武蔵野
「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。
国木田独歩の「武蔵野」の冒頭部分です。
のっけから、馴染みのある地名が並ぶので、おもわずニンマリ。
埼玉県入間郡は、かつての職場のあったところですし、小手指は自宅から会社に通う途中で、何度も通ったところ。
久米川は、仕事で露地の裏の裏まで、さんざん走り回りました。(運送会社勤務)
小手指ケ原の信号角にあるガストでは、よく出勤前にモーニング・セットを頼んでいましたね。
「武蔵野」は、国木田独歩が、1998年(明治31年)に発表した紀行文的エッセイ。
父親の職業の影響で、日本各地を転々とした彼は、この「武蔵野」執筆当時は、渋谷に住んでいました。
そして彼は、関東平野独特の自然と、人間の営みが調和のとれた形で共存していた当時の武蔵野の風景を求め、時には朋友を連れ立って、熱心に歩き回ります。
夏のある日、小金井のある茶屋で、老婆に「今時分、何にしに来ただア」といわれる独歩。
(小金井公園は、近くに住んでいたガールフレンドとよくデートしました)
「桜は春咲くこと知らねえだね」
彼は、桜の季節だけではなく、このあたりの夏の風景もまた素晴らしいものだと老婆に、とくとくと説明しますが、やがて諦めます。
これは、よく理解できますね。
旅人として、いろんなところへ行きましたが、たいていはその土地に住む人の多くは、その土地の景勝地には案外行っていないことが多かったりします。
その土地の自然を堪能しようという感性は、その土地に住む人にとっては、もはや当たり前過ぎる日常になっていて、旅人のようにはセンサーが働かないのかもしれません。
しかし、時が流れて、いつかその自然がなくなったり、あるいは、自分が遠く離れるようになって、改めて蘇るものかもしれません。
国木田独歩が、その流麗でリリシズムあふれる文章で語る武蔵野の自然は、明らかに「旅人の視線」です。
ちょっと話は脱線します。
養老孟翁の本に、自殺した中学生の女の子の日記について書かれた文章がありました。
彼が驚いたのは、その少女の日記には、一切の花鳥風月(自然描写)が書かれていなかったというんですね。
そこに書いてあるのは、自殺の原因となった、学校での出来事に終始としていたといいます。
養老翁の指摘はこうです。
「この女の子にとっては、世界の総てが学校だった。その学校が彼女にとって辛い場所になってしまったら、この子は死を選ぶしかなかった。」
この女の子が、もしも学校とは違う別の世界を持っていたなら、そこへ逃げ込むことで、精神のバランスは保てたかもしれない。
「いじめ」の問題は今に始まったことではありません。
人類はこの問題と、実は長年付き合ってきました。
あるいは、昔のいじめの方が、今よりもっと陰惨だったかもしれません。
ただいえることは、昔の人たちの周囲には、街にでさえ、今よりもはるかに豊饒な自然があったこと。
人間の社会とは別の「自然」という世界が、誰にとってももっと身近にあったということです。
つまり辛いことがあれば、誰もがそこへ逃げ込めた。
都会から自然が消えていったということと、都会の子どもたちの、いじめによる自殺が急激に増えたこととはけっして無関係ではないというのが、養老氏の指摘。
明治の文化人・国木田独歩がそうであったとは思いませんが、プロフィールをWiki した限りでは、ここにいたるまでの独歩は、妻とともに極貧生活を送っています。
そんな彼が、鬱屈した日々の暮らしのストレスから、つかのま解放されるために、自然と向かい合い、その浪漫あふれる文章を磨くことで、精神のバランスを保っていたこと、はなんとなく想像が出来そうです。
閑話休題。
首都圏で育った人たちの誰もがそうでしょうが、その母校の校歌には、必ず「武蔵野」という言葉が使われていたと思います。
では、国木田独歩のいう「武蔵野」というのは、どこからどこまでをいうのか。
これは、本文から引用。
「そこで僕は武蔵野はまず雑司谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。」
東京近郊に住むものにとっては、勝手知ったる名前が、120年以上も前のエッセイに、これでもかと登場してくれるので、嬉しくなってしまいます。
ちなみに、僕が現在住む川越も登場。
独歩によれば、このあたりはどうやら武蔵野エリアの北限のようです。雑司が谷や板橋には、学生時代の友人が下宿していましたね。
甲武鉄道というのは、今の西武鉄道の前身。
所沢や田無も、勤めていた運送会社のホームグラウンドでしたので、お庭のようなもの。
八王子が武蔵野に入らないというのは意外でした。
目黒から神奈川寄りになると、ちょっと遠くなりますが、まだビジュアルは浮かぶ範囲。
「東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。」
武蔵野東部になると、このあたりは、今度はわが父が家族と共に、若かりし頃住んでいたあたりです。
古い写真を見ると、このあたりの風景はよく出てきますね。
本作は、最初「いまの武蔵野」というタイトルで書かれていたそうです。
明治の「いま」ということになりますが、それでもその頃の武蔵野は、江戸時代以前の見渡す限り原野のような風景ではなかったはずです。
武蔵野の風景の名物いえば、やはり雑木林。
関東の雑木林といえば、主にクヌギやコナラなどの広葉樹で人工的・意図的に作られた林です。
つまり、雑木林は人間と自然のコラボレーションによる里山の風景。
北海道の原生林も知る国木田独歩が、より武蔵野の風景に詩趣を感じるのは、やはりそこに人々の息遣いを感じるからでしょう。
考えてみれば、人間と自然を分ける必要なんてもともとなかったわけです。
人間も含めて自然と考えるのは、むしろ当然のことでした。
これを分けて考えるようになってから、「環境」なんて言う言葉が生まれたのかもしれません。
さて百姓は、冬は家で読書する時間が長くなります。
恥ずかしながら、完全に太りましたね。
このコロナ騒動でまた、非常事態宣言も発令され、遠くへはいくなという行政からのお達しですが上等。
春になって、野菜作りが始まるまでは、近場の「武蔵野」をしっかりと散策して、シェイプアップすることにします。