さて、この方は誰か。
実は、僕の大先輩にあたる人。
東洋大学印度哲学倫理学科卒業の、坂口安吾その人であります。
彼が僕の大先輩であることは、大学に入って一番最初の講義で知りました。
教えてくれたのは、一般教養社会学の教鞭をとっていた渡辺教授。
人気の授業だったようで、当時の学内の一番広い教室で講義が行われました。
東洋大学というところは、東京六大学の滑り止めとしてうけるという受験生が結構多く、結果、六大学に合格できずに、やむなく来たという輩がけっこう多い大学。
二浪、三浪して我が大学という道を進んできたという学生たちにはけっこう敗北感ににじんだ顔が多かったのを思い出します。
ですから、僕のように、第一志望が東洋大学という手合いは少々浮いていましたね。
だって、何しろ当時の私学としては、東洋大学は圧倒的に学費が安かったんですもの。
まあ、僕のケースは置いておくとして、その敗北感ににじんだ連中の、虚無的な空気が充満する教室で、その空気を当然のごとく察している渡辺教授は、授業の開口一番でこういったんです。
「君たちの大先輩には、あの偉大な坂口安吾がいる。」
社会学専攻の渡辺教授が、坂口安吾にどれだけ心酔していたかは定かではありませんが、おそらく彼は、間違いなく、この大学に敗北感を背負って入学してきた、六大学落ちこぼれ新入生に、自信を持たせるために、坂口安吾の名を出したことは間違いない。
しかし、恥ずかしながら、僕はそれまで、坂口安吾なる作家は、唯一「不連続殺人事件」というミステリーの著者であるということ以外はまったく知りませんでした。
ところが渡辺教授の話を聞けば、坂口安吾という作家は推理小説かというカテゴリーには、収まらない人物。
歴史小説、純文学、随筆、評論と、なんでもこなした作家なんですね。
そして本著「堕落論」は、彼の随筆の傑作。
終戦直後に発表され、彼をブレイクさせるきっかけにもなった作品です。
しかし、実は僕は彼のこの作品を、恥ずかしながら、前述の「不連続殺人事件」も含め、一切読んではいません。
では、読んでもいない本を何で、ブログのネタにできたか。
実は、読んではいないけれど、この著作に関しては「聞いた」というのが正解。
オーディオ・ブックというものがあるんですね。
本屋の倅であった僕は、本を読むのは好きなのですが、ここ最近は仕事の忙しさにかまけて、ほとんど読書が進まなかった状況。
この状況に、それなりの危機感を持った僕は、前から気になっていたオーディオ・ブックに手を出しというわけです。
これなら、運転中にも、道路交通法に抵触することなく、読書(?)ができるというわけです。
そして、それならばということで、僕が選択した作品が、坂口安吾の一連のエッセイ。
「青春論」「悪妻論」「恋愛論」等々。
さて、そうそういろいろある中で、僕が一番気になったのが、やはり「堕落論」。
「堕落」といわれてしまうと。我が私生活に照らし合わせても、心当たりがある節も多々ありますので、気になるところ。
さて、内容です。
坂口安吾は、こういいます。
「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」
こうもいいます。
「人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。」
無頼派というカテゴリーでくくられる坂口安吾。
「堕落」を地で行くような私生活を、あえて送っていた彼の書いた「堕落」という作品なので、これはおそらく、高尚なる自己弁護の本だろうと勝手に思っていました。
しかし、どうやらそれは違っていたようです。
「堕落」というのは、実は人間の本来の姿。
それを、我々はよく知っているからこそ、そこに陥ることを防ぐためのマインドとして、武士道は編み出された。
彼はそう言います。
つまり、この「堕落」を潔しとせず、これに抵抗するために人が作り開けてきたシステムは、すべて幻影。
結局長続きはしない。
戦争末期、花と散った特攻隊も、それを見送った未亡人も、天皇さえ、彼は幻影と言い切ります。
つまり、生き残った特攻隊員は、闇屋になり、未亡人はすぐに次の亭主を見つけ、天皇は「人間」に戻った。
天皇の人間宣言を堕落といってしまうと、怒られてしまいそうですが、人が無理して作り上げた幻影は、一時的なエネルギーが存在しているうちはその状態を保てるけれども、それは当然長続きはせず、すべてはやがて、その逆方向に自然に流れるもの。
「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」
つまり、「堕落」することは自然なことだと彼はい言います。
しかし、それならば、人間は限りなく、どこまでも堕ちていくのかというと、彼はそうは言いません。
こういうんですね。
「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。」
堕落が本性であることも事実だけれども、しかし、また堕ち切ることもできない脆弱さもまた人間の本能であるというわけです。
だからこそ、人間は「堕ちきらない」ためのいろいろな知恵を絞りだす。
そして、それが、社会というシステムに組み込まれて、宗教や文化が生まれる。
要するに、正しく堕ち切れば、必ずそこから生まれてくるものがある。彼はそういうわけです。
「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
まあ、そう言われると、そんな気がしないわけでもない。
まあ、僕のような、ぐうたらな人間ですと、「堕落」はけして悪いことではないといわれてしまうと、「なるほど」と、つい甘えてしまいそうになりますが、確かに彼のこの論説は、終戦直後の憔悴しきった人々には、大いなる救いと希望の道を開いたことは想像に難くありません。
ある意味では、「堕落」を逆手に取った、人々へのエールにも聞こえます。
よくよく考えてみれば、自然界には、絶対的なエントロピーの法則というものがあります。
すべての秩序は、やがて必ず無秩序へと向かう。
これは、大宇宙を貫く法則。
であれば、人間だって一緒のはずかもしれません。
人間だけはそうではないといってしまうと、それは、人間は自然ではないといっているのと同じこと。
それは傲慢というものです。
これは、普通に考えても、やや無理がある。
ややもすると、人間は自然さえも自分の管理下に置いて、コントロールできる「神」なのだと勘違いしがち。
人間だけは、エントロピーに負けないと勝手に思い込んでいる。
しかし、その自然に痛いしっぺ返しをくらって、打ちのめされてきたのもまた人間の歴史です。
ただ、人間に限らず、「生命」というものだけは、ささやかではありますが、そのエントロピーの法則に逆らえるエネルギーを持っているということもまた事実。
しかし、不老不死が夢であるように、この法則に永遠に逆らうこともまた不可能。
どれだけ、生命が秩序を生み出そうとも、やがては大きなエントロピーに飲み込まれてしまうという話です。
ならば、我々人間は、ジタバタしてもしょうがないだろうという話。
そして、これを素直にこれを受け止めましょうよというのが、実は坂口安吾の「堕落論」ということかもしれません。
なんだか、ひどく大きな話になってしまって恐縮ですが、ちょっとそんな風に話が繋がりそうです。。
つまり、「堕落」は決して悪いことではない。
ちゃんと、堕ち切れば、必ず次はあるらしい。
なるほど、その次が必ずあればこそ、生命は紆余曲折あっても、死に絶えずに、地球というささやかな自然の上で、「死ぬ」「生きる」を繰り返しながら、何十億年もの間、生き永らえてきたわけです。
「堕落」の後には、必ず「再生」がくる。
確かに、我が大先輩は、あの終戦の廃墟の中で、しっかりと物事の本質を、政治や世相に左右されることなく、しっかりと洞察してくれていました。
ありがとうございます。