さて、国道51号線から、国道245号線に入ってさらに北上。
高萩市に入りました。
海岸に下りていくと、晴天ながら波はやや高し。
あの日、自分が海岸沿いに住んでいて、あの 地震の遭遇したら、はたして自分はどういう行動をとっただろうか。
そんなことが、ふと頭の中をよぎりました。
ランチは、国道沿いのラーメンショップ。
顔馴染みらしい客と店主の会話。
「どう、被害はあったの?」
「あったあった。液状化で土間にひびが入った。それで、納戸のドアがしまらなくなったよ。
修理頼んだら、1ヶ月待ちだと。」
ここ茨城県高萩も甚大な震災の影響があったということは聞いてましたの、ランチ終了後、注意しながら国道を走っていると、ふと見えた墓地の墓石が、見事に倒れていましたね。
思わず緊張感が走りました。
「いよいよだな。」
さて、プリウスで国道51号線を北上。
大洗海岸に向かいました。
茨城県の風評被害は聞いていましたので、漁港で海産物でも売っていれば、買っていって、自治会のおばちゃんたちにでも配ろうかと思っておりました。
海鮮市場がやっていれば、そこでランチという時間です。
まずは、大洗海岸で一番目に付く「大洗マリンタワー」。
どうかなと思いましたが、営業はしておりました。
まずは展望台。
昼下がりの大洗海岸は、上から見下ろす限りは、ひっそりとしていました。
どうやら、通常営業ではないことは、一目瞭然。
ここで、ランチをとることは諦めて、漁港の中に入ってみると、漁船は、一見何の被害もないように
停泊しています。
しかし乗組員たちの姿はなし。
工事関係者と思われるワゴン車がチラリホラリと目につきます。
「なーんだ。今日は普通に休みか。」
そんなことを思いながら、漁港を歩いているうたに、しだいに、冷や汗がタラリ。
この一見平穏な漁港を、あの日確実に、大きな地震の揺れと、大津波が襲ったことを物語る傷跡が、あちらこちらで口を開けていました。
さて、次に目指したのは、茨城県鹿嶋市。
このあたりから、太平洋岸へ出て、そこからいけるところままで、北上してみようというプランです。
鹿嶋といえば、サッカーの鹿嶋アントラーズの本拠地。
とりあえず、鹿島スタジアムは、この日は平穏に佇んでいました。
このあたりを走っていると、まず目につくのは民家の屋根。
あの地震で、瓦が落下したのでしょうか。
屋根をブルーシートで覆って、重しをつけて補修している家が目につき出します。
海を眺めている限りでは、のどかな春の風景です。
しかし、地震の被害は、ここにも確実に押し寄せていました。
そして、立ち寄った「はまなすまちづくり会館」。
そして、よーくよく見れば、民家の塀です。
「はまなすまちづくり会館」の展望台から見下ろした鹿嶋の町は、一見なんの変わりもないように
みえますが、こ一戸一戸の家庭の中では、震災の爪跡が確実に刻まれているかもしれません。
液状化現象といえば、報道を見る限りでは浦安市の状況が、深刻のようですが、
TDLも営業再開ということ。
かなり復旧もすすんでいるのだろうと踏んで、そこは避け、次に「稲毛海浜公園」に向かってみました。
まだ、朝もはやかったので、もちろん門はしまっています。
見れば、ジョギングをしている人や、犬を連れて散歩している人影が、公園の中に
見えましたので、持参のチャリンコで、公園の中にはいってみました。
とりあえず、海岸まで走りましたが、眼に見える被害は見当たりません。
目についたのは、海岸の入り口に盛られた砂の山。
東北の地震の影響は、さすがに、ここまでは及ばなかったんだなと思いつつ、振り返って、
そこにあったクローズ中のビーチレストランを見てドキリ。
明らかに、液状化による被害が目に飛び込んできました。
これは、これだけでは済まないなと、今度は目を凝らして、公園内を観察してみると、やはり液状化による被害は、いたるところに残っていました。
3月11日に、この公園でなにが起こったのかを、この猫たちは知っているのかもしれません。
東日本大震災が発生してから1ヶ月。
やはり、どうしても、自分の目で、日本に何が起こったのかを確かめてみたくなりました。
震源地である東北の映像は、連日メディアから伝えられています。
また、現地へ行ったいろいろな人の話も聞けます。
そこで、1日しかない休み。
関東に住む僕としては、自分に身近な東京から、太平洋岸を北へ上っていくことにしました。
その前に、まずは自分の住む川越。
少なくとも、我が住まい周辺には、幸いにも、眼に見える「震災の爪跡」はありません。
さて、まず向かったのは、東京から一番近い被災地・東京湾沿岸地帯の液状化現象。
液状化現象は、阪神神戸淡路のテレビ報道で、初めて知った名前でした。
朝食のサンドイッチを頬張りながらパティ(My iPad)で検索。
地震発生当日の、「海浜幕張駅」周辺の様子がヒットしたので、まずはここに向かうことにしました。
液状化現象とは、ウィキペディアによれば以下のとおり。
「地表付近の含水状態の砂質土が、地震の震動により固体から液体の性質を示すことにより、上部の舗装や構造物などが揚圧力を受け破壊、沈み込みを起こすもの」
要するに、埋立地特有の被害です。
早朝の「海浜幕張駅」は、思ったよりも人影まばら。
土曜日でしたが、「あら、今日は日曜日か」とい思ってしまうぐらいでした。
プリウスで、あたりを走行している限りは、Youtube で見た、震災発生当時の液状化被害は目に入らず、
さすがに、1ヶ月もすれば、修復されているのかなと思いながら、車を止めて、あたりを歩いてみると
やはりところどころに、「震災の爪跡」は残っていました。
人間が、こちら様の都合で、なんの断りもなく、手をつけた自然から、手痛い「しっぺ返し」を食らったような
画像です。
「まんちゃん。こりゃ、仙台になにか支援しないとまずいかもね。」
そういったのは、演歌歌手・桜沢万作のマネージャー兼作詞家の安井俊平。
安井の手には、芸能新聞が握られている。
その新聞に踊っている見出し。
「杉良太郎。宮城県石巻市を訪れ、車両12台分の物資を届ける。」
「演歌歌手小林幸子が7日、福島県相馬市を初訪問し、11tトラックに米10トンを持って慰問。」
「みんな、派手にやってるなあ。」
「演歌歌手は、ここが売りどころというかんじになってる。」
桜沢は、演歌歌手としては、中堅どころ。
しかし、ここ十年は、ヒット曲にも恵まれていない。演歌歌手の場合は、一曲ヒットがあれば、あとは、その曲を歌いつないでいれば、なんとか、歌手としての体裁は保てる。
桜沢も、20年前の、彼唯一といっていいヒット曲だけを、飯のタネにして、なんとか歌手という職業を食いつないでいた。
そんな彼の唯一のヒット曲が、「松島慕情」
この曲は、日本三景のひとつ、松島を舞台にした不倫失恋抒情演歌。
瑞巌寺、五大堂などを歌詞に盛り込んだご当地演歌だ。
しかし、松島は、今回の東日本太平洋沖地震で、他の太平洋岸の町同様に、大打撃をうけ、いまだ復興のめどはたっていない。
桜沢唯一のヒット曲といっていいこの曲。
彼は、宮城出身ではないが、やはり、このヒット曲のおかげで、どの地方都市を回るよりも、仙台で行うリサイタルだけは、客の入りもいい。
やはり、これだけ、震災復興支援のムードが高まってくると、この曲を歌っている演歌歌手が、恩恵を受けた「ご当地」に、なにか恩返しをするのは当然という空気になってくる。
「で、どうなのシュンちゃん。うちの財布の状況は?」
実は、この曲を作詞したのは、まだ当時作詞家をしていたマネージャーの安井俊平。
しかし、現在の安井は、演歌歌手・桜沢万作の経理も預かる立場だ。
「きびしいねえ。赤十字の義援金程度なら問題ないけど、まさかそんなこと、芸能記者が記事にしてくれる訳はない。やはりパフォーマンスがないとねえ。」
「だよなあ。やっぱりいくか。仙台。」
「いくったって、なにするの?」
「リサイタル一回分の売り上げをチャリティで寄付するとか。」
「なにいってんのよ。そんなこと一回でもしたら、うちの事務所なんてすぐにポシャリだよ。」
「だよね。」
「現地にいって、炊き出しや、復興の手伝いするったって、あなたが、桜沢万作だってわかってもらわなきゃ意味ないし。」
「だよなあ。名前付きの、垂れ幕や、たすきをつけたら、逆に売名行為だとたたかれるだろうし。」
「あのさあ、わかってるだろうけど。一昨年、練馬に買った練習スタジオ兼自宅のマンションだって、ローンたっぷりあるからね。」
「わかってる。わかってる。最近、新曲出してないからなあ。」
桜沢の一番新しい曲は3年前。
売上としては、1万枚も届かず大惨敗。以来、レコード会社も、桜沢のCDを出すことには慎重になっている。
「避難所回って、歌ってくるか。看板もカラオケもなしで。それくらいしか、出来ないよなあ」
「宣伝や営業になっちゃ、まずいから、そのあたりが難しいなあ。」
「そうそう、美談にならないとなあ。」
「そっと、ビデオに撮って、Youtube にでもアップしてもらおうか。ファンに頼んで。」
「なに、そのなんとかチューブって。」
「一般人の動画を、インターネットで見ようというサイトだな。」
「へえ。そんなのあるんだあ。」
「演歌歌手・桜沢万作。自費で避難所をまわって歌って、事務所からの宣伝費は被災地に寄付します。まあそんなところかな。」
「まあ、スズメの涙の宣伝販促費は、この際、義援金だなあ。」
義を見てせざるは勇無きなり。
震災から1カ月、今や日本中が、このムード一色だ。
記事を見れば、暴力団までもが、支援活動を行っている。
芸能人としては、この流れに乗り遅れては、機を見てせざるは、敏なきなり。
演歌歌手・桜沢万作の白紙に近かったスケジュール表に、安井の手で「仙台・松島支援活動」の予定が書き込まれた。
「ところで、俊ちゃん。」
「どうした?」
「お願いがあるんだけど。」
「なに?」
「俊ちゃんは、もう作詞はしないの?」
「新曲かい?」
「そうそう。もう俺くらいの歌手には、事務所もさあ、大先生の曲はまわしてくれないし。」
「で、僕というわけね。うーん、で、どんな曲。」
「タイトルだけは、考えてあるんだよね。」
「ほお。どんなの。」
「ひたちなかエレジー」
「ひたちなか?茨城の?」
「そうそう。だめかね。」
「ダメかねって。売れないだろ。そりゃ。」
「いや、売れなくてもいいんだよ。CD一枚出てれば。」
「なにそれ?」
「うちの実家があるんだよね。ひたちなか。」
「実家?」
「そう。実家。実は、浸水で今避難所暮らしなんだよ。うちの両親。」
「・・・」
「いやあ、ひたちなかの歌を、一曲でも出してれば、そっちにも大手をふるっていけるじゃないかと思ってさあ。昨日も、電話でオフクロに泣かれちゃってさ・・・」
大きな声では言えませんが、正直に白状します。
今回のあの大地震が来たとき実は、僕は思わず、笑っていましたね。
そして、最近頻繁に鳴るようになった、携帯電話の地震速報の
着信音を聞いても、僕は気がつけばニヤニヤしています。
なんで、地震が来ると口元がほころぶのか。
自問自答してみました。
直接、震災の被害に合われている方には口が裂けてもいえませんが、
僕は、その瞬間間違いなく、こんなふうに思っているんですよね。
「おっ、おもしろそう。」
「来るなら来いよ。これで終わりか?」
「いいよ。みんなぶっ壊して、仕切りなおし。リセットするのも楽しいかも。」
50歳を超えたいいオヤジが、なにを考えているんだという話ですが、
おそらく世の中のすべてをチャラにして、全員いちからスタート願望が、
潜在的に意識の中に充満していた節があります。
そんな屈折したストレスが、今回の地震のときのニヤケ顔をつくっています。
そっちの方が、むしろ面白そうじゃないかなんてね。
そして、僕のような不謹慎な輩が、日本には少なからずいて、そんな思いが
ふくらんで、重なって、地球の逆鱗に触れて、ついにはこの地震を呼んだのかも。
ちょっと、そんなことを考えてしまっております。
子供のころ、自分のちょっとしたイタズラが、オオゴトになって、それは僕ですと、
言えなくなってしまったという思い出があります。
なんか、その時の気持ちと、いまの気持ちがどこか似ているんですね。
というわけで、いまのうちに謝罪しておくことにします。
この地震を呼んでしまったのは、もしかしたら僕かもしれません。
地震の被害にあわれた皆さん、申し訳ありません。