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ビージーズは、そのキャリアを、1963年にスタートさせていますから、年季が入っています。
彼らの知っている曲は、全部歌ってやろうと思っていましたが、これが意外と歌えないもんです。
ざっくりとは歌えるのですが、どうも途中で頭が真っ白になってしまいます。
あれ?どうだったっけ?
「ホリディ」「ジョーク」「ワーズ」「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「傷心の日々」
どれも、サクッと歌えるつもりでしたが、すべて途中で棄権。
これはちょっとショックでしたね。
しかし、このアルバムの収録曲だけは別。
「小さな恋のメロディ」のサントラ版です。
このアルバムは、あの当時、友人の家に遊びに行くと誰もがみんな持っていた一枚でしたね。
実は、この映画は、本国イギリスとアメリカでは大コケしています。
しかし、なぜか日本と、ラテン系の国々で大ヒット。
主演のマーク・レスターは、日本のコマーシャルに引っ張り出されていましたし、トレイシー・ハイドの方は、出演作が、ほぼこの1本だけなのに、それからしばらくの間は、たびたび雑誌「スクリーン」「ロードショー」の表紙を飾っていました。
本屋の息子でしたので、その辺は、よく覚えています。
このアルバムに、ビージーズは多くの楽曲を提供していますが、これはほぼ全部覚えていましたね。
そりゃそうだ。
あれだけ聞いたんですから。
よっしゃ。
その中で、「SMULE」にOCがアップされていたものが4曲。
そして、それとは別に1967年の代表曲からこちら。
そして、彼らはその後、ディスコの波に乗って、大変身を遂げます。
決定版は、なんと言ってもこれ。これもまたサントラ盤。
そう「サタディ・ナイト・フィーバー」です。
ディスコ・ムーヴメントの火付け役になった2枚組のコンピレーション・アルバム。
実は個人的には、ディスコの頃は、ちょうどお年頃だったのですが、なぜかブームには背を向けて、ジャズやフュージョンを聴きあさっていました。
かなりひねくれていたとは思います。
しかし、ディスコも、社会勉強のために、誘われれば行くこともありましたね。
「何やってる人?」
「ペンキ屋。」
これくらいのジョーク(映画主演のジョン・トラボルタの職業がそれ)には、ついていけました。
このサンドラ盤から、ビージーズがヒットさせた3曲のビデオクリップは、今でもYouTubeで確認できますが、これは今でもよく覚えています。(確かコマーシャルにも使われていました。)
この大変身に、それまでのビージーズの楽曲のファンだった人達は、目が点になったことでしょう。
個人的には、ここに至るまでの”Jive Talkin’”や”You Should Be Dancing”の方が、好きだったりするのですが、OC(「SMULE」では、アップされてるカラオケ音源のことをそういう)がありませんでしたので、今回はこの大ヒット3曲を歌いました。
本年の畑作業は終了いたしましたので、ここはストレス発散。
Night Fever (ゲストの方とコラボ。僕よりもこの楽曲をご存知の様子)
そして、この曲はとくに好き。
あの頃ディスコに通っていたか方ならご存知かと思いますが、チークタイムにかかる曲の定番でした。邦題も「愛はきらめきの中に」
この後のビージーズは、ディスコ離れをして「失われた地平線」というアルバムを出して「哀愁のトラジティ」というヒット曲もあったのですが、やはりこの辺になるとこちらの記憶もかなり怪しくなってきます。
結局、たくさん歌える曲があるつもりだったビージーズも、いざ歌ってみると、覚えていたのは、2枚のアルバムの楽曲のみということになりました。
情けない。
しかし、今から思えば、バリー・ギブのあの突き抜けるようなファルセット・ボーカルは、スタイリスティックスのラッセル・トンプキンスJrのボーカルと共に、後のカラオケ道楽では、大いに参考にしたテクニック。
おかげで、地声のキー的には無理な、ユーミンや松田聖子の楽曲も、しれっと歌えたりしますので。
ちなみに、流石に”Staying Alive”は、ロレツが回らずに難儀いたしました。
これはチャレンジ精神のみ評価してくださいませ。
彼らを初めて意識したのは、”Kiss On My List”でしね。
当時の洋楽フリーク御用達番組「ベスト・ヒットUSA」で、初めて聞きました。
小林克也の名調子で紹介されたこの曲のなんとカッコイイよかったことよ。
イントロのシンセドラムを聴いた時、まさにこれこそ80年代のロックだと、胸躍ったものでした。
これに続くのが”You Make My Dreams”。
これにもやられて、この2曲がフューチャーされた彼らのアルバム”Voices”は、なんとか手に入れねばと、当時ちょうど巷に登場し始めていたレンタル・レコード屋に飛び込みましたね。
もうこの頃には、レコードは買うものではなく、借りて録音して聞くもの。
そう決めていました。
彼らのこのアルバムは、とにかく聴きまくりました。
「SMULE」のリストにあって自分が覚えていたのはこの3曲。
You Make My Dreams
You've Lost That Lovin' Feeling
そして、大ブレイクした彼らが、次に出したアルバムが「Private Eyes」。
これも粒揃いの曲が詰まった名アルバムでした。
このアルバムからは、以下の3曲。
I Can’t Go For That (No Can Do)
“I Can’t Go For That”などは、ソウルのチャートにも登場したブラック・テイストな曲です。
ダリル・ホールは、子供の頃からR&Bやソウル・ミュージックに親しんでおり、ブラック・ミュージックのアーティストとも親交を深めてしています。
ダリルはよく「Blue-Eyed Soul 」などと言われたりしますが、彼自身はこの言われ方は、あまりお気に召していないようです。
次のアルバム「H2O」は、彼らのアルバムの中では、1番のビッグ・セールスになっていますが、ここからは2曲。
そして、オリジナル・アルバムは、「Big Bam Boom」「Ooh Yeah!」と続きますが、個人的には、この辺りから怪しくなってきます。
彼らは、「Voices」のブレイクの前に、実は10枚以上のアルバムをリリースしています。
それを全部聞いてはいませんが、この中に個人的なお気に入りが一枚あります。
「Daryl Hall & John Oates」という1975年のアルバム。
邦題は「サラ・スマイル」。
同名のシングル・カットもリリースされましたが、僕が唸ったのはこの曲。
これは、どうしても歌いたかったので、自分でOCを作って「SMULE」にアップしました。
そして、こちら。
これも名曲ですね。
サラは、当時のダリル・ホールの彼女で、彼のヒット曲の多くを作詞した女性です。
宇崎竜童と阿木 燿子のような関係でしょうか。
ホール&オーツの覚えていそうな曲は、この際、全部歌ってやろうと思いましたが、やってみるとなんとか覚えていたのは、この10曲でした。
いやあ、あんなに聞いていたのに、こんなもんかとガックリ。
ある意味では、カラオケは、記憶力のリハビリですね。
フリークス
いやあ、ちょっとすごい映画を観てしまいました。
こういう映画があるということは、知識としては知っていました。
スチール写真だけは、過去に何枚かみた記憶もあります。
昭和7年の日本公開当時は、このタイトルではなく「怪物圓」だったそうです。
この監督は、1930年にホラー映画の古典「魔人ドラキュラ」を撮った方。
実際に、当時のサーカス興行にも関わっていた人で、この映画に登場する「彼等」とも、普通に親交があったとのことです。
映画は、その彼らが、差別的な人間たちに対して天誅を与えるという御伽噺にしているわけですから、この監督は、決して悪趣味狙いではなく、彼としては結構当たり前な感覚で、差別問題への寓話的メタファをイメージしていたかもしれません。
しかし世間からの非難は轟々。
以後この監督は、まともに映画が撮れなくなってしまいます。
そりゃあそうでしょう。
映像があまりにも強烈すぎました。
90年も経過した今も尚です。
正直申して、見るのにも相当迷ってしまいましたが、今回鑑賞決行した次第。
世の中にカルト映画は無数にあれど、本作以上のカルト映画はまずありますまい。
申し訳ない。感想はご勘弁ください。
マチネの終わりに
還暦を超えた爺さんが、果たして、恋愛映画を楽しめるものか。
20代の頃は、さんざん見てきた恋愛映画ですが、この30年間は、とんと遠ざかっておりました。
とにかく、こればかりはしょうがない。
なんと言われようと、こちらは10代の頃に見た恋愛映画のようには、もう胸がときめかないわけです。
もちろん、この30年の間にも、恋愛映画の名作がなかったわけではありません。
しかし、「プリティ・ウーマン」を見ても、「恋人たちの予感」を見ても、「ゴースト ニューヨークの幻」を見ても、「ロミオとジュリエット」「卒業」「カサブランカ」のようには、胸がキュンとならないのは致し方がない。
もちろん、2004年にブームになった「世界の中心で愛をさけぶ」のようなコテコテの恋愛映画も見はしましたが、この映画の頃には、こちらもいい加減中年オヤジになっておりまして、どこか評論家気分。
なるほど、今の時代にこれが当たるのは一体何が原因なのだろうか。
この映画の純愛性を、長澤まさみのナイスバディは邪魔していないか。
そんな、どうでもいい事ばかり考えていましたね。
なにせ、こちらは昔から筋金入りのスケベですから、男女の恋愛は、映画においては、際どいエッチシーンを提供してくれる惣菜的色付けでよろしい。
そんなトホホなエロオヤジに、いつしか成り果ててしまいました。
それよりも、やはり映画にとって必要不可欠なものは、なんといってもアクションだ、SFだ、ミステリーだ、ホラーだ!
大人が楽しむエンターテイメントは、やはりこちらだ。
恋愛感情なんてものは、もともと男と女のドロドロした性欲を美しく処理したいための、オブラードみたいなもの。
それを「きれいごと」として昇華させようとするから、恋愛映画は何処か嘘くさい。
恋愛映画には、悲劇的結末になるケースに、良質の作品が多くなるのは、おそらく作る方にも、見る方にも、その後ろめたさがあるからだろう。
どうにも、実も蓋もない話で恐縮ですが、長らくどこかでそう思っていました。
しかし、感性の劣化というのは悲しいもの。
いつまでも、そんなことを言っていないで、世の中の多くの人たちが、胸を締め付けられたという恋愛映画で、こちらもそろそろリハビリしていかないといかんという気にはなっていました。
その手始めが、先日鑑賞した岩井俊二監督の「Love Letter」でしたが、今回は Amazon プライムのラインナップにこの作品を見つけました。
原作は、平野啓一郎の小説。
毎日新聞の朝刊に連載された他に、note にも連載されたとのこと。
ちなみに、この note を、実は先週から使い始めています。
なにせ幼少の頃からの作文オタクでしたので、ブログにはやたら長いだけの駄文がごっそり。
使い始めてからは、これをセッセと引っ越ししていました。
しかし、使い始めてみると、ブログにアップするよりも、圧倒的にこちらの方がリアクションがよろしい。
これは、嬉しくなってしまいます。
しかも、単なるユーザーを「クリエイター」と言ってくれる心遣いもまた心地良い。
調子に乗って、こちらは、映画感想、読書感想文、紀行文などをどんどんと投稿していますが、なるほど小説の連載というのもありなわけですな。
読者がつけば、購読もできるという仕組みですから、世の中に数多いる趣味の延長の自称作家たちには、願ってもないプラットフォームな訳です。
強者の中には、これで生計を立てている人もいるらしい。
おっと、「ちなみに」が長くなり過ぎました。
閑話休題。
話を映画に戻しましょう。
ストーリーは、クラシックギタリストとジャーナリストという、ともに40代になった男女の、運命に翻弄される6年間にわたるすれ違いの恋愛ドラマ。
演じるのは、福山雅治と石田ゆり子。
このキャスティングで、ある程度のヒットは約束されているのでしょうが、こちらとしても、やはりこれくらいの年齢でやってくれないと、ついていけない恐れがありました。
お二人とも既に実年齢では、50歳。
映画では、38歳と、40歳という設定でしたが、さすがにお二人とも若々しくそこは無理がない。
福山雅治のギター演奏シーンも大したもので、画面で見る限り、指づかいはかなり音色とシンクロしていましたので、相当な特訓はしたと思われます。
彼は、ミュージシャンでもありますから、それほど無理はないか。
石田ゆり子も、パリ、ニューヨーク、日本をまたにかけるジャーナリスト。
英語やフランス語でも、ちゃんと芝居をしていました。
この6年間で、この二人が会うのはたった三度だけというドラマ設定。
後はことごとくすれ違いの恋愛模様が描かれます。
しかし、そのたった三度だけで、40代になろうとする大人の二人に、果たして命をかけた恋愛が可能か。
それがこの作品のテーマとなります。
この物語に観客を引き摺り込むには、当然のことながら、この主人公たちのバックグラウンドや、日常生活に、見るものを納得させるリアリズムが必要です。
そうでないと感情移入はなかなか難しい。
しかも、二人の設定は、どちらも市井の一般市民とは大きくかけ離れています。
この二人の感情の機微に、説得力を持たせられるかどうか。
どうしてもこの辺りが、この映画の肝になってくるわけです。
原作者である平野啓一郎のブロフィールをWiki してみると、2005年に文化庁の特使に任命されて、パリに1年間滞在したとありました。
この辺りの経験があれば、世界をまたにかける二人のキャラクターのリアルな肉付けは、小説では可能だったでしょう。(こちらは未読)
これが、映画になってしまうと、その辺りの説得力は、主演の二人の演技の膨らませ方にかかってしまいます。
しかし、そこは映画です。
お二人が、男性の観客にとっても、女性の観客にとっても、魅力的でありさえすれば、映画としては成立します。
男子目線で行きますと、個人的には、石田ゆり子は好きな女優ですので、そこは特に問題なし。
十分楽しませていただきました。
ただこの映画で拾い物をしたのは、桜井ユキという女優さん。
先日見た「ひかりをあててしぼる」にも出演していたので、チラリと覚えていました。
福山雅治を思う気持ちから、主人公二人の東京での再会をすれ違わせてしまうという女性マネージャー役が彼女。
こういう役回りを演じたら、恋愛映画のラストでは、必ずその報いを受けるというのが、みているこちら側の常識。
「嫌な女」は「不幸な女」になって締め括られるというのがパターンなのですが、この映画の彼女の役はちょっと違っていました。
映画を観終わってみれば、彼女に対する嫌悪感は皆無。
その強烈な、「目ん玉演技」の迫力に、主演の二人も霞んでおりましたね。
というわけで、ふと気がつけば、またしても恋愛映画を、無粋にも微分解析している自分に気が付きます。
こういうのを野暮と言いますね。
まだまだ、リハビリは足りないようです。
始めたばかりの note ですが、いっそのこと、これに恋愛小説でも執筆してみましょうか。
すると途端に、誰かの声が聞こえてきます。
それはちょっとマチネ。
何が彼女をさうさせたか
1930年製作の傾向映画。
傾向映画というのは、当時の社会情勢を色濃く反映した、左翼的思想がムンムンの映画群です。
昭和初期のムーブメントだったようです。
こういう、こちらのこれまでの映画知識には引っかかってこないようなレアな作品を、最近のAmazon プライムは、よく拾ってくれるのでなかなか隅におけません。
うちの父親が生まれたのが、昭和6年ですから、その前年の映画ということになります。
日本国内では、フィルムは現存しておらず、このフィルムが発見されたのはなんとロシアだったそうです。
ロシアといえば、社会主義の本場。
傾向映画のコレクションならありそうです。
本作は、ロシア語字幕で残っていたそうですが、映画の冒頭とクライマックスとなるラストのシークエンスがない状態で発見されて、日本に里帰り。
幸い台本が残されていたため、これをベースに字幕で、ストーリーが説明されるという形で復元されたのが、今回の作品です。
無声映画ですので、当時は活弁師の「語り」がフューチャーされて上映されたわけですが、今回は活弁なし。
フルオーケストラがBGMに流れて、字幕のみで進行するスタイルでした。
親に捨てられた一人の少女の流転の人生を描いた内容ですが、これはもう映画というよりは、製作された当時の時代の空気を味わう貴重なドキュメント作品として見る方が正しい。
NHKの「映像の世紀」を見ているようなつもりで楽しませてもらいました。
親に捨てられ、親戚に捨てられた、高津慶子演じる(生きていれば108歳)14歳のすみ子が売られた先がサーカス。
今の若い人たちにはピンとこないかもしれませんが、僕が子供の頃には、親からこう言われた記憶が、まだ微かに残っております。
「こらっ。あんまりいうこと聞かないと、サーカスに売り飛ばしちゃうぞ。」
両親に言われたのか、それとも祖父か祖母に言われたのか。
その記憶は定かでありませんが、怒られた時に言われるわけですから、サーカスというところはさぞや、子供にとっては恐ろしいところなのだろうと想像していたものでした。
気になったので、ちょっと調べてみました。
1948年に「児童福祉法」が改定されるまでは、「公衆の娯楽を目的として曲馬または軽業を行う業務」に満15才未満の児童を使用する事は禁止されていなかったようです。
当然この年齢の児童に芸を仕込むには、さらに幼少期からの「特訓」が必要だった訳です。
当時は、日本にもサーカスの団体が、20から30もあり、幼児に対するスパルタは、この時代の人たちの間では、ある程度コンセンサスだったかもしれません。
僕が生まれたのは、1959年で、サーカスの団体数も激減していた頃。
覚えているのは、「木下大サーカス」と「キグレサーカス」くらいのものでしたが、まだこの頃には、こんな常識も生きていたのでしょう。
映画では、主人公すみ子が、心中未遂の末保護された教会施設も、偽善と不正の巣窟であることに絶望した彼女が、その教会に火を放つ展開で幕を下ろします。
このシークエンスは、現存フィルムには残っておらず、字幕説明で処理されていましたが、この字幕を読みながら、僕の脳裏にオーバーラップしていたのは市川崑監督の「炎上」。
あの映画で、金閣寺に火を放った青年僧を演じたのは、市川雷蔵でした。
三島由紀夫の原作では、「美への嫉妬」という解釈がされていましたが、映画を見る限り、その背後には宗教界の腐敗もありましたね。
「何が彼女にそうさせたか」。
腐敗した資本主義社会にケツをまくり、さあ立ち上がれ! プロレタリアート諸君。
労働者を舐めるなよ。
映画の主張はそういうことだったでしょうが、この薄幸の少女の放浪を見ていると、頭に浮かんだフレーズは、実はこれ。
「こんな女に誰がした」
ご存知でしょうか。
昭和22年にヒットした「星の流れに」の一節です。
戦後の荒れ野原で、娼婦(当時の言い方ではパンパン)に身を持ち崩しても、生きていかなければならなかった女の悲哀を切々と歌った曲です。
もちろんこちらも、僕が生まれるよりも遥か前の流行歌ですが、こんな曲がサッと浮かぶあたりは、まだまだ僕もコテコテの昭和世代のようです。
「星の流れに」をYouTube で検索したら、藤圭子(あの宇多田ヒカルのおっかさん)の歌ったバージョンが出てきました。
しばらく聞いていたら、藤圭子と90年前のこの映画ヒロインの顔が見事にオーバーラップしました。
このコロナの世の中で、女性の自殺率が去年以前に比べて急増しているそうです。
そんな女にしたのは一体どこの誰か。
それはそれで考えて見る必要はありそうですね。
一番最初に出会ったイーグルスの曲は、「呪われた夜」でしたね。
その後はアルバムで、「ホテル・カリフォルニア」「ロング・ラン」と聴いて、解散後に初期のアルバムを、改めて聴きにいきました。
イーグルスの初期は、完全にカントリー・ロックでしたので、あの当時レッド・ツェッペリンやグランドファンク・レイルロードの熱いハードロックを聴きまくっていた耳には、ちとたるい感じではありました。
しかし、彼らのコーラスワークは、非常に心地よかった。
ビートルズのコーラスも、もちろん好きですが、イーグルスのコーラスには、ビートルズのコーラスにはない、もう一つ高いキーのパートがあります。
このパートをファルセットでハモっているのは、ランディ・マイズナー。
彼のパートがあるのとないのでは、イーグルスのコーラスは、かなり違うテイストになりますね。
ファルセットのハーモニーというと、クイーンのロジャー・テイラーを思い浮かべますが、彼のファルセットは、凄すぎてどこか人間離れしています。
ですから、「ボヘミアン・ラプソディ」のようなクイーンの楽曲には映えますが、イーグルスのようなコンサバティブなアメリカン・テイストの楽曲には向かない。
ランディ・マイズナーのファルセット・コーラスは、ファンにも人気があったようです。
しかし、彼はドン・ヘンリーとグレン・フライに相当しごかれたようで、そのストレスに耐えきれずにバンドを脱退してしまいます。
その後、このパートのハモリを担当したのは、ティモシー・B・シュミット。
最後のアルバム「ロング・ラン」収録の、「言いだせなくて」では、リード・ボーカルをとっていますが、この曲は個人的には、かなりお気に入り。
これまで、イーグルスのナンバーで、カラオケのレパートリーにしていたのは、「ホテル・カリフォルニア」「呪われた夜」の2曲だけでした。
ビートルズですと、歌えるようになるまで繰り返し聴いたものですが、イーグルスの場合は、そこまでの聞き込みはしていません。
しかし、改めて聞けば、やはり名曲は目白押しです。
ハモリオタクとしては、彼らのコーラスワークはとても魅力的。
リードボーカルの歌い回しは、かなり怪しいのですが、どうしてもイーグルスのハーモニーをやってみたくて、YouTube で、楽曲を改めて聴き直しながら歌ってみました。
この年齢になってみると、新しい曲はそうそう覚えられませんが、やはり多感な頃に聴いていた曲は、どこかで毛穴から染み込んでいるようなところがあります。
コーラスも完コピとまではいきませんが、雰囲気くらいは出せたかもしれません。
このコロナ騒動で、カラオケ仲間ともなかなかセッションできませんので、自宅で楽しめるネット・カラオケは今のところかなり貴重な娯楽です。
今回は、ゲストとのセッションはロックして、一人ハーモニーを楽しませてもらいました。
ちなみに、イーグルスの曲に付けられた邦題は、かなりいいセンスだなあと個人的には思っております。
駆け足の人生
(イーグルスのバージョンがなかったので、マイケル・ブーブレのバージョン)
(イーグルスのバージョンがなかったので、ドリー・パートンのバージョン)
我が愛の至上
PEACEFUL EASY FEELING
魔女のささやき
いつわりの瞳
TAKE IT EASY
言い出せなくて
DESPERADO
呪われた夜
007 ダイ・アナザー・デイ
さて、いよいよ007シリーズも21世紀に突入。
シリーズ20作目で、40周年記念作となるのが本作。
ピアーズ・ブロスナンのジェームズ・ボンドとしては、4作目にしてこれが最終。
節目の007シリーズということで、これまでの作品にオマージュを捧げた小ネタがふんだんにちりばめられていて、ここまですべての作品を見て来たファンとしては、なにかと楽しい作品でした。
朝鮮の非武装地帯から始まる物語は、この映画の公開と同じ頃、ジョージ・ブッシュ大統領に「悪の枢軸」と名指しでワルモノ扱いされた北朝鮮に、ボンドがサーフィンで乗り込むところから始まります。
いままでの展開ですと、ここでボンドがひと暴れしてから、かっこよくメインタイトルということになりますが、本作では、敵側の若き首領ムーン大佐を殺しはしたものの、ボンドも敵に捕らえられてしまいます。
そして、朝鮮側の拷問を受ける中でのメイン・タイトル。
珍しい流れです。
主題歌の「ダイ・アナザー・デイ」を歌うのはマドンナ。
ちょっと僕好みの曲ではありませんでしたが、彼女のPVも、映画に合わせて、彼女が拷問を受けながら歌うという内容でしたね。
DVDの特典についていました。
「ユア・アイズ・オンリー」で、主題歌を歌ったシーナ・イーストンが、歌手としては初めて、メイン・タイトルに登場しましたが、マドンナはメイン・タイトルではなくて、ワンシーンだけ本編の方に登場。
これで一応、マドンナもボンド・ガールに名を連ねることになりました。
彼女が、作詞作曲による主題歌ですが、残念ながら007テイストのかけらもないアレンジで、僕としてはガッカリ。
せっかく007の主題歌を担当するんなら、少しは、アレンジを007テイストにしてほしかったというのは、オジサンの個人的好みの感想。
さて、メイン・タイトルの後もちょっとビックリ。
朝鮮側に捕らえられ、拷問を受けるボンドの14カ月後。
なんと、007が、髪が伸び放題、髭面のロビンソン・クルーソーみたいな姿で、尚も拷問を受けています。
敵に捕らえられる007のピンチは、過去に何度も見てきましたが、こんな姿になり果てるジェームズ・ボンドは初めて見ました。
捕虜交換という形で救い出されるジェームズ・ボンド。
しかし、監禁されている間に、敵側に機密情報をもらした嫌疑をかけられ、00ナンバーを剥奪されてしまいます。
名誉挽回と、プライドにかけて、殺したムーン大佐の側近だったザオを追って、ボンドはキューバへ。
ここで、アメリカNSAが派遣した諜報員ジンクスが登場。
演じるのは、ハリ・ベリー。
アフリカ系の黒人女性としては、はじめてメインのボンド・ガールを演じることになります。
いやあ、彼女がなかなかカッコいい。
悪役ということなら、「美しき獲物たち」に登場したグレイス・ジョーンズが黒人でしたがが、かなり突き抜けたキャラでしたね。
しかし、ハル・ベリーは、かなりのの正統派。
彼女が、同じく黒人女性としては初めてアカデミー賞主演女優賞を獲得した「チョコレート」を見ていますが、こちらは本作のような派手さはなし。
社会の底辺で生きるシングル・マザーの役をしっかりと演じていました。
その彼女が、その翌年に出演したのがこの「ダイ・アナザー・デイ」。
「チョコレート」とは対極にあるような役ですね。
Wiki によれば、本様撮影中に、アカデミー賞の会場に出かけて行って、オスカーを受け取って、また現場に戻ってきたといいますから、こんなところもちょっとかっこいい。
前作の、ソフィ・マルソーもそうでしたが、いよいよこのシリーズも、世界のトップ女優をボンド・ガールに迎えるようになってきました。
そんなわけですから、本作のハル・ベイリーは、いままでのお飾り的存在のボンド・ガールではなく、しっかりと主役とタイマンを張った、セクシーで、たくましいボンド・ガールを演じていました。
そういえば、キューバの海岸での彼女の海からの登場シーンは、一作目のウルスラ・アンドレスが演じだハニー・ライダーの登場シーンを思い出させてニヤリ。
ザオは、このキューバで、DNAを操作することで、東洋人からドイツ人へと人種変換のオペレーションを受けていました。
ボンドとジンクスが、この治療センターを破壊したことで、オペレーションは未遂のままザオは逃走。
そして、ここから登場するのが、ダイヤモンドで財を築いたグスタフという青年富豪。
実はこの男が、朝鮮でボンドに殺されたムーン大佐だったというからややこしい。
ザオ以前に、すでにムーン大佐が人種変換のオペレーションを受けていたというわけです。
そして、グスタフの野望は、宇宙空間から、ダイヤモンドを利用した破壊レーザービームで地球を攻撃できる宇宙衛星イカルスで、世界を征服しようというもの。
設定も、段々と21世紀になってきてますね。
ん? ダイヤモンド? レーザー?
そうくると、やはり7作目の「ダイヤモンドは永遠に」にあった設定が、頭に浮かびます。
あれは自分の小遣いで初めてみた洋画でしたから、はっきり覚えています。
ついでに憶えているうちに過去作品へのオマージュを言っておくと、キューバに来る前の中国のホテルで、中国の諜報員がしかけたハニー・トラップで、ボンドとのベッドシーンを鏡の後ろから撮影しようとしていたシーンは、2作目の「ロシアより愛をこめて」から。
レーザー光線の中での、処刑するというシーンは、「ゴールド・フィンガー」からでしょうか。
新しい顔になったQの工房にあった秘密兵器の中に、「サンダーボール作戦」の冒頭で、ボンドの脱出シーンに出てきた一人乗りジェットパックがあってニヤリ。
「ロシアより愛をこめて」で、メイドに扮した、女スパイが使っていた、ナイフが飛び出る靴もありました。
懐かしい。
音楽も懐かしいのがありました。
北朝鮮の風景が映るシーンでBGM使われていたのは、日本を舞台にした「007は二度死ぬ」のサウンド・トラックにあった「山々の日没」。
これを録音したカセットを、しょっちゅう聞いていたので、ジョン・バリーのこのメロディはよく覚えていました。
こんな小ネタは、僕が見逃しているものも含めて、本作にはまだまだありそう。
映画ファンとしては、ニヤリとさせてくれる演出はたまりません。
さて、決戦の舞台は、グスタフの基地のあるアイスランド。
007シリーズのカメラが、初めて入ったところです。
氷に囲まれたグスタフの秘密基地で活躍するボンドの実密兵器の極めつけは、やはりなんといっても透明ボンドカー。
光学迷彩装置により、周囲の景色と同化して透明になるという仕掛けのアストン・マーティン。
ええ! SFではないのに、こんなことできるの!
遠隔操作機能や自動追尾散弾砲などの、おなじみのしかけも満載。
ちょうど、ロジャー・ムーア時代の「ムーンレイカー」が、007が宇宙にまで飛び出してしまって、スパイ映画としては行き過ぎだろうと思ったものですが、本作もややその感じが・・
007映画は、あくまでスパイ映画です。
未来志向が行き過ぎるとSFになってしまいますので、その辺りの加減が難しいところ。
まあ、映画ですから、面白ければ文句はありませんが。
未来志向といえば、ミス・マニーペニーやQなどのMI6のメンバーが殺されている現場で、ボンドが侵入者を追う・・えっ!と思いきや、これが00ナンバーを剥奪されていたボンドの復帰テストで、3DのVRヘッドセットの映像だったというシーンがありましたが、いかにもイギリスらしくてニヤリ。
ラストでは、ミス・マニーペニーがこれをかぶって・・
というわけで、ション・コネリーしか知らなかった、かつての007ファンが、ロジャー・ムーアのボンドから、製作年順に鑑賞を始めて、ピアーズ・ブロスナン4部作まで、追っかけてきました。
やはり、このシリーズは、男のエンターテイメントの王道だと思っています。
もちろん、女性ファンも多くいるでしょうが、基本的には、男の妄想を派手に実現してくれる映画。
申し訳ないですが、女性と一緒に観るのなら、違う映画を選ぶことにします。
さて、次作からは、いよいよダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドです。
いままでの、007シリーズの法則として、仕掛けや設定でいくところまでいったら、その次の作品は、原点回帰の肉体アクションに戻ることが多いのですが、さてどうでしょうか。
007 will return 「カジノ・ロワイヤル」!