エターナルズ 2021年アメリカ
ディズニープラスで、「見放題」になったばかりの作品を見ました。
2021年公開という映画は、本作が初めてですね。
まあまあ、すごい映画でした。
マーベルのスーパー・ヒーロー映画ですが、もちろんのこと、子供騙しの特撮などワンカットもなく、老若男女全ての人が、お金を払っても見に行きたいと思うような作品になっています。
どう逆立ちしても、今の我が国では作れないレベルの映画です。
本気になった、ハリウッド映画のポテンシャルを感じさせてくれます。
特殊能力を持ったスーパーヒーローたちが、それぞれの能力を駆使して、一致団結して、地球を悪の手から守るというのは、昔から子供向けSF冒険活劇の定番でした。
SFではありませんが、おそらくはこのスタイルの原型を作ったのは、黒澤明監督の不朽の名作「七人の侍」であったかもしれません。
一癖も二癖もある侍が集まって、農民と協力しながら、野盗の集団と戦って勝利を収めるという、この映画に、血湧き肉踊った人は、日本だけでなく、世界中にいるはずです。
やがて、このスタイルは、西部劇に翻案されたり、宇宙を舞台にしたりと、いろいろな設定に脚色されて、冒険活劇には欠かせないテンプレートになっています。
僕の世代で、一番最初にこのスタイルを見せられたのは、石ノ森章太郎の「サイボーグ009」だったかもしれません。
当然、「七人の侍」よりも先に見たのはこちらです。
世界中から集められた若者に、特殊能力を与えたサイボーグにして、地球を悪の手から守るというのがこのアニメの基本ストーリーでした。
地球を守るチームは、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」にも登場しましたが、なぜか全員日本人。
もちろん、テレビにかじりついて見ていた時には、それになんの疑問も感じませんでしたが、「サイボーグ009」はちょっと違いました。
主人公こそ、日本人でしたが、集められたメンバーは、アメリカ人、ドイツ人、中国人、黒人、インディアン、もちろん女性もいましたし、赤ちゃんまでいましたね。
日本のアニメではありましたが、ちゃんと地球規模の多様性を踏まえたキャスティングになっていたのは、今から思えば見事でした。
最近のアメリカ映画を見るにつけ、よく思うことが、この多様性に配慮した作品が、多く作られるようになり、また評価もされるようになつてきたということです。
アカデミー賞で、初めて韓国映画の「パラサイト半地下の家族」が、作品賞を受賞したのは記憶に新しいところ。
また、オール黒人キャストによる「ムーンライト」も、作品賞を取っています。
確かに、それまでのハリウッド映画には、白人至上主義みたいなところがありました。
何せ、アカデミー賞を選出する、アカデミー会員たちのほとんどが、高齢の白人男性であったわけですから当然といえば当然の話。
そして、映画を作るキャストも、演じる俳優も、中心となるのは当然白人です。
アメリカの映画史に名を残す傑作は、これまでにも数多く作られてきていますが、そのほとんどは、多様性に対する配慮はなく、見ているこちらは、映画とはそういうものだというように刷り込まれてしまっているところがあります。
しかし、アメリカの観客の方はどうかといえば、年を追うごとに、このバランスは変化してきています。
1990年代には7割近かった白人の割合は、移民などの増加により、次第に減っていき、2020年には、全体の半分近くにまで減少しています。
もちろん増加しているのは、ヒスパニック系や、アジア系、もちろん黒人も増えています。
そこの傾向を反映して、アカデミー賞にも、その傾向は反映するべきだという、問題提起が社会運動となり、前述の作品に賞が与えられるようになり、また来年からは、アカデミー賞の選考基準にも、多様性に配慮されたものという項目が正式に、追加されることにるようです。
本作が、このアメリカ映画のムーブメントに配慮して作られていることは一目瞭然。
なんといっても、監督に抜擢されたのが、アジア系の女性としては初めてアカデミー監督賞を受賞したクロエ・ジャオという中国人監督でした。
もちろん、「ノマドランド」でもわかるように、実力もある監督なのですが、ハリウッドのすごいところは、こういう大胆な起用を躊躇せずにやってくるあたりですね。
そして、出演者で言えば、アンジェリーナ・ジョリーというビッグ・ネームもキャスティングされていましたが、主演は彼女ではありませんでした。
このチームのリーダーを演じたのは、ジェンマ・チェンという中国系のアメリカ人女性です。
そして、チームの面々も、「サイボーグ009」に負けず劣らずの、超多様性キャスティング。
黒人、ヒスパニック系、メキシコ人、アジア系俳優をズラリと並べ、手話でコミュニケーションをする聾唖者もキャスティング。子供も一人。そして、この黒人はさらにゲイという設定で、LGBTQにもきちんと配慮。ちゃんと男性同士のキスシーンまで、当たり前のようにありました。
そして、各出演者の、映画内におけるスポットの当て方も、そして見せ場も、きちんとそれぞれに用意されていて、決して白人俳優の引き立て役みたいな事もありませんでした。
1960年代や70年代くらいまでのアメリカ映画に登場する日本人やアジア人は、唯一の例外ブルース・リーを除けば、どれもステレオタイプの描かれ方で、悲しくなるような演出も多かったのですが、途中で殺されてしまうものの、韓国人俳優ドン・リーの見せ場はなかなかのものでした。
この人は、韓国映画の「新感染ファイナル・エクスプレイス」で知っていたのでニンマリ。
そんなわけで、本作はむしろ、現在のアメリカ国内の人種別の人口割合から見れば、ちょっと多様性の方に、寄せ過ぎたキャスティングじゃないのかと思うくらいの印象すらあります。
本作には、日本人こそ、キャスティングされていませんでしたが、エターナルズが、人類の知恵の向上に協力した結果として、原爆投下後の広島の惨状が、ハリウッドの製作費を使って再現されていたのにはドキリとさせられました。
とにかく、それだけ多様性には配慮が行き届いていても、それで決してシナリオに無理矢理感があるわけでもなく、きちんとその設定に基づいた必然性に基づいて脚本が練られているあたりが、アメリカ映画の底力と言えるかもしれません。
映画を見る観客の層にきちんと寄せた映画づくりをすれば興行収入は伸びるものなのか、多様性に配慮をしたスタッフやキャストを集めて映画を作っても、ちゃんとヒットする映画を作れる底力がアメリカ映画にはあるのか。
そこらあたりは、単一民族の日本で、国内マーケットだけでも映画興行がそこそこ成り立つ国に住んでいるとなかなか理解できないところはありますが、世界に向けた映画製作事情は段々と変化してきているようです。
日本には、人種問題こそありませんが、部落問題や外国人労働者問題は厳然としてあります。
男女平等にしても、その推進は謳われてはいますが、夫婦別氏制度に対する政府の対応は、先進国で一番遅れていますし、その政治の世界を見渡せば、女性議員の進出は、掛け声ばかりで、その割合は一向に伸びません。
LGBTQ問題も、進歩的とは到底言えない状況。
世代問題にしても然り。
日本の高度成長を汗水流して支えてきた今のご老人たちが、その元を取るまでは、何がなんでも現役にしがみつくという風潮は、政治から経済界までに広く老害として蔓延しており、その煽りをまともに食らうことになる若者たちが、先の見えない未来にもがき苦しんでいます。
あれこれ考えれば、多様性を進歩的に取り入れる文化が、我が国に根付くのはほとんど絶望的。
古い成功体験にしがみついているだけの日本の凋落は、このCovid-19騒動の中で、さらにクリアに可視化されてきました。
こんな三流政治に支配されて、ただ世界から取り残されていくだけの落ち目な日本を救う多様性集団エターナルズは、果たして我が国には現れないのか。
無力な爺さん百姓としては、鍬を片手に、あの勇ましい「サイボーグ009」のテーマソングを口ずさみながら、それを祈るのみです。