「SONGS」という、NHKの音楽番組があります。
J-POPSのアーティストを週替わりで取り上げるスタイルで、バラエティ色を排したシンプルな構成が好きで、僕のエアチェックの定番になっています。
4月13日の放送分で登場したのは、竹内まりや。
久しぶりに、「動く」彼女を見ましたが、若かりし頃と変わらぬスタイルと声はさすが。
1955年生まれの彼女は、もう53歳ですから、たいしたものです。
「不思議なピーチパイ」「元気を出して」から、新曲まで、44分スペシャルでたっぷりと聞かせてもらいましたが、もう少し「動く」彼女を見たくなって、ライブラリーから「SOUVENIR」という、彼女の2000年収録のライブDVDを引っ張り出してきました。
実は、このDVDには、僕が彼女の曲の中で、一番好きな一曲が収録されています。
その曲は、「五線紙」。
シングルカットなどにはなっていませんが、これは名曲です。覚えておきましょう。
1980年発売の、彼女の3枚目のアルバム「LOVE SONGS」に収録されています。
作詞は、松本隆。
大真面目に、音楽で「愛と平和」を勝ち取ろうとした、「全共闘」世代(僕たちのひとつ上の世代)に捧げた、優しさと切なさにあふれたバラード。
僕は、この曲を聴くたびに、どうしても思い出してしまう人がいます。
たった一度しかあったことのない人なのですが、印象は強烈でしたね。
その人は、さすらいのドラマー「マイコ」さん。
まだ、バンドをやっていた頃ですから20年ほど前。メンバーの一人が、自分の知り合いが、蒲田のクラブで生演奏をしているから、いつでも見に来いという話を持ってきたんですね。
当時、バンドの練習は、土曜日の夜だったので、ならば行ってみようということで、話はまとまり、蒲田のグランドキャバレーまで車を走らせました。
正直申して、僕としては、生演奏の見学というよりは、グランドキャバレーにいけば、もしかしたら、いろっぽいお姉さんとお友達になれるかもしれないという下心の方が大きかったというのが正直なところ。
当時僕らがやっていたバンドは一応ロックバンドだったのですが、見学させてもらったバンドは、お酒を飲む場所での演奏ということで、ポップスやジャズのスタンダードがレパートリーのジャズバンド。
テナーサックスのバンマスが、知り合いのミュージシャンに声を掛けて集まった、この仕事のための即席バンドのようでした。
メンバーの知り合いは、そのバンドでドラムを叩いていたマイコさん。女性ではありません。たぶんマイケルというのを、そんなふうに英語っぽく呼んでいたのでしょう。
それが本名かどうかはしりませんが、マイコさんは、ハーフでなかなかのハンサムガイでした。
メンバーの話によれば、現役のジャズ系スタジオ・ミュージシャンとのことでしたが、それだけでは食えないので、アルバイトで時々、こういうクラブの演奏にも参加しているとのこと。
クラブのステージは、30分ほどのショーが、1時間のインターバルを置いて一晩4回。僕らは、ステージ脇の特等席で生演奏を見せてもらい、ステージの間は、楽屋で楽器などをいじらせてもらったりしました。
一応バンドのリードボーカルだった僕には、バンマスが「歌うかい?」という声もかけてくれましたが、さすがに「STAR DUST」や「MOON RIVER」の心得はなかったので、丁重にお断りしました。
さて、楽屋では、自分たちの曲を聴いてもらったり、音楽談義に花を咲かせているうちに、このマイコさんが、僕たちのことすっかり気に入ってくれて、店が終了した後、彼の自宅に誘ってくれたんですね。
「よし、おまえら気に入った。朝まで飲もう」というわけです。
店が終了した後、祖師ヶ谷大蔵あたりのマンションの1階にあった彼の部屋まで車を走らせ、途中で仕入れたサントリー・オールドをもって、マイコさんの部屋にお邪魔すると、びっくりしたのは、しどけない姿の女性が、僕たちを見て眼を丸くしていたこと。
マイコさんは、顔色一つ変えず、この彼女の腰に手を回し、奥の部屋に連れて行きます。
そして、僕たちには聞こえそうで聞こえない声でなにやら話した後、何事もなかったように戻ってきてオールドを飲みだしました。
「彼女、大丈夫ですか。帰りましょうか。僕ら」
その場の空気から、僕たちは、一応気をきかせようとはしましたが、マイコさん、「大丈夫。大丈夫」と、まるで意に介さない様子。
モデルみたいにきれいな人でしたので、僕としては、気になってしょうがなかったですがね。
さあ、それからは、バンドのメンバーとマイコさんで、朝まで音楽談義。
実は、マイコさんは、ミュージシャンになる前の学生時代は、べ平連がらみで、フォークゲリラなんてことをやっていたんだそうです。
フォークゲリラとは、1970年代初めの頃、新宿西口広場を中心に、プロテストソングなどを歌っては、反戦デモなど繰り返していた若者たの一団。
今で言う、「路上ライブ」の走りみたいな人たちですね。
ただ、今の「路上ライブ」と決定的に違うのは、当時のフォークゲリラの背景には、「政治」と「思想」がからんでいたということ。
当時は、毎週土曜日に、新宿駅西口地下広場で、集会がもたれていたそうです。
警察側はこの集会の混乱を避けるため、交通警察官を広場に配置。
ところが、血気盛んな若者たちは、地上に出てジグザグデモなどをはじめ、群集もこれに加わったりで、周辺の交通も一時マヒなんてことはしょっちゅうだったようです。
広場の柱を背にギターをかき鳴らすフォークゲリラたち。
「ウイ・シャル・オーバーカム」を、まるでハーモニーにならないコーラスで、肩を組んで歌い、そして時にはデモ行進。
「闘争勝利、安保粉砕」を叫びながら、西口の坂を上っていきます。
地上に出た人々は徒党をくみながら、新宿大ガードをくぐり東口へ。
そして、完全武装した機動隊と衝突。機動隊は、血相変えて、我らにに襲い掛かります。
ジェラルミンの盾が力いっぱい振り下ろされ、路上に倒れた若者たちに、催涙ガス弾の一斉射撃。
ダダーンという射撃音。銃口から白い炎がどっと吹き出す。
その真っ只中に、若き日のマイコさんもいたというわけです。
マイコさんは、それでも当時を懐かしむように、目を細めて、自身の青春時代の光景を、僕たちに熱っぽく語ってくれました。
マイコさんのお兄さんは、アメリカ国籍の日系アメリカ人。
なんとベトナム戦争に従軍していたというサプライズもありました。
しかし彼は、ご主人と離婚した日本人の母親と帰国。そして、日本の国籍をとり、入学した大学が、当時学生運動がもっとも盛んだった日本大学。
ですから、彼が当時参加していたベトナム反戦運動は、このムーブメントに参加していた他の若者たちよりも、もっともっとずっと複雑な思いがあったことは想像に硬くありません。
マイコさんは、どうやらこのあたりの物語を聞いてもらいたくて、わざわざ僕たちを自宅まで連れてきたようでした。
当時の反戦歌といえば、高田渡の「自衛隊に入ろう」。
新谷のり子の「フランシーヌの場合」。
ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」
加川良の「教訓I」。
そして、今また脚光を浴びている、森山良子の「さとうきび畑」
僕も、一応ギターのコードくらいは、弾けましたから、盛り上がった流れで、部屋にあったマイコさんのギブソンを抱え、ボブ・ディランの「風に吹かれて」やPPMの「500マイル」あたりを、深夜のマンションで大合唱。
マイコさんは、アメリカでプロのミュージシャンだったお父さんの影響でドラムのスティックを握るようになり、大学卒業後は、就職はせずに、(つまり髪は切らずに)スタジオミュージシャンの道へ進みます。
そして、あの頃の誰もがそうだっように、マイコさんもやがて反戦運動からは卒業。
彼は、ミュージシャンとしての仕事のかたわら、仲間と共同出資して競走馬を購入したのだそうです。その愛馬の写真を自慢気に見せてくれました。
仕事がオフのときは、可能な限り、那須高原にある牧場まで、この愛馬の世話をしにいくのが、そのときの彼の最大の楽しみ。
マイコさん曰く、部屋の奥に追いやられたキレイな彼女と過ごすよりも、この愛馬と一緒に過ごす時間の方が、ずっと幸せ。
「女はめんどくさい。だけど馬はとてもシンプル!」
愛馬の成長の記録は、アルバムにラフにまとめられていて、いいかげん酔っ払っていたマイコさんは、放っておけば、その一枚一枚について、詳細に説明をしそうだったので、そのあたりは適当にかわしました。
さて、僕は、馬だけだと思っていたアルバムの中に、興味深い写真を一枚発見しました。
その写真には、肩までの長髪とベルボトムのジーンズをはいたマイコさんが、たったいま僕が弾いていたギブソンのアコースティック・ギターをかき鳴らして、新宿西口広場で、なにやら大声で歌っていました。
彼のドラムの練習ルームには、消音タイプのドラムセットがおいてありましたね。
ちょっと叩かせてもらって気がついたのですが、ハイハットのところに、女性の写真が一枚貼ってあったんです。
その貼り方が微妙で、よく注意しないとわからないような感じで貼ってあったんですね。写真の彼女は明らかに、一緒に暮らしている彼女とは違いました。その人が誰なのかは、マイコさんには、あえて聞きませんでした。
夜も白々と明けてきた頃、僕たちは、また遊びに来ることを約束して、マイコさんのマンションを後にしました。
しかし、それ以降、僕が再び彼のマンションを訪れることはなく、マイコさんとの思い出は、たったこの一晩だけということになってしまいました。
さて、話を戻しましょう。
竹内まりやの「五線紙」に登場してくるのは、そんなマイコさんたち世代の元若者たち。この曲は、1980年の曲ですから、もちろんこの夜のことがあった以前から、僕の中では好きな曲ではありました。
しかし、この晩以降からは、僕はこの歌を聞くたびに、彼を思い出すようになりました。
僕よりもちょうど10歳年上だったマイコさんは、今はもう59歳になっているはず。あのキレイな彼女と、はたして結婚したのかどうか。
「新宿西口広場」だった場所は、今は「新宿西口通路」になっています。
名曲「五線紙」の歌詞を紹介しておきましょう。
♪
五線紙 / 竹内まりや
作詞:TAKASHI MATSUMOTO 作曲:YASUHIRO ABE
人気ないホールの
折りたたみ椅子たち
リハーサル前の暗い空気
靴音さえも途切れた休止符
あの頃のぼくらは
美しく愚かに
愛とか平和を詞(うた)にすれば
それで世界が変わると信じてた
耳元を時の汽車が
音もなく過ぎる
ぼくの想い出の時計は
あの日を差して止まってる
12弦ギターの
銀の糸張りかえ
旧い仲間もやって来るさ
後ろの方でひっそり見てくれよ
耳元を時の汽車が
音もなく過ぎる
ぼくの想い出の時計は
あの日を差して止まってる
10年はひと色
街影も夢色
変わらないものがあるとしたら
人を愛する魂(こころ)の 人を愛する魂の
人を愛する魂の五線紙さ