宮部みゆきが、現代日本を代表する小説家であることに異論を唱える人はいないでしょう。
ミステリー、時代小説、ファンタジー、ジュブナイルなど幅広いジャンルで活躍し、それぞれの分野で数々の文学賞を受賞しています。
彼女の小説は「文体のクセがなく、非常に読みやすい」ことが特徴。
日常の細部にまでこだわったリアルな描写と、緻密な心理描写、社会問題への鋭い視点が多くの読者に支持されています。
岡田斗司夫氏も、自身のYouTube動画で、「いま日本で最も文章が上手い作家」であると力説していました。
個人的には、昨年「R.P.G.」を読んでいるだけなので偉そうなことは言えませんが、彼女の小説を原作とした映画やドラマはかなり見ていますね。
僕のミステリーを読む基本的なスタンスは、「ビックリしたい」「騙されたい」ですので、一度映像作品を見てしまったら、その原作はスルーするのですが、本作に限っては例外。
2004年に大林宜彦監督が映像化したものをWOWOWで録画。関係者の証言だけで構成された主人公のいないミステリーという実験的なアプローチは、まずは映像作品として興味津々で鑑賞しておりました。
そして、映画を見た後でも、この斬新なスタイルを、宮部みゆき女史の達者な筆はどう描いていくのかは「作文オタク」としてはかなり気になった次第。
なので、本作は新潮文庫がら刊行されたタイミングで、ゲットしてありました。
いつか映画の記憶が、だいぶ薄れたタイミングで読んでみようとずっと思っていたわけです。
最近の女史は、ファンタジーや時代小説にも非凡な才能を開花させていますが、学生時代に、松本清張や森村誠一の社会派ミステリーの洗礼を受けた身としては、彼女のキャリア初期における、当時の社会に鋭いメスを入れたミステリー作品がどうしても気になってしまいます。
「火車」「パーフェクト・ブルー」「ソロモンの偽証」「長い長い殺人」など、この分野での彼女の傑作は多いのですが、やはり本作は、第120回直木三十五賞を受賞したこともあり、このジャンルの白眉と言っていいでしょう。
本作は、1996年から1997年にかけて「朝日新聞」夕刊に連載され、1998年に単行本として刊行されました。
舞台は東京・荒川区の高級高層マンション「ヴァンダール千住北ニューシティ」。
そのウエストタワー2025室で、4人の死体が発見されます。当初は家族の無理心中や殺人事件と見られましたが、捜査が進むにつれ、4人は実は赤の他人であり、なぜ彼らが家族を装い同居していたのか、なぜ殺害されたのかという謎が浮かび上がってきます。
物語は、事件の関係者や周辺人物へのインタビューを重ねるドキュメンタリー的手法で進行。
主人公も名探偵も登場しません。
数十人に及ぶ登場人物の視点を通して、事件の真相とその背景にある現代社会の闇や家族の問題が徐々に明らかになっていきます。
本作には、発表当時の日本が抱えていた深刻な社会問題を巧みに織り込まれています。
作品の背景には、バブル経済崩壊後の「失われた10年」がもたらした社会の歪みや人々の価値観の変化があり、実際に起きた事件を彷彿とさせるテーマが色濃く反映されています。
作中で殺害された「小糸一家」は、一見すると幸福なエリート家族ですが、実際には家族間のコミュニケーションが断絶し、それぞれが問題を抱えています。また、事件に関わる様々な「家族」が一応に崩壊状態にあります。
核家族化の進行と地域社会の崩壊も、宮部女史は丁寧に描いていきます。
隣近所との付き合いも希薄になり、家族という単位が社会から孤立してきた時代が、本作には確実に反映されています。
個人の価値観の多様化と世代間のギャップも見事にキャッチ。
経済的な豊かさの一方で、家族内でも個々の価値観が多様化し、かつてのような「家族」という一体感や役割意識が揺らぎ始めていた現状も、作者は関係者の証言の中に巧みに忍ばせています。
物語の中で、登場人物たちは「怒り」「絶望」「罪悪感」「贖罪」など、さまざまな感情を絡ませ合いながら、次第に読者を真実へと誘導していきます。
思い起こせば、1990年代には、家庭内での深刻な事件が世間の注目を集めました。
1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)は、少年の不可解な内面世界と家庭環境との関連が盛んに議論され、社会に「家族とは何か」「子どもの心の闇」という大きな問いを投げかけました。
バブル経済崩壊と住宅ローン問題も、本作の重要な背景になっています。
物語の主要な舞台となるヴァンダール千住北ニューシティは、バブル期に計画された巨大高層マンションであり、人々の「夢」や「見栄」の象徴として描かれています。しかし、その実態はローン破綻や差し押さえといった、バブル崩壊後の厳しい現実と隣り合わせでした。
そして、抵当権をもとに競売に出されたマンションにうごめく、占有屋たちの黒い影。
当時、マイホーム神話の崩壊は深刻でした。
バブル期には、多くの人々が将来の収入増を見込んで高額な住宅ローンを組み、都心や郊外にマンションや一戸建てを購入しました。しかし、バブル崩壊による地価の暴落と長期不況により、給与は上がらず、リストラが横行。住宅ローンが返済できなくなる「ローン破綻」が社会問題化したわけです。
マンションの購入価格やローンの有無が、住民の間に見えない階層を生み出している様子も描かれており、経済格差の広がりはそのまま、現在にまで続いています。
1997年には山一證券や北海道拓殖銀行といった大手金融機関が相次いで破綻し、日本の金融システム全体が大きく揺らぎました。このような経済的な閉塞感が、作品全体の重苦しい雰囲気の根底には確実に流れています。
将来に希望を持てない若者のアイデンティティの揺らぎとフリーターの増加も、当時の社会問題でした。
事件の重要な役割を担う若者たちは、定職に就かず、目的意識を持てないまま日々を送る「フリーター」として描かれています。彼らの姿は、当時の若者たちが直面していた閉塞感を象徴するように描かれています。
本作は、一つの架空の事件を通して、犯人個人の「動機」を追及するのではなく、事件を取り巻く無数の人々の声に耳を傾けることで、なぜこのような悲劇が起きなければならなかったのかを、多重構造で重厚に解き明かそうと試みた作品です。
バブル経済の熱狂とその後の崩壊がもたらした「家族」「住宅」「雇用」といった社会の根幹を揺るがす問題。
それらが複雑に絡み合い、ごく普通の人々を犯罪へと向かわせてしまう現実を、本作は冷徹な、しかし共感の視点を持って描き出しました。
この作品は、1990年代という特定の時代を映し出しながらも、現代社会にも通じる普遍的な問題を内包しています。
現実問題、本作が提示した社会の歪みは、2025年現在、なにひとつ解決していないわけです。
YouTube動画で、宮部みゆき女史と成田悠輔氏の対談がアップされていました。
なかなか面白かったので内容を抜粋します。
宮部氏曰く、エンターテインメント小説は「愛すべし非生産性」を持つとのこと。
「不要不急」と言われることもある小説だが、「愛してくださる方には愛してもらえるし、仕事している私たちもやっぱり愛があって仕事している」と、その本質に言及しています。
小説は映画や音楽、コミックと比べて経済的なインパクトは小さいかもしれないが、読者との間に濃密な「愛」が成立する点にその価値があるとのこと。
大震災やオウム真理教事件、パンデミックといった社会の大きな出来事のたびに、エンタメ小説家は「自分たちは非生産的だ、何にも役に立たない」と感じながらも、その「非生産的な楽しみ」にあえてこだわってきた歴史があるとおっしゃっていました。
宮部女史は、物語は「社会の中から自然に湧いてくる」ものだと述べていました。
特にミステリー作家は、社会の混乱や謎を物語として昇華し、解決を提示することで読者に安らぎを与える役割があることを示唆しています。
宮部氏の創作の原点は「ミステリーが好きで、たくさん読んでいると、ちょっと自分も真似して書いてみたくなる」というシンプルな好奇心だそうです。
純文学のように自己表現を追求するのではなく、読者の反応を重視する姿勢こそ、ミステリーというジャンルの本質と合致するとのこと。
面白かったのは、彼女は、自身を「短編作家」と認識していること。
大長編もたくさん執筆されていますが、彼女の中では、どんな長編も、基本的には短編の組み合わせで構築しているのだそうです。
本作も、600ページを超える長編ですが、確かに、一つ一つの家族のドラマが有機的に絡まって構築された短編集という読み方もできます。
今後は、高齢化社会において、「シルバーの世代の皆様方に楽しんでもらえる作品を作っていくこと」が、自身の世代の仕事だと考えているという発言は、前期高齢者にとってはうれしい限り。
社会派ミステリー好きとしては、宮部女史には、現代日本の暗部をえぐるようなミステリーをどんどん描いてほしいところですが、彼女が今構想を温めているという、女性の視点で描いた戦国時代小説というのも興味の湧くところ。
日本一の小説の達人の創作エネルギーが、いったいどこへ向かうのか。
まだまだそのアイデアは尽きないようです。
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