縄文オタクになってから早2年。
その縄文人たちが喋っていた言語が、日本語のルーツであることは想像に難くありません。
日本語が世界有数の難解な言語であると同時に、最も高度な言語であることを我々は承知しています。
では何故そうなったのか?
それは日本がそのロケーションの都合上、外来の要素を拒まずに受け入れつつ、自らのものと共存させ、融合させた結果だったと思われます。
文献を当たるうち、どうやら日本の文化は、同時代の世界の文化の進捗とは、かなり別ルートの足跡を示しているという理解は深まりつつあります。
そこで、改めて興味をもたげてきたのは、今現在我々が喋っている日本語のルーツです。
日本語と言う言語が、世界の言語でもトップクラスに難解で、多言語環境で育ってきた人から見れば、著しく習得が難しい言語である事は承知しています。
つまりそれは、日本語が、他のどの言語とも似ていないOne And Onlyの言語であることを物語っているわけです。
日本語のルーツが未だ解明されていない経緯については、主に以下の要因が挙げられます。
古代の文字の不在と記録の欠如
現在の日本人が当たり前のように文字を使っているのに対し、今から2000年以上前の弥生時代には、日本には独自の文字が存在しませんでした。
そのため、当時の言葉は形として残っておらず、系統を分析する手段がないと言うわけです。
歴史を伝える一般的な手段である「紙に文字を書いて記録する」方法がなかったため、現代の私たちは文字がない時代の日本の歴史や当時の日本語を分析する方法がないとされています。
日本語の特異性と構成要素の複雑さ
日本語は、世界に7000以上ある言語の中でも、かなり独自の発達を遂げてきたため、他の言語との共通点が非常に少ない言語です。
アメリカ国務省の外国語習得難易度ランキングでは、最も難しい言語の一つに分類されています。
日本語は大きく分けて、中国から伝来した漢字、西洋の言葉を表すカタカナ(本来は神聖な文字)、そして古来より日本に存在した和語の3つの異なる言語要素が組み合わさっています。
漢字とカタカナについては歴史的な経緯が判明していますが、和語の起源は未だに分かっていません。
有力な仮説の決定的な証拠不足と批判
日本語の起源については古くから様々な研究や議論が重ねられてきましたが、いずれの仮説も決定的な証拠には乏しい状況です。
中国語説**: 地理的に近く漢字の採用に大きな影響を受けましたが、中国語が日本に伝わったのは和語がある程度確立された後の1世紀頃で、文法的にも異なる点が非常に多いため、言語学上は系統関係がないとされています。
アルタイ語族説**: 文法構造、膠着語という性質、母音調和といった音声的特徴、Rで始まる言葉が少ない点など、日本語との類似性が指摘されてきました。
特に朝鮮語とは文法構造や語順が非常に似ています 。しかし、これらの特徴は世界の言語で広く見られるものであり、決定的な証明には至っておらず、現在ではアルタイ語族という分類自体の妥当性にも疑問が呈されています。
ドラヴィダ語族説**: インダス文明を築いたとされるドラヴィダ人が使用する言語で、特にタミル語との間に多くの共通語(約500)や膠着語という文法構造の類似性が主張されました。
しかし、類似点は生活や社会、自然に関する単語に限られ、植物や魚の名前などではほとんど類似せず、厳密性に欠ける単語比較が行われているとして学会から批判を受けています。
オーストロネシア語族説**: 縄文人が使用していた言語がこの語族に属していたとする説で、統計的な手法で類似関係が見られるとされ、特に稲作関連の言葉や母音体系に共通性が注目されています。
日ユ同祖論**: ヘブライ語と日本語で3000以上の共通単語や、神社に関する宗教的共通点、国歌「君が代」の歌詞をヘブライ語に翻訳すると意味が通じるなどの説があります。これは「偶然にしては出来すぎた共通点」として興味深くはありますが、言語学的な決定的な証拠としては認められていません。
混合言語説**: 北方からのシベリア集団と南方からのオーストロネシア集団が縄文時代に日本列島で出会い、混ざり合って独自に進化していったという説も唱えられています。これにより、どの語族とも明確に結びつかない理由が説明できる可能性が示唆されています。
日本の地理的要因と複数の集団の交流
日本列島がユーラシア大陸の東の端に位置していたため、古代にはそこからさらに東へ向かうことが難しく、日本に辿り着いた人々が留まるケースが多かったと考えられています。
北からのルート(中国北部、ロシア極東、朝鮮半島経由)と南からのルート(中国南部、台湾周辺経由)を通じて、異なる言語を持つ複数の集団が日本列島に存在し、互いに接触や交流を繰り返すことで徐々に和語が形成されていった可能性もあります。
複数の言語が混ざり合ったことと、文字がなかったことが、元々の言語を特定するのを非常に困難にしています。
また、中国文明の影響圏の端に位置していたため、和語が他の言語に侵略されず、独自の発展を遂げた可能性もあります。
このように、日本語は古代の文字記録の欠如、言語自体の特異な構造、そして様々な民族集団の交流という複雑な歴史的・地理的要因が絡み合い、そのルーツが現在もなお謎に包まれているというわけです。
こういった点を踏まえた上で、日本語の特異性と、日本列島における文化的融合の歴史の関連性を、人類学や歴史学の知見を考慮しながら考察してみます。
日本語の特異性と文化的融合の歴史
日本語の複雑で独特な性質は、日本列島という「終着点」であり「るつぼ」であった場所で、数千年にわたり多様な文化や人々が「拒むことなく、共存し、融合してきた」歴史の結果、育まれたものだと考えられます。これは単なる偶然ではなく、地理的条件と人々の選択が生み出した必然の帰結です。
1. 地理的「孤立」と文化的「交流」のパラドックス
ご指摘の通り、日本列島はユーラシア大陸の極東に位置し、深い海溝と白い太平洋によって隔てられていました。これは「物理的な孤立」をもたらしましたが、決して「文化的な孤立」を意味しませんでした。
「終着点」としての特性:を考えてみます。
大陸や南方からの海流や気象条件により、様々な人々や文物が「渡来」してきましたが、日本と言うロケーションでは、それ以上先へ移動することは難しく、列島に滞留・定着する運命にありました。これは、流入した文化が「混ざり合い、沈殿し、熟成される」ための絶好の環境だったといえます。
孤立した環境ゆえに、外部からの影響を受け「一方的に征服される」ことなく、自分たちの土壌や必要性に合わせて選択し、取捨選択し、独自に変容させる時間的余裕が会った事は重大な意味を持ちます。
漢字を輸入しながらも、独自の表記体系(万葉仮名→ひらがな・カタカナ)を発明したのはその最たる例です。
2. 人類学が示す「重層的な民族形成」と言語への影響
DNA分析などの人類学の知見は、日本民族が単一ではなく、複数の渡来波によって形成された「重層構造」であることを明らかにしています。
まず基層としては、縄文人のDNAは、日本人の遺伝子に確固たる痕跡を残しています。
それは最初期の住民である縄文人の言語(オーストロネシア語族的要素や、未知の要素を含む)が日本語の基層(土台)を形成したと考えていいでしょう。
自然との共生や感覚的な表現など、日本語の核心部分にその名残を感じさせます。
では、弥生時代以降の渡来人からの影響はどうか。
大陸から稲作技術とともに渡来した人々(主に朝鮮半島経由で、アルタイ語系的要素を持つ)の言語が、縄文語と混合・変容し、日本語の祖形ができあがったのは確実です。
ここで強調したいのは、それが支配や征服による入れ替えではなく、あくまでも平和的に混ざり合って行ったと言う事実です。
この「共存と融合」の結果、これら異なる系統の言語が、激しい排除や征服ではなく、長い時間をかけて緩やかに混合したため、文法体系(アルタイ語系的SOV型)と音韻・語彙(縄文的、あるいはオーストロネシア的要素)が融合した「系統不明の孤立した言語」が誕生したという推測です。
これは「拒まずに共存した」ことの言語学的な証左と言えるでしょう。
3. 歴史が示す「変換と昇華」の文化装置
現在に混ぜ至る日本の歴史は、外来文化をそのままコピーするのではなく、咀嚼し、日本化(和風化)してしまう強力な文化的装置の存在を示しています。
漢字の受容がまずはその最初の例でしょう。
日本は、中国という圧倒的な文明から漢字というシステムを輸入しましたが、それを単なる「借用」で終わらせず、音読み(漢字音)と訓読み(既存の和語)という二重構造を生み出し、一つの文字体系で二つの言語層を表現するという世界に類を見ない高度で特異なシステムを構築しました。
これは、外来の要素を拒まずに受け入れつつ、自らのものと共存させ、融合させた結果です。
「重」という文字に、我々はどれだけの読み方とどれだけの意味を付与したかを思い出してください。
外国人が、理解できないのも当然と言えます。
敬語体系の発達も、日本語を習得しようと言う外国人を悩ませるところ。
複雑な階層社会や、以心伝心を重んじる文化が、上下関係、内外関係、丁寧さ、曖昧さを緻密に表現する必要性を生み、世界でも有数に発達した敬語体系を独自に発達させました。
これは、異なる集団が混在し、摩擦を避けながら調和を図るための高度なコミュニケーション技術としてきた発達してきた故の進化だと考えられます。
つまり、こういうことです。
日本語と言う言語は、人種の「るつぼ」が生み出した唯一無二の言語だということ。
日本語の特異性は、以下のような歴史的プロセスの結実であると結論づけられます。
「孤立した島国」という環境が、異なる系統の言語・文化を「拒否せずに受け入れて滞留させ」、「征服・排除」ではなく「共存・融合」という緩やかな方法で数千年かけて混合し、さらに輸入された高度な文明(漢字)を和風化・変換することで、世界に類を見ない複雑で精巧なハイブリッド言語へと昇華させた。
日本語は、単一純血の言語ではなく、多様な要素の「るつぼ(坩堝)」であり、「織物」なのです。その複雑さや曖昧さ、あるいは豊かさは、ときに非効率とも映りますが、それは異質なものを排除せず、何とか折り合いをつけ、共存させることを優先してきた日本列島の民族的・文化的な歴史そのものを反映していると言えるでしょう。
したがって、日本語の特異性を理解することは、「異なるものを如何にして共存・融合させてきたか」 という日本文化の核心の一端を理解することに繋がると考えられるわけです。
そう考えれば、日本語が複雑なのは当たり前。
デリケートな人間関係の細部まで表現できる高度な言語であるが故です。
世界中のどの言語とも似ていないと言う事実は、逆から考えれば、日本にトライしてきたどの言語も取り込んできたが、言の結果だと考えることができます。
そしてそんな言語を、日常的に使いこなしている日本人の文字に対するビビットな感覚や、識字率が世界一高いと言う高い民度も納得できるところ。
そう考えれば、外国語習得が世界一苦手な国民であると言う国際的認識は、ある意味では納得できます。
もちろん、外国語を使いこなすことができれば、国際人としては十分なメリットがあります。
それゆえに高い給料を取れるビジネスマンも存在するでしょう。
しかし、それがイコール、優れた教養を持った人の資質だと考えてしまうのはやや早計だと思います。
今や翻訳アプリの発達により、日本語と外国語の垣根どんどんと縮まっています。
つまり、外国語を操るよりも、我々の母国語である日本語で、より深い考察ができることの方が、教養人としては近道であると言う事。
世界一高度な日本語で物事を考える訓練をしてきた我々日本人は、他のどの言語を使う人たちよりも、深い洞察をする言語的環境に恵まれていたと考えるべきでしょう。
世界の知見を日本語に翻訳する作業よりも、日本の伝統的な知見を世界各国語に翻訳する作業の方が、数倍難しいと言う事は知っておくべきです。
我々にとっては当たり前のニュアンスが、外国語では表現するのは難しいと言う事は、日本映画の外国語翻訳を見ていても理解できます。
合理性は日本語にかけている典型的要素だとはよく言われます。
あまりに曖昧な表現が多く、契約社会のアメリカでは通用しないと言うわけです。
しかし、状況と人物の関係さえ明白ならば、人称など当たり前に省略してしまう日本語は、考えようによっては英語よりも合理的です。
愛を表現するのに、英語であれば 当然”I love you”.
しかし、日本語であれば「愛してる」のみで、「私」も「あなた」も省略してしまうわけです。
気の利いた日本映画なら、その場面と俳優の演技があれば、「愛している」さえも、省略できるのが、なんとも奥ゆかしい日本の文化であるわけです。
その意味では、66年経っても、いまだに、喋りたくてもしゃべれない英語音痴にコンプレックスは抱きつつも、こうやって日本語で無能を考えられる。幸せは痛感する次第。
大丈夫です。その必要があれば、この文章だって、本人が書くよりも数倍わかりやすく、各国語に翻訳してくれるアプリが、もうすぐそこです。
個人的にまずは、難解な日本語を子守唄として育ってきたことを感謝する次第。
翻訳アプリがその性能を極めれば、ひょっとして日本語が世界の標準言語になる日が来るかもしれません。
まぁ、そんな未来までは生きていないでしょうが。
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