女のまな板の上で生き生きと呼吸をしています。
ヤスコ叔母さんは、高峰秀子より二つ年下でした。
高峰秀子出演の映画や、エッセイを追いかけていくうちに、この美人の誉れ高かった叔母の写真をどうしても確認してみたくなった僕は、簡易スキャナーを持参して、後に従弟の家に押し掛けることになります。
三人の男の子の母になった叔母の生前の写真を、長男である従弟は大切に保管していました。
写真を見る限り、確かに叔母は美人でしたね。
高峰秀子に似ているかといわれると個人的には微妙でしたが、叔父や叔母たちの気持ちもわからないではありません。
高峰秀子という女優は、稀有な女優で、映画によっていろいろな役を見事に演じ分けられた人です。
映画によっては、まるで印象が違うということもしばしば。
もしかしたら、まだ見ていない彼女の出演作品の中に、ヤスコ叔母さんの顔をした彼女がいるかもしれません。
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