さて困りました。
本作をちょうど読み終わり、読書レビューをしようと思うのですが、ネタバレで行くべきか、ネタバレご法度ルールは守るべきか。
本作が執筆されたのは1955年です。
ミステリーとしては、クラシックにカテゴライズされる古典ですから、ネタバレでも許されるかなという気もします。
本作に仕掛けられたトリックは、たった一つです。
これが最後のどんでん返しとなる展開ですから、これを語ってしまうと、これから読もうという方にはやはり怒られてしまいそうな気がします。
しかしながら、この衝撃的なトリックは、その後のミステリーで大繁盛。
手を変え品を変え、新しいアイデアを吸収しつつ、頻繁に登場するようになるわけです。
そう考えると・・・
おそらくそれらの作品からミステリーから先に読むようになったファンたちには、もはや本作のトリックは手垢のついたトリックにしか見えないかもしれません。
しかし、こちらの方が、この分野では先駆的作品であることはまず申し上げておきます。
僕の場合は、ミステリーを読む場合には、一切の前情報を入れないというマイルールが幸いしました。
とある小説の中に、このタイトルが出てきたのをメモしておいたのですが、それを偶然図書館の本棚で見つけたんですね。
ですから、なんの先入観もなく、この作品がは発表された1950年代のミステリーファンたちに、限りなく近い形で楽しめたわけです。
しかし、そうはいっても、本作が切り開いたこのジャンルのミステリーには、多少なりとも触れておりましたので、本作がクライマックスにたどり着く前には、このどんでん返しの予想がついてしまったというのは正直なところ。
それでも、作者マーガレット・ミッチェルの秀逸な心理描写と、深い人物造形描写はたっぷりと楽しめました。
本作は、主人公ヘレン・クラヴォーが謎の人物「イヴリン・メリック」から不可解な電話を受けることから物語が始まります。
電話の相手はヘレンの亡き父の財産管理を手伝うと申し出るも、ヘレンはそれを拒否。
すると、メリックは水晶の球に映るという不気味な予言を残し電話を切ります。
その夜、女の予言通りの怪我を負ったヘレンは恐怖に怯え、父の古くからの知り合いである投資顧問ポール・ブラックシアに助けを求めます。
ブラックシアは当初は乗り気ではありませんでしたが、ヘレンの深刻な様子を見て、結局メリックの追跡を手伝うことにします。
メリックがモデル志望であることを手がかりに、彼はリディア・ハドソンのモデルスクールを訪ねます。
はたして、イブリン・メリックとは何者か?
本作は、1956年にはアメリカ探偵作家クラブからエドガー賞最優秀長編小説賞を受賞し、ミステリー小説界での評価を確固たるものにしました。
このトリックは、当時のミステリー業界では画期的なものでたが、彼女が評価されたのは、トリックそのものの革新性よりも、純文学的と見まがう様な、その深層心理に迫る描写力によるところが大きかったと思われます。
というよりもこのトリックを小説で扱うのであれば、作者レベルの文章力は当然のごとく要求されると考えた方がよさそうです。
ミラーは、女性の心理や人間関係の複雑さを描くことに長けており、特に孤独、疎外感、失望といったテーマを深く掘り下げる作風で知られています。
本作では、1950年代のロサンゼルスという社会的制約や抑圧が色濃く反映されており、それが登場人物たちの心理的葛藤や行動に影響を与えています。
この時代背景とミラー自身の鋭い観察力が、物語全体の基盤となっているんですね。
おそらくミラー自身が観察した1950年代アメリカ社会の抑圧的な側面や、人間心理への深い関心から生まれた、彼女の鋭い洞察力と革新的な作風が、この小説を単なるミステリーではなく普遍的な人間ドラマへと昇華させています。
中産階級のロサンゼルスを舞台に、当時の社会的制約や抑圧が人々の魂に与える影響を、本作は深く掘り下げています。
主人公のヘレン・クラーヴォーは、30歳の裕福な独身女性という設定で、1950年代の「古い独身女性」というステレオタイプを体現しています。
1950年代、女性たちは20代前半までに結婚することを強く期待され、そうでない場合は「老嬢」というレッテルを貼られました。
ヘレンの孤独な生活は、当時の社会規範から外れた女性が直面した疎外感を色濃く象徴しています。
個人的には、1950年代のアメリカ映画は浴びるように見た世代ですが、物質文化に享楽し、地球上で唯一この世の春を謳歌していたアメリカのリッチなライフスタイルばかりに目が行ってしまったのは否めないところ。
しかし中には、この現実にしっかり目を向けたテネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」のような映画があったことも確かです。
本作には、ヘレンの兄であるダグラスが同性愛者として描かれます。
1950年代のアメリカはまだ伝統的な性別役割が理想とされた時代であり、同性愛はその価値観に反するものと見なされていました。
同性愛は「性的倒錯」や「道徳的堕落」として広く認識されており、多くの人々がそれを犯罪や精神疾患と同一視していました。
この社会の偏見の視線が、ダグラスの悲劇へとつながります。
ヘレンの女性としてのトラウマも作者はしっかりと描いています。
彼女は、父親から愛情を十分に受けていません。
彼女は家族からの恨みや疎外感を抱えながら育ち、その結果として自己評価が低下。
精神的な不安定さを抱えるようになりました。
物語が進む中で、ヘレンは元親友のエヴリン・メリックに対する嫉妬や劣等感を抱くようになります。
エヴリンは自由奔放で魅力的な人物であり、ヘレンはその対極に位置する存在として描かれています。
そして、父親から言い放たれる最低の罵倒。「おまえがイブリンだったらなあ。」
このような心理的ストレスが、やがてイヴリンに対する屈折した嫌悪へと育っていきます。
本作を読んでいるうちに、頭に蘇ったドラマがあります。
1996年に大竹しのぶ主演で撮られたNHK総合テレビのドラマ「存在の深き眠り」です。
このドラマのサブタイトルや、あらすじを紹介してしまうと、そのまま本作のネタバレになりますので、ここでは紹介するのみにしておきます。
このテーマを扱った作品の中では、個人的には、どの映画よりも、どのドラマよりも秀逸でした。
1950年代に芽吹いたこの分野のサイコ・ミステリーは、現代社会の持つ闇を潜り抜けて、ここまでの人間ドラマが描けるまでになったんだと感慨深い思いです。
なにやら、ネタバレに慎重になって書いていたら、なんともまわりくどい読書レビューになってしまいました。
その点はどうかひらにご容赦。
もうここまで書いてしまったのでついでに加えておきますが、高山薫氏の「マークスの山」や、殊能将之氏の「ハサミ男」もこのジャンルのミステリーでは抜群の面白さです。是非ご一読あれ。(映画もあります)
でも、もう一度言いますが、こちらはそのパイオニアなのでお忘れなく。
ですから本作も、この分野の古典として是非とも読んでミラー。
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