小説『グリーン家殺人事件』(原題:The Greene Murder Case)は、S・S・ヴァン・ダインによる1928年発表の長編推理小説。
名探偵ファイロ・ヴァンスが活躍するシリーズの第3作です。
順序は違いますが、ヴァン・ダインの作品で先に読んでいるのは、4作目の「僧正殺人事件」。
本作の探偵役であるフィロ・ヴァンス、マーカム検事、ヒース部長刑事が活躍する作品で、作品内で、本作のことが触れられていたのを思い出します。
ヴァン・ダインの作品の中では、本作は「僧正殺人事件」と並ぶ傑作という評価なので、今回手に取った次第。
グリーン家はかつての大富豪トバイアス・グリーンの遺言により、家族全員が25年間同じ屋敷で暮らさなければ財産を相続できないという奇妙な条件のもと、重苦しい雰囲気の中で同居を続けています。
この異様な環境が家族間の不和や緊張を生み、決定的な物語の背景となっています。
夫の全財産を相続したミセス・グリーンが家長。しかし彼女は、器質性麻痺で寝たきり老人です。
この母親が、完全に母性愛を欠落させている人物で、息子や娘たちを嫌味タラタラこき下ろす姿が尋常ではありません。
そして、そんな母親に育てられた子供たちもまた、人間性をかなり欠損しており、そこには兄弟愛も育まれなければ、親子愛もありません。
誰が誰を殺しても、けっして不思議ではないという異様な雰囲気が、グリーン家には漂います。
雪が降り積もる初冬のニューヨーク。悲劇が幕を開けます。
物語は、長女ジュリアが射殺され、養女エイダが負傷するという事件から始まります。
当初は強盗の犯行と見なされますが、やがて兄チェスター、弟レックス、さらには母親までもが次々と殺害され、家族は一人また一人と減っていきます。
オーソドックスなミステリー・ファンとしては、読んでいてちょっと心配になってしまいました。
このペースで殺人が続いたら、結局、最後に残った一人が犯人ということになってしまうのでは?
そうなってしまうと、ミステリーとしては、あまりにわかりすぎやしまいか。
こちらとしては、古典クラシックのミステリーは、名探偵が、居並ぶ関係者を前にして、犯人のトリックを暴き「犯人はお前だ!」と名指しして溜飲を下げるのがお約束だろうと思っているわけです。
一家が皆殺しされて、最後に残ったひとりが犯人ということになると、推理小説として成立するのか。
名探偵は、いったい何をしていたのか。
それともまさか、本当に強盗の仕業? それとも屋敷の使用人の中に犯人が?
ここで、頭をもたげたのが、本作の作者ヴァン・ダインによる「探偵小説作法二十則」です。
これは、ノックスの十戒と並んで推理小説の基本指針としてつとに有名。
この二十則は、推理小説のフェアプレイ精神を重視し、読者が探偵と同じ条件で謎解きを楽しめることを目的としており、発表されたのも本作と同じ1928年。
ここに上げた作法を、まさか本人自身がミステリー作家として無視するわけにはいかないはず。
二十則の中には、ちゃんとこういう項目があります。
〇 探偵自身や探偵役が犯人になることは許されない。
〇 犯人は物語の序盤から登場している重要な人物でなければならない。
〇 使用人などの端役を犯人にしてはならない。
〇 プロの犯罪者(職業的犯罪者)を犯人にしてはならない。
つまり、探偵はもちろん犯人ではないし、グリーン家の使用人の中にも犯人はいない。
そして、強盗も犯人ではないと言っているわけですから、当然犯人は、序盤から登場しているグリーン家の中にいることに。
すると、残っている家族は・・
犯人は、案の定最後は二者択一になってしまうのですが、それでも作者は、盛んにミスリードを仕掛けたり、カーチェイスの大捕物をかませたり、長編ミステリーのクライマックスを、サプライズも含め、不可なく盛り上げてくれます。
物語の解決編の前で、探偵フィロ・ヴァンスは、そこまでの事件の推移を整理し、未解決の謎を、時系列に沿って98項目をパズルのピースとして書き出します。
これは親切でした。一応、こちらもメモ書きしたり、iPadにマーカーを入れて読んではいるのですが、これにより、そこまでの展開と未解決の謎が頭の中で、かなりクリアになりました。
犯人は犯罪者としては素人であるにもかかわらず、プロ並みの犯罪テクニックを駆使して、グリーン家皆殺し作戦を遂行していきます。探偵や警察も、犯人に翻弄され、振り回されっぱなし。
しかし、これを読者に納得させる「仕掛け」を、作者はきちんと用意していました。
この仕掛けは、後のエラリー・クイーンの大傑作「Yの悲劇」に影響を与えたかもしれません。
そして、チラチラと脳裏に浮かんだのが、中学高校時代に読み漁った横溝正史作品への影響ですね。
本作では、その根底に流れているのが、一族の暗い過去が現在の惨劇の根源にあるという設定。
これは、おもえば横溝正史の十八番でした。
横溝作品では、このテーマを、日本の封建的な家制度の残滓や戦後の混乱、財産争いの文脈で深化させました。
彼の特徴である「因縁」「宿命」「血の祟り」という重いテーマは、グリーン家の呪われた要素をより濃厚に、より日本的・土着的な怨念や祟りの物語として昇華させていると理解できます。
市川崑監督が、映画化した横溝作品で、名探偵・金田一耕助を演じたのは石坂浩二。
しかし、最終的に事件は解決するものの、殺人を未然に防げなかったという意味では、彼の冴えない風貌も相まって、この金田一を名探偵と呼ぶのはいかがなものかと思ったものでした。
本作におけるフィロ・バンスもまた然り。
探偵役が事件を未然に防ぐ努力をあまり見せず、事件が進行するのを「見守るだけ」になっていること、また犯人も「いくらなんでも殺しすぎ」と感じられるほど動機やリスクに見合わない行動を取ることに、多少の違和感はありました。
本作に、あえて苦言を呈せば、多くの登場人物の行動が、物語を面白く見せるために「作者に動かされている」印象が強いという点は否めないかも。
たとえば、第一の事件以降に警戒が強まっているにもかかわらず、次々と事件が起こる点や、犯人が危険を冒してまで殺人を繰り返す点など、「現実的な合理性」よりも「連続殺人劇としての演出効果」が優先されているため、読者から見ると「おいおい、威勢よく殺しすぎだろう」と引いてしまう結果になったかもしれません。
しかし、短編ならいざ知らず、長編ミステリーを、たった一人の殺人の謎解きだけで持たせようというのは至難の業かもしれません。
景気よく人を殺した方が、読者ウケをするのは無理もないこと。
登場人物を皆殺しにして、ミステリーとしても成立させたアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」という
稀有な成功例はありますが、この作品に探偵役はいません。
探偵を主人公にしたミステリーで、あまり派手に人を殺してしまうと、探偵の能力が疑われてしまうのは必至。
長編ミステリーにおいて、探偵のキャラを立てつつ、最後まで読者を飽きさせずに引っ張るためには、何人くらい殺すのが妥当か。それとも、ドラマ性を膨らませて、読者をミステリー以外の興味で引っ張るか。
これは、世界中のミステリー作家が、頭を悩ますところかもしれません。
本作は、1920年代当時のミステリーとしては、時代の空気を読んだ作品だったといえるかもしれません。
世界史を紐解けば、本作が発表された翌年10月に、ニューヨークの株式市場で株価が大暴落。
20世紀最大規模の世界恐慌がはじまりました。
一瞬にして、手持ちの株が紙切れ同然になった人たちは、ほとんどお手上げ。
「ヴァンダイーン! 」
コメント