さあて、困りました。
読書系YouTuber の動画で興味を持った本でしたので、まずはミステリーのつもりで手に取ったのですが、読んでいくと、どうも様子がおかしい。これはミステリー?
どんなレビューを書くべきか、少々頭が混乱しております。
登場人物は、主人公のメリキャットという18歳の女の子。そしてその姉のコンスタンスという姉妹。
その家に同居している彼女たちの叔父のジュリアン。
そして、ある日の彼女たちの屋敷に居座ることになる従兄弟のチャールズ。
物語は、ほぼこの登場人物だけで描かれ、ここに街の住人たちが絡んでくるという展開。
読者にあらかじめ提供される情報は、他にもいたブラックウッド家の家族たちは、ある日の朝食の砒素入りの砂糖をかけたブルーベリーを食べて、みんな死んでいるということ。
一家の料理を仕切っていたコンスタンスが、第一の容疑者として逮捕されたけれど、裁判では証拠不十分で釈放されているということ。
叔父のジュリアンは、この事件の一連を手記にまとめているということ。
そして、この事件をきっかけに、家族は街の住人たちとは距離を取るようになり孤立しているということ。
なるほど、ここまでなら、ミステリーの導入としてはありでしょう。
ミステリー好きとしては、当然この先にある「意外な犯人」「アッと驚くどんでん返し」を期待して読み進めるのですが、物語はこちらの期待に反して、この家族を取り巻く不穏な空気をひたすら拡散していくのみ。
そこに、メリキャットの不安定な精神状態が微妙に絡んでいき、読み手を身構えさせます。
まず、このメリキャットが非常に怪しいわけです。
ミステリーの専門用語に「信頼できない語り手」というのがあります。
これは物語を進める際に、読者をミスリードする技法の一つ。語り手が精神疾患、記憶の欠落、偏見、または悪意によって情報を歪曲したり隠したりすることで、読者は真実と異なる情報を受け取らざるを得ないという仕掛けです。
上手に使えば、この技法により、読者に不安や疑念を抱かせ、物語のテーマを深化させる効果があります。
この小説の主人公はまさにこれに該当。
これは、経験上、秀逸な叙述トリックに多用される手法であることは判っているので、こちらとしては、まずはそこに目を光らせます。
この主人公はいったい何者?
それを疑いだすと、この本の表紙のルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を思わせるファンタジックな表紙も、作り手のミスリードだろうと疑い出してしまうわけです。
しかし、通常のミステリーのような展開を拒むように、物語は次第に街の人から孤立していく二人の姉妹の状況をたんたんと描いていくのみ。
そして、なんの真実も明らかにならないまま、登場人物たちすべての奥底に潜む悪意だけが物語を支配していきます。
近年の推理小説の新しいジャンルに「イヤミス」というのがあります。
これは、読んだ後に嫌な気持ちになるミステリーという意味。日本独自のミステリー・ジャンルです。
個人的にはあまり好きなジャンルではないのですが、日本では結構人気です。その代表的作家としては、湊かなえが有名ですね。
本作が発表された1962年当時には、もちろん「イヤミス」というジャンルは存在しなかったわけですが、今の視点でいえば、本作は間違いなくこのジャンルに分類されるかもしれません。
本作の作者シャーリィ・ジャクスンは「私は怪物と普通の人の境界線を書くのが好きだ」なんてことを言っていますので、今風に言えば、彼女は「イヤミスの女王」なんてことになるのかもしれません。
後には彼女の名前を冠した文学賞も出来たりしていますので、この分野のファンは日本だけでなく、世界中にも多くいたということでしょう。
しかし本作は、イヤミスというジャンルだけでは片づけられない、複雑な構造をしている点も見逃せません。
孤立した古城のような大邸宅、崩壊した家族の秘密、社会的排除が醸し出す不気味な雰囲気は、メアリー・シェリーやエドガー・アラン・ポー以来のゴシック・ホラーの伝統を継承。
主人公メリキャットの歪んだ心理描写や「毒殺事件」の暗喩は、人間の無意識に潜む暴力性を描く、ダークロマンティシズムの系譜にも連なります。
サスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコックの心理的ホラーの要素も本作は併せ持ちます。超自然的要素ではなく、「普通に見える日常」の裂け目から滲む不気味さ。
ヒッチコックが、本作を映像化したとしたら、砒素入りの砂糖にどんな演出をするか。
思わず、脳内シアターであれこれ映像化してしまいました。
本作には、差別に対する社会批判も寓話的に描いています。
村人たちからの迫害は、マイノリティ排除やスケープゴート現象を諷刺。集団心理による潜在的な暴力性も不気味に描いています。
本作におけるメリキャットの言動は多分に童話的です。彼女のどこか「魔女」的なキャラ設定は、明らかにグリム童話の暗黒面を想起させつつ、現代的な孤独へと接続させています。
現実と幻想の境界を意図的に曖昧にし、読者に解釈の余地を残す確信犯的手法は、ポストモダン・ゴシックへと続く系譜の先駆ともいえそう。
また、姉妹が最終的に築く「城塞化された生活」は、社会からの完全な離脱という点で、現代の「ひきこもり」現象を予見した描写とも言えます。
というわけで、本作はあらゆるカテゴリーを溶解させる「境界侵犯の文学」と言うのが個人的な感想。
正直、本作をミステリーといわれてしまうと首をひねらざるを得ませんが、どこか純文学に通じる、多層的なジャンル横断性こそが、本作がもっとも評価される理由なのかもしれません。
本作のように、物語をどこか寓話的に描かれると、「グリム童話」や「マザーグース」の伝承童話のように、それがなんのメタファになっているかを深読みしてみたくしてみたくなるもの。
本作が執筆された1960年代初頭のアメリカ社会が抱えていた緊張や矛盾を踏まえた上で、そのあたりを少々考察してみます。
まず孤立するブラックウッド家はなんのメタファか。 一家が村から隔絶され、疑念と憎悪の対象となる様子は、冷戦期の米国社会が抱えた「外部への脅威への恐怖」(共産主義、核戦争、異分子)を反映していると考えるのは不自然ではないと思います。そして、村人たちの根拠なき敵意は、1950年代に吹き荒れた赤狩りやマッカーシズムの残影を思わせます。
では、家族を破滅させた「毒」は、いったいなんのメタファか。これは社会の内部に潜む「見えない脅威」(スパイ、思想的浸食)のメタファとして解釈可能です。ジュリアン叔父の記憶の混乱は、過去のトラウマに囚われた社会の歴史認識の歪みを示唆しているかもしれません。
屋敷の火災に乗じて発生する町人たちの暴力も、この時代のアメリカで芽吹いてきた公民権運動やフェミニズムの台頭に対する保守層の反発とも大きく重なりそうそです。
そして、村の不満や不安を一身に受けるブラックウッド家は、公民権運動で迫害された黒人やマイノリティの境遇と重なることはいうまでもなく、作者シャーリィ・ジャクスンは、この差別の構造を「正常な社会」が生み出す暴力として描いています。
作者は、ブラックウッド家の「狂気」を強調することで、むしろ村人たちの「正常性」の欺瞞を暴いているとも言えます。1960年代アメリカが直面した冷戦パニック、人種差別、ジェンダー役割の変容は、この小説で「閉鎖的な共同体の病理」として寓話化されていことを、当時のアメリカの読者はどこかで感じ取っていたのかもしれません。
家の崩壊は、社会の脆弱性を暗示していることは確実。
作者は読者に対して「本当の怪物は誰か?」と終始問いかけているような気がします。
この作品は、個人と集団の関係性を問い直す、時代を超えた警鐘として機能していると考えれば、これは2025年の読者にも十分に訴えるメッセージを持ったミステリーといえるかもしれません。
ちょっと変わり種ではありますが・・
「ずっとお城で暮らしてる」あなたに一言申し上げます。
お気持ちは察しますが、ひきこもり生活は、どうかほどほどに。
こじらせると、そのうち誰かを殺したくなりますよ。
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