木下恵介監督、円熟期の代表作です。
まあ、それもそうなんですが、本作はやはり個人的には、御贔屓女優・高峰秀子を堪能する一本ということになります。
死ぬまでに、彼女の出演作品で見れるものは全部見ると決めています。
そのつもりでBSで彼女の出演作が放映されれば、まめに録画だけはしていました。
本作は、そんな録画在庫作品の中の未見の一本です。
なぜ未見だったかといえば、やはり2時間42分という上映時間ゆえ。
映画は、二部構成になっていましたから、実際劇場公開されたときは、インターミッションが入ったのではないでしょうか。
しかし、そんな上映時間でありながらも、本作は大ヒットを記録。
「二十四の瞳」と双璧をなす木下監督の代表作となっています。
ちょっとすごいなと思うのは、この映画が製作されるようになった経緯です。
この時期、木下監督が次回作として用意していたのは、後に制作されることになる「楢山節考」でした。
しかし、松竹のお偉いさまたちが、この作品では暗すぎると難色を示していたそうです。
とはいっても、当時すでに黒澤明と並ぶ日本映画界屈指のヒットメーカーであった木下恵介の企画を無下に却下は出来ません。
そこで松竹側が木下監督に出してきた条件はこういうこと。
「その作品をやる前に、一本大ヒット映画を作ってくれればOKを出す。」
つまりは、誰もが感動し、誰もが涙を流す、これぞ木下恵介の極めつけという映画を作って会社を潤してくれたら、その次はどんなにコケようと、好きな作品を一本撮らせてあげようというわけです。
もちろんそういう企画なら、松竹も製作費の出し惜しみはしません。
そこで、木下監督が選んだのが本作の企画です。
要するにこういうこと。本作は、木下恵介が、大ヒット映画を作ってやろうじゃないのと言う明確な目的のもとに作られた映画であるということです。
つまりそれは、この人は観客がどういう映画を望んでいて、それをどういう風に作ればいいのかがわかっていたと言うこと。
クリエーターとしての矜持と、職業映画作家としての腕前を、作品ごとに使い分けられると言うのがこの監督のまさに面目躍如。やはりこの監督はスゴいわけです。
本作の主演は佐田啓二と高峰秀子。有名どころでは、田村高廣や中村嘉葎雄も出演しています。
撮影は 全編カラー映像で、全国各地の灯台でロケーション撮影を敢行。
昭和7年から昭和32年までの25年間の日本を、灯台守夫婦の視点から描くというボリューム満点の一大昭和クロニクルです。
高峰秀子は、撮影当時33歳。
その彼女が新婚ほやほやの娘時代から、白髪も混じる50代の中年までを見事に演じています。
普通美人女優の皆様は、美しい顔に老醜メイクを施すのは嫌がるものでしょうし、それをしたとしてもあまり自然には見えないもの。
しかし、この人のスゴイところは、それをほぼ衣装と佇まいと演技力だけで表現してしまうことです。
そして、当時の日本ならどこにでもいた、野暮ったいもんぺ割烹着オバサンの衣装のままで、十分に女優高峰秀子の魅力を放っている点です。
当時の日本女優で、この25年にわたる年代記を演じ分けられる女優は、この人しかいないという木下監督からの絶大なる信頼があったことは想像に難くありません。
夫を演じた佐田啓二は当時の映画界を代表するイケメン俳優。
中井貴一の実の父親であることはご承知でしょうが、この人の場合はイケメンである分、老けメイクが目立ってしまい中年期になってからの演技が妙に芝居っぽく見えてしまいました。
演技派の高峰秀子が相手役だったのが少々辛いところ。
けれど、なにかうれしいことがあると、すぐに「万歳!」と叫んで外に駆け出す青年時代の演技は、逆に彼が二枚目であるがゆえに、なかなかお茶目でほっこり。
「おいら岬の灯台守は妻と二人で沖行く船の~」
これは、当時大ヒットした映画と同名の主題歌です
歌ったのは若山彰で、作詞作曲は、木下恵介の実弟・木下忠司。
灯台守といえば、この歌と映画のヒットの影響で、過酷なブラック職業の代名詞になってしまいました。
そこでちょっと、映画には描かれない背景も含めて、灯台守と言う職業の推移を追っかけてみることにします。
まず昭和初期のおはなし。
戦前は、灯台は逓信省灯台局が管轄していました。
逓信省は、明治時代の日本に関して、郵便、電信、電話、および通信に関する行政を担当していた重要な政府機関です。
つまり、戦前の日本では、灯台守はれっきとした公務員。人事管理はそれぞれの管轄する役所が行っていたんですね。転勤も同様に、管轄する機関が決定していたわけです。
昭和初期は世界恐慌の影響で経済が低迷する一方、日本の海上貿易は拡大を続けており、灯台の整備が重要視されました。
灯台の光源は従来は石油ランプでしたが、この時代から電化へ移行し始め、光度は向上。
映画でも、タイトルバックでは電気稼働の光源が象徴的にぐるぐる回っていました。
霧信号(霧笛)や無線方位信号所の設置が進み、悪天候時の安全性が向上。
1936年には「海上衝突予防法」が改正され、国際基準に沿った灯火管理が強化されました。
ちなみに、映画の中では何度か言及されていましたが、わが国初の西洋式灯台が作られたのは明治元年のこと。映画にも登場する神奈川県の観音崎灯台です。
太平洋戦争開戦後、灯台は政府から軍の管理下に移行して、民間船舶の航行情報が統制されました。
敵軍の艦隊移動を妨げるため、一部の灯台が意図的に消灯されることもありました。
戦争が激化してくると、アメリカ軍の空襲や艦砲射撃により、日本本土や占領地の灯台の約60%が損壊したとされます。
映画の中でも、灯台守の殉職者のテロップが、全国各地の灯台を空撮したシーンに被ります。
灯台守受難の時代です。
そして、日本の敗戦に伴い、台湾や南洋諸島の灯台は接収され、国際航路上の安全管理網が分断されました。
戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の指示で、主要航路の灯台優先復旧が進めらることになります。
1948年には海上保安庁が発足し、灯台管理が軍から民間機関に移管されました。
1952年のサンフランシスコ講和条約発効後、国際海事機関(IMO)の基準に準拠した灯台整備が再開。
レーダーやロラン(電波航法)の導入により、灯台は電子的補助システムの一部として再定義されることになります。
1950年代の高度経済成長期には、東京湾や瀬戸内海の工業地帯向け航路で大型灯台が増設され、タンカーや貨物船の安全確保に大きく貢献。
1955年には戦前の水準を上回る約3,000基の灯台が稼働し、「海の安全」が経済復興の基盤と位置付けらていくことになります。
高度成長期になると、灯台の自動化・無人化の実験開始され、1954年には初の無人灯台が長崎に設置。
制度上でも、海上保安庁法(1948年)制定で、灯台管理が国家の責務として明確化されます。
国際的な海上安全条約(SOLAS)への対応が義務付けられ、基準の統一化が進みました。
そういうわけで、灯台は「軍事から民生へ」「国内から国際へ」という戦後日本の転換を象徴する存在になっていくわけです。
と言うわけで、映画に描かれていたのはここまで。
ちなみに、1960年代から灯台の自動化が進み、手動での点灯やメンテナンス作業が不要になりました。
特に、自動点灯装置や太陽光発電システムの導入により、灯台は24時間稼働が可能になりました
無線技術や遠隔監視技術の進化により、灯台の状態を遠隔地から監視・制御できるようになるわけです。
これにより、灯台守が現地に常駐する必要がなくなりました。
2006年には日本国内の有人灯台がすべて無人化され、灯台守という職業は事実上廃止。
これにより灯台守と言う職業は、昭和の歴史の1ページとして刻まれることになったわけです。
現在は専門業者や海上保安庁が定期的にメンテナンスを行っているとのこと。
映画の中には、過酷な僻地勤務の重圧に耐えかねて、精神に異常をきたす母親も登場するのですが、木下監督の名パートナーである撮影監督・楠田浩之のカメラがとらえた日本の四季の風景があまりに見事すぎて、人間ドラマのシビアな部分があまり伝わってこないのが映画を見終わった後の正直な感想でした。
もちろん灯台守夫婦は、過酷な運命にさらされはするのですが、これくらいのことだったら、日本全国どこの夫婦にも普通にあるよなと思ってしまった次第。この時代ならば、なおさらでしょう。
我が祖母も、映画の中の家族と同様、可愛がっていた次女(つまり僕のおばさん)を結核で亡くしましたが、たくましく生きていました。
つまり本作の脚本を手掛けた木下恵介監督の意図も、艱難辛苦の人生を歩む夫婦への哀れみや同情よりは、むしろ共感を掴むことにあると踏みました。
つまり、この映画に描かれた家族は、この時代を生きた夫婦の特殊例ではなく、むしろ標準型だったように思えるわけです。
それが故に、この映画は、戦後10年を経て、その時代を生きてきた人々の心を掴んで、大ヒットになったわけです。もちろん、木下恵介監督は、脚本の執筆にあたっては、これを完全に読みきっていたと言うわけです。
実は、映画の主旨とは大いに反しますが、昭和の時代の灯台守の生活が、今の自分の価値観から考えると、ちょっと羨ましいとさえ思ってしまうところがあります。
これは2025年に、この昭和の時代を振り返ると言う視線であると言うことを踏まえて聞いてほしいと思いますが、個人的には、この灯台守の生活は、決して悪くはないと思えてしまうんですね。
まず、普通に考えて身体的健康が得られる点。
灯台は海岸や離島など自然豊かな場所に設置され、大気汚染や騒音の少ない環境であることは間違いありません。
特に戦前~戦後復興期の都市部は衛生環境が悪く、伝染病が蔓延しがちだったが、地方の灯台周辺では清浇な空気と水が得られます。
1930年代の東京では赤痢や結核の罹患率が高かったわけですが、灯台守の死亡記録には呼吸器疾患の少なさが指摘されていたそうです(海上保安庁資料)。
それから、精神的な安定も得られませんかね。
規則正しい灯台業務(灯火管理・気象観測)と自然との触れ合いが、ストレスの少ない生活リズムを形成しそうです。戦時中の混乱期でも、都会に比べれば、灯台守家族は比較的平穏な日常を維持できた例が案外多い気がします。
映画では、いちいちはハードなシーンを選びすぎではなかろうか。
見守るのが基本業務なわけですから、その気になれば、案外読書できる時間は確保できそうではないですか。
当然家族の会話の時間も、通常の都会生活よりは普通に取れそうです。
実は灯台守には家族を「助手」として雇用する制度がありました。
家族は無償で夫の仕事を手伝って当たり前の時代に、たとえ少なくとも賃金がいただけるのはありがたいこと。
映画でも高峰秀子はたびたび灯台に上がって夫の手伝いをしています。子供も灯火の燃料補給や鏡磨きを手伝うわけです。親子が共同で社会貢献する体験は、子供に責任感や自己肯定感を育くむ体験となりそう。
転勤ごとに異なる方言や文化に触れることで、地域多様性への適応力が身につくとも思うわけです。
柔軟なコミュニケーション能力が養われるわけです。
ものは考えようです。
そんなわけで、普通に考えて、この生活案外悪くなさそうな気がしますが、いかがでしょう。
とまあ、根がアマノジャクなものですから、「灯台守ライフも捨てたものではないだろう」仮説をおもいつくまま並べてみましたが、とにかくこの夫婦がけっして不幸には見えなかったというのが、映画を見た後の正直な感想。
特に映画のラストなどは、この灯台守の親子に対する、これ以上はないと思える木下恵介監督の大サービスだったような気がします。絵に描いたようなハッピーエンドでした。
残念ながら、灯台機能のオートマチック化で、灯台守という職業は消滅してしまいましたが、もしもまだこの職業が今でも存在して、その職に就くことが出来るなら、自分としては単身であることを根拠に、日本全国灯台行脚ライフを志願したいところ。
そして、もしもその願いが叶った暁には、ビデオカメラを新調して、仕事と並行しながら、灯台守系ユーチューバーとしてデビューします。絶対にネタには事欠かないはず。
この映画が作られてから3年後に生まれた僕も、今や前期高齢者。
この映画を公開当時に見た方々とは、なかなか同じ視線には立てないかもしれませんが、どんな見方をしようと、やはり名作には名作なりの重量感があります。
おかげで、こういった1つの家族を中心に置いた年代期が、日本人の感性を大いに刺激するという事は、本作を鑑賞したことで、しっかりと学習できました。
NHKの朝ドラが、どの時代の家族に焦点を当てようと、いまだに日本人の心をつかんで離さないという、その原点が、まさにこの映画にはあります。
高峰秀子えらい!
木下恵介えらい!
コメント