本来ならIMAXシアターで見るべきなのでしょうが、貧乏百姓は、Amazon プライムで鑑賞。
本作は公開からほぼ1年が経ちましたが、2024年を代表する映画としての地位をしっかりと獲得しています。
なんといっても世界興行収入は10億ドル(約1400億円)を突破。伝記映画・第二次世界大戦映画として歴代1位の記録を樹立しました。
日本にとってはセンシティブな内容を扱った映画でしたが、2024年3月29日の日本公開から約3か月で興行収入18億円超、観客動員数は116万人を突破。IMAX上映ではノーラン監督作品史上最高の週末記録を達成しています。
第96回アカデミー賞においても、作品賞、監督賞(クリストファー・ノーラン)、主演男優賞(キリアン・マーフィ)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、撮影賞、編集賞、作曲賞の最多7部門受賞。
その他、ゴールデングローブ賞をはじめ、様々な映画賞を獲得しています。
「バーベンハイマー」現象(同時期公開の『バービー』との比較・話題化)や、IMAXモノクロ・アナログ撮影など映画技術面でも注目されました。
本作は、第二次世界大戦中にアメリカで進められた極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を主軸に、理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマーの栄光と苦悩、そしてその後の人生を描いた伝記的歴史ドラマです。
本作の原作は、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによる評伝ノンフィクション『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』
原題は、American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer)です。
2005年にアメリカで出版され、2006年にはピューリッツァー賞(伝記部門)を受賞した名著です。
プロメテウスは天上の火を隠して地上にもたらし、人間に火を与えたギリシャ神話の神様。この行為によって人類は暖をとり、食物を調理し、文明や技術の発展の基礎を得たとされます。
しかし、この行為に怒った主神ゼウスは、プロメテウスをカウカソス山の山頂に鎖で繋ぎ、生きたまま毎日鷲に肝臓をついばまれるという拷問を与えました。
言うまでもなく、プロメテウスを、人類に核爆弾を与えたオッペンハイマーになぞらえているわけです。
ならば、彼に与えられる拷問とは。
本作は、25年にわたり、関係者や家族の証言、膨大な史料をもとにオッペンハイマーの生涯を丹念に描いた大作です。
3時間にも及ぶ長編映画ですが、ほぼ会話劇として進行する本作の中に織り込まれた情報は膨大な量になります。
おそらく誰が見ても、一度見ただけで本作を理解することは不可能。
しかし、わからなくても、「見せどころ」と「見せ方」を心得た、ノーラン監督の熟練の語り口で、三時間という長尺は感じさせません。
異なる時間軸を自由に操って、時系列をシャッフルするノーラン監督の匠の技は本作でも健在。
本作は、伝記映画ですから、オッペンハイマーをめぐる、様々な実在の人物が実名で登場します。
ニールス・ボーア、アルバート・アインシュタイン、エドワード・テラー、イシドール・ラビ、アーネスト・ローレンスなど、ノーベル賞受賞者を含む多数の著名な科学者たちです。
この綺羅星のようなの登場人物を、ノーラン監督は、二つの時間軸を使って描き分けます。
まず一つ目の時間軸は、フィッション(核分裂)と命名されたパート。
このパートは、オッペンハイマーの主観で描かれるカラー・パートです。
このパートで描かれるのは、1954年のオッペンハイマー聴聞会がベースになります。
これは、アメリカ原子力委員会(AEC)によるもの。
この聴聞会は、彼がソ連のスパイである疑惑や共産主義者との関係、水爆開発への反対などを理由に、国家機密への関与資格を剥奪するかどうかを審査するものでした。
この聴聞会により、オッペンハイマーの半生が白日の下に晒されることになります。
証人は39名にのぼり、オッペンハイマーの研究仲間や著名な物理学者も証言しました。
共産主義者との関係、水爆開発への反対と、その確信犯的遅滞行為、ソ連のスパイ疑惑(ただし証拠はなし)、
機密保持義務違反(友人を通じたスパイ疑惑の報告遅延など)などが聴聞の対象となりました。
この聴聞会は密室で行われ、正式な裁判ではなく身辺調査の手続きの一環でしたが、この聴聞の結果、オッペンハイマーは国家機密へのアクセス権を剥奪され、公職から追放されることになります。
但し、1963年になってアメリカ政府はオッペンハイマーにフェルミ賞を授与し、名誉回復を図ることになります。
この聴聞会におけるカットバックの形で、彼の生い立ちからマンハッタン計画、そして原爆投下後の時期が描かれていきます。
このパートでは、青年期から壮年期における彼の内面的な葛藤や感情が、愛人問題も含めて、エモーショナルに表現されます。
もう一つのパートは、フュージョン(核融合)と命名されたパート。
ルイス・ストローズの主観で描かれるモノクロ・パートです。
ルイス・ストローズは、アメリカの実業家・政治家であり、特にアメリカ原子力委員会(AEC)第3代委員長として知られる人物です。彼は水素爆弾開発推進の中心人物であり、冷戦期のアメリカ核政策に大きな影響を与えました。
ストローズは、オッペンハイマーと激しく対立しました。
オッペンハイマーが水爆開発に慎重だったのに対し、ストローズは即時開発を主張し、水面下で聴聞会を画策し、最終的にオッペンハイマーの機密アクセス資格を剥奪し、政府の仕事から追放することに成功します。
この一連の動きは、アカデミックな素養を持たず、叩き上げでこの地位を得たストローズを、オッペンハイマーに見下されたことによるストローズの個人的な復讐心によるものとされています。
ルイス・ストローズ公聴会は、1959年にアメリカ上院で行われた、ストローズの商務長官(日本の経済産業大臣に相当)指名承認をめぐる公的な審問です。
この公聴会は、ストローズの経歴や適性だけでなく、過去の行動、特にオッペンハイマー追放事件や原子力政策に関する姿勢が厳しく問われたことで知られています。
ストローズは「事実の歪曲や隠蔽」「敵対的な態度」など性格面でも問題視され、公聴会後、上院本会議での投票は49対46でストローズの商務長官就任は否決されました。これは1925年以来、初めてとなる大統領による閣僚指名否決という異例の出来事でした。
この公聴会と否決によって、ストローズは「満天下に恥をさらす」ことになり、以後公職に就くことはありませんでした。
映画の中でも、この公聴会がストローズの人生の転機として描かれ、オッペンハイマーとの確執や権力闘争の帰結として、ストローズ自身が追い詰められる場面が重要なドラマとして描かれています。
オッペンハイマーを追放した、ストローズもまた、公職を去ることになったわけです。
ルイス・ストローズ公聴会は、アメリカ現代史における「政争」と「科学と権力の相克」を象徴する事件でした。
この二つの時間軸を、ノーラン監督は時系列をシャッフルしながら巧みにブレンドして映画を進行させます。
観客は多角的な視点からオッペンハイマーの人生と、彼を取り巻く複雑な状況を理解することができます。
モノクロパートが「最新」の時系列であるという構成も、また物語に深みを与えています。
本作のハイライトとなるのは、マンハッタン計画とトリニティ実験でしょう。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる原爆開発を阻止するため、アメリカで極秘に進められたのがマンハッタン計画です。
オッペンハイマーはロスアラモス国立研究所の所長としてこの計画を主導し、人類初の核実験「トリニティ実験」を成功させます。この実験シーンは、映画の最大のハイライトの一つであり、CGを使わないリアルな描写と緊張感が特徴です。
実物嗜好のノーラン監督も、まさかこれだけは、ホンモノを使うわけにはいかなかったでしょうが、それでも可能な限り、実際の火薬に工夫を加えて、リアルな実写映像にこだわったとのこと。
ナチス・ドイツの降伏後、原爆開発の当初の目的であった「ナチスを止める」という大義が失われたにもかかわらず、オッペンハイマーはプロジェクトを継続します。
これは、世界に原爆の存在を知らしめることで、次の戦争で核兵器が使われることを防ぐという新たな目的(あるいは自己正当化)が生まれた瞬間として描かれます。
このシーンでのオッペンハイマーの「真っ黒な服装」は、彼の道義的な変化を象徴していると読めます。
映画では、広島と長崎への原爆投下シーンは直接的に描かれません。
これは、オッペンハイマーの主観に基づいた描写というコンセプトに沿ったものであり、彼がラジオのニュースでその事実を知ったという史実に忠実な表現です。
一方で、原爆投下を巡る会議の様子や、トルーマン大統領とオッペンハイマーの会話を通じて、アメリカ政府の想像力の欠如や、核兵器がもたらす悲劇への無関心が示唆されます。
被爆地の描写がないことについては議論を呼んでいますが、これは正直、日本的な視点だと感じます。
もちろん、日本人がそういう不満を持つことは理解できます。
しかし、これは日本だけではなく、全世界をターゲットにしたエンターテイメントです。
クリストファー・ノーラン監督の演出意図が、徹底的にオッペンハイマーの視線に寄り添っていることは明白。
であれば、彼が実際に目にしていないはずの、広島と長崎の惨状は、彼の脳内ビジュアルで描かれてしかるべきでしょう。
その代わりに、トリニティ実験については、映画的エモーションを最大限に駆使し、詳細に描かれます。
これは、映画を鑑賞する側も、この映像をベースに、原爆投下を、オッペンハイマー同様、それぞれの脳内でイメージしてほしいと言うメッセージが込められている気がします。
被害の映像や具体的な被爆者の姿を見せないことで、観客は「何が起きたのか」「自分ならどう感じるか」を自ら考えざるを得なくなり、傍観者としての自分自身の立場や責任についても意識させられることになります。
ここにノーラン監督の狙いがあると考えれば、広島、長崎の映像がないことは、映画的には大いに納得できます。
ちなみに、オッペンハイマーは1960年年に来日して、東京、大阪、京都を訪問していますが、広島には足を向けていません。
但し、1964年に、アメリカを訪れた原爆被害者の遺族に面会し、涙ながらに謝罪したという記録が残っています。
映画の重要なキーワード「連鎖反応」は、核分裂反応だけでなく、核兵器開発競争が核の拡散を呼び、世界を不安定な平和状態に陥れる現状をも示唆しています。
ソ連の原爆実験成功を機に、水爆開発が推進され、冷戦時代の核開発競争が激化していく様子が映画では描かれます。 オッペンハイマーは、水爆開発には断固反対の立場を取りますが、その試みは成功せず、世界は核兵器によって脅し合う「相互核消破壊(MAD)」という脆弱なバランスの上に成り立っている現状へと至ります。
映画のラストシーンでは、オッペンハイマーが核兵器による「連鎖反応」が地球規模で止まらず、核で脅し合う脆弱な平和が続いている現状に絶望する姿が描かれます。
そして、エンドロール後もこの「バッドエンドの続き」を生きているのが現代の私たちであると示唆されます。
クリストファー・ノーラン監督の映画『ダークナイト』で、印象的なシーンがありました。
ゴッサム市民と囚人たちがそれぞれ別々のフェリーに乗せられ、脱出を図ります。
ジョーカーは両方の船に爆弾を仕掛け、さらに「相手の船を爆破できるスイッチ」をそれぞれの船に渡します。
ジョーカーの仕掛けたルールは、午前0時までにどちらかの船が相手の船のスイッチを押せば、その船は助かる。どちらも押さなければ、両方の船が爆発する。
一般市民の船では、多数決でスイッチを押すかどうかを決めることになり、激しい議論が巻き起こります。
囚人の船では、一人の囚人が「自分たちが相手を殺すべきではない」として、スイッチを窓の外に投げ捨てます。
結局、どちらの船もスイッチを押さず、爆発は起こりませんでした。
ジョーカーは「人間は極限状態で自分の命のために他人を犠牲にする」と信じていましたが、最終的にその予想は裏切られることになります。
このシーンが、本作のラストにおいては、絶望的に描かれてることに気がつきました。
ゴッサム市民と、囚人たちの船は、核保有国の双璧であるアメリカとソ連へとスケールアップ。
ジョーカーが仕掛けた爆弾は、もちろん核爆弾です。
『オッペンハイマー』のラストは、『ダークナイト』の船のゲームで提示された核心的なテーマ「人類は自らを破滅から守れる倫理性と英知を持っているのか? それとも恐怖と不信、そして破壊への誘惑に最終的には負けるのか?」を、核兵器という歴史的現実と、冷戦構造というグローバルな文脈に置き換え、かつてない重みと絶望感をもって描き直したものと言えます。
ノーラン監督は本作で、『ダークナイト』でジョーカーが挑発した「人間の本性」への根源的な問いを、より深遠で重い歴史的・哲学的なレベルで再考させているわけです。
ラストの核分裂の連鎖反応のイメージは、『ダークナイト』の爆破装置のボタンが、制御不能に増殖し、世界全体を飲み込みかねない脅威へと変貌した姿を象徴的に表していると言えるかもしれません。
2025年1月時点で、地球上に存在する核爆弾(核弾頭)の総数は約12,241発と推定されています。この数は、前年よりも減少していますが、依然として非常に高い水準です。
保有国は9カ国(アメリカ、ロシア、フランス、イギリス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮)で、約90%をアメリカとロシアが占めています。
この「総数」には、実戦配備中・予備・退役(解体待ち)すべての核弾頭が含まれます
映画ファンとしては、スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」のラスト・シーンが、実現しないことを祈るのみ。
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