知念実希人氏の「硝子の塔の殺人」の中には、ストーリーに絡めて、古今東西の実在のミステリー小説のタイトルがふんだんに登場します。
知念氏のミステリーへの造詣の深さが伝わってくる作品で、この読書レビューはすでに書きました。
そこに、自分への忘備録のつもりで、小説内に登場するミステリー小説のタイトルをすべて書き出しています。
玉石混合のあまたあるミステリー小説の中から、本当に面白い作品をチョイスするのは大変な作業。
残り人生も少ないので、読書時間は大切にしたいところです。
これを参考にすれば、ミステリー史にその名を残す有名どころはフォローできるなと思ったのが本作を手に取った理由です。
\その知念セレクトの中にあったのがこの一冊。
一応、ミステリー・ファンの端くれですので、このタイトルだけは聞いたことがありましたが、タイトルが直接過ぎてひねりも何もないなという理由だけで、今までパスしていた記憶です。
しかし、どうやら本作は、ミステリーの歴史の上では、かなり重要なポジションを占める画期的な作品でした。
ではなにが、画期的なのか?
それは、このミステリーのスタイルそのものにあります。
本作は、本格推理小説を装いながら、実はその概念に挑戦する「アンチ・ミステリー小説」としての一面を持っているんですね。
1929年の作品としては非常に実験的で、当時の読者はみんなビックリしたかもしれません。
物語はこうです。
「犯罪研究会」の面々は、小説家、劇作家、刑事弁護士といった、犯罪学には精通した名士たち。
この会には、ロンドン警視庁が解決できない事件が持ち込まれ、メンバー6人によってそれが改めて検証され、精査されるということになります。
そして、警視庁の首席警部によって、この研究会の議論のテーブルに乗せられたのが毒入りチョコレート事件です。
被害者は、新製品の触れ込みのチョコレートを試食した夫婦です。
チョコレートには、毒が仕込まれていたため夫人は死亡。夫は一命をとりとめます。
しかし、そのチョコレートは実際は知人に送られたもので、夫婦はそれを譲り受けただけでした。
事件のあらましはたったこれだけです。
「犯罪研究会」の会長は、メンバーにこう宣言します。
各人がそれぞれの推論に基づき本件を調査をした後、そこから導き出された結果を、この集会にて順次一人ずつ発表していくものとする。
つまり、本作がそれまでのミステリーと決定的に違うのは、事件のあらましが語られた後は、いきなり6人のメンバーによる解決編になるという展開です。
メンバーはそれぞれが、警察から提示された情報だけではなく、自らの推論に基づき、自らの足で証拠や証言を集め、極めて論理的に犯人像と真相に迫っていきます
困ってしまうのは、そのどれもがもっともらしいんですね。
もちろん、メンバーたちが集めた新情報は、事件の貴重なデータとして、彼らの推理のために蓄積されていきます。
面白いのは、メンバーそれぞれがたどり着いた結果が、結局6人とも違うということ。
同じ情報が共有されているにもかかわらず、導かれる結果が六人六様なんですね。
本作はこの多様な解決の説明が、作品の大半を占めるという構成となります。
通常の推理小説は、与えられた情報や伏線をすべて回収して、最後には唯一無二の究極の真実にたどり着くというのが王道です。
そして、その真相解明の瞬間のカタルシスを楽しむというのが基本的なミステリーの魅力であったわけです。
しかし、本作はここに対して、明らかに反旗を翻します。
つまり、ミステリー小説であるにもかかわらず、本作ではその真相は一つではないだろうといってくるわけです。
本作が「アンチ・ミステリー」と云われる由縁ですね。
本作は「多重解決ミステリー」の草分け的作品という意味で、ミステリー史における革新的な作品と称賛されています。
6人のメンバーは、自分のたどり着いた結論に皆自信満々です。
自分のゲットした新情報を駆使して、誰もがそれぞれに真犯人を指摘します。
その推理の明快さに、メンバーたちは一度は拍手を送りますが、次の推理が登場すると空気は一転。
これも有り得るぞとなり、議論は次第にカオス状態になっていきます。
この盛り上がってひっくり返るというお決まりの展開が、なんともコメディ的なんですね。
本作がコメディに見えた瞬間、突然昔見たある映画が脳裏にフラッシュバックしました。
1976年公開のミステリーのパロディ映画「名探偵登場」です。
脚本は、稀代の劇作家ニール・サイモン。
富豪の屋敷に招待された世界各国の名探偵が、館の中で起こる殺人事件を、それぞれが推理していくというパロディ満載のコメディ映画です。
屋敷の当主の仕掛けた殺人事件に対して、名探偵たちがそれぞれの推理を披露していくラストの展開が、まさに本作の秀逸なパロディになっているようでした。
まさに、多重解決ミステリーを、そのままコメディにしたのが「名探偵登場」です。
つまり作者は、ミステリーの推理において唯一無二の絶対なんて有り得ないでしょうと、ミステリーの暗黙のルールに慣れきってしまっている読者たちにガツンと一発かましてくるわけです。
同じ情報からでも、推理する道筋が違えば、まったく違う結論になることもあるよと言ってくるわけです。
推理作家の名調子に乗せられて、ドラマチックな真実にミスリードされていないか問われると、そんなことないと突っ張る自信はありません。
真実には多様性があって然るべき。
そう面と向かって突きつけられてしまうと、なにやら哲学的になってきて、僕のような単純なミステリー・ファンはどうしても面食らってしまいます。
つまり、真相解明の手段としてではなく、推理の展開そのものがストーリーの中心となってくるのが多重解決ミステリーなんですね。
これにより、展開される推理のプロセスそのものが、このジャンルのミステリーでは重要な要素になってきます。
下手をすると、これだけいろいろな推理が成立するなら、読者もちょっと自分の頭を回転させて、自分なりの解決方法を考えてみてよと言われているような気にもなります。
そうなれば、ストーリーが読者の参加によって拡張される可能性だってあるわけです。
もうそうなってくると、本作は推理小説というよりも、推理ゲーム小説というべきなのかもしれません。
王道ミステリに慣れ親しんでいる身としては、本作のラストは、おもいきり作者から突き放された印象です。
え? 結局真相は明らかにならないの?
そんなブッ飛んだミステリーが、一世紀も前にあったとは驚くばかり。
ちょっと斬新すぎますね。
後はあなたが考えてといわれているのか、そうではなく、ちゃんと読めば真相はわかるといわれているのか。
恥ずかしながら、これは一読しただけではわかりませんでした。
さりとて、再読するパワーは電池切れです。
どなたか理解されている方がいらしたらお教えてください。Wiki では、結論はわかりませんでした。
確かに、こう突き放された方が、余韻が残ることは事実。
しかし、モヤモヤは消えないというのが正直なところです。
考えてみると、今まで見た余韻の残る映画のほとんどは、最後にそのメッセージを明示しない作品ばかりでした。
この映画でいいたいのはこうだ! と押し付けられるより、後は自分で考えてと突き放される方が、なぜかジワーッと胸に残る作品が多かったことは事実。
さあではそれが、ミステリー小説にも通用するのか。
僕のような単純なミステリー・ファンとしては、ミステリーにはどうしても真相究明のカタルシスを求めてしまいがちですが、ミステリーは、せっかくいろいろな可能性を孕んだ知的エンターテイメントなのだから、もっと複雑な多様性も楽しめるようになりましょうと言われている気もします。
まさか推理小説を読んで、最後は自分で考えろと言われるとは思いませんでしたが、確かに情報がありすぎて、どれがシロかクロかはっきりしないのなら、最後は自分で判断するしかなさそうです。
なるほど、こういう推理小説もあったかというのが、本作を読んだ正直な感想です。
先月行われた兵庫県知事選は、日本中で盛り上がりましたが、当事者の兵庫県民たちは、玉石混交のネット情報の中から、自分の頭でシロクロを判断して、あの投票行動に繋げました。
NHK党の立花孝司氏の流した情報の真実相当性を、兵庫県民がどう判断したか。
間違いなく言える事は、マスコミからの恣意的な刷り込みを拒否した兵庫県民は、自ら情報にアクセスし、自分の頭で考えることを選択したと言うことです。
立花氏の情報が、毒入りチョコレートだったかどうかは、今のところ不明です。
コメント