2022年11月13日 日曜日
コロナ禍で2年見送られていた川越の伝統行事が3年ぶりに復活。
2022年11月13日 日曜日
コロナ禍で2年見送られていた川越の伝統行事が3年ぶりに復活。
衝撃の安倍晋三銃撃事件で日本中が動揺している中、自分では何も積極的に行わず、波風を立てないことだけで政権維持だけを考えていた岸田首相が、こともあろうに、国会の承認を経ずに、閣議決定だけで決定してしまったのが安倍晋三氏の国葬です。
岸田首相は当初から、国葬と言う呼称はせずに、「国葬儀」などという、微妙な言い回しをしていましたが、面倒臭いので、以下は国葬と呼ぶことにします。
銃撃のタイミングが、参議院選挙最終盤という、大変デリケートな時期だったため、事件背景の公表については、メディアも野党も与党も、発言には大変慎重でしたが、その裏にあったものが、銃撃犯人である山上容疑者の個人的怨恨であり、人生を滅茶苦茶にされた統一教会という反社会集団への復讐のための一撃が、日本の最大権力者である総理大臣でありながら、同時に広告塔にもなっていた安倍氏に向けられた事実があきらかるなるに連れて、国葬反対の声はみるみるうちに膨らんできました。
「国葬反対」の意志は、本ブログでは、二週間後という比較的早い段階で述べさせていただきましたが、
結局国葬が政府によって強行されてしまった今になって思えば、結論として、これは案外それでよかったのではないかと思うようにもなりました。
なぜなら、岸田首相が当初目論んでいたはずの国葬効果は、結局は全てが裏目に出る結果になったからです。
今回の国葬で、岸田政権は完全にダメージを膨らませてしまいました。。
岸田氏が国葬を決めたのは、政府内において決して頭の上がらない麻生太郎氏に「こういうのは、理屈じゃねえんだよ。」と何度となく脅された末のことだったとされてていますが、少なくとも岸田氏にも多少の皮算用はあったはずです。
どんなに反対されても、既成事実さえ作ってしまえば日本国民は、最終的にさほど目くじらを立てなくなる。
これは、強行した去年のオリンピックで、すでに彼らは学習済み。
国葬という国家イベントを粛々と執り行う映像が巷に溢れれば、多少の波風など飲み込んでしまい、政権の支持率は上がるはずだと岸田首相は踏んでいたはずです。
国葬のメリットとして、彼がことあるごとに説明していたのは弔問外交です。
これが完全にズッコケました。
予期せぬエリザべス女王の崩御があったからです。
イギリスのエリザベス二世の国葬が、奇しくも安倍氏国葬の直前に行われたことで、弔問外交効果は完全に有名無実になってしまいました。
天皇陛下が、皇居から目と鼻の先の武道館で行われる安倍氏の国葬には参列せず、イギリスで行われるエリザベス女王の国葬に参列するという訳ですからすでにこの時点で勝負アリです。
しかも国葬直前には、ニューヨークで国連総会も開催されたわけで、安倍氏の国葬を重要視する外国首脳は最終的には皆無。天は岸田氏を完全に見放しました。
送られた招待状に対して国葬不参加を申し出る人も多い中、結局召集された人たちの大多数は平均年齢が80歳にも成りそうな老人ばかり。しかも、そのほとんどが男性だったそうです。
こんな参列者たちの光景が、アメリカのハリス副大統領などの目には、果たしてどう映ったか。
「日本という国は、時計の針が止まっている」
そう思われても致し方のないところでしょう。
国葬の体裁だけは整えようと、招待状を出しまくった結果がこれです。
結局G7に名を連ねる国のトップで、国葬に参列した国家元首クラスは1人もなく、ホスト岸田首相の見せ場はありませんでした。
そして、自民党議員と統一教会との底なしのズブズブ関係も、予想以上の広がりを見せました。
しかも、のっぴきならないその関係は、政府の中枢に行けば行くほど、切っても切れない利害関係となって絡まっていることが明白になっています。
自民党がどう繕って、統一教会との関係を清算すると述べても、安倍氏本人や大物議員たちへの調査を封印して保護しようとしている姿を見せられてしまっては、統一教会との訣別が、政府の口先だけであることは明白。小手先で繕おうとすればするほど、政府の魂胆は国民の誰にも見透かされています。
オーム真理教事件以来、日本国民の間で燻っていたカルト・アレルギーが、この安部襲撃事件で一斉に吹き出して来たことは、先日の沖縄県知事選でも、明白な結果となって現れています。
結局、国葬が終わって残ったのは、国民の圧倒的フラストレーションと、落ちるところまで落ちそうな勢いの政権支持率です。
10月3日からは、国会が召集されていますが、政府自民党が、針の筵に座らされること必至の状況。
岸田氏が「統一教会解散」でもぶち上げない限り、政権の支持率が上がるという要素は、今のところまるでありません。
つまり、この結果を見て思うことは、岸田首相が、お得意の「聞く力」で、多くの国民の要望に耳を傾け、国葬中止に踏み切った方が、結果はまだ今よりなんぼかマシだったろうということ。
岸田首相は、国葬を強行したことで、むしろ自身の政権の寿命を縮めてしまいました。
「何も決めない」はずの彼が、唯一例外的に自分で「決めた」ことが完全なるジャッジミス。
おそらくは、国葬反対の世論の盛り上がりを見て、誰よりもその決定を後悔していたのは岸田氏自身であったかもしれません。
しかし、一度決めたことを覆す決定力は、彼にはありませんでした。
これで万事休すの場合、オールリセットの解散総選挙と言う最後の手段を決定する権限が岸田氏には残っていますが、この逆風の中、自民党にとっても一か八かになるその決定を、果たして彼が出来るかどうか。
「何もしない」ことしかすることのない、岸田政権はいよいよ風前の灯となってきました。
さて、話を安倍晋三氏に移しましょう。
今回の国葬は、ある意味で非常に「安倍晋三氏」らしい葬儀ではなかったかとも思っています。
つまり、この国葬が、まるで中身がなく、歴史を無視している内容であったこと。
ただ体裁を整えただけの、ハリボテな葬儀であったこと。
これはまるで、安倍晋三氏自身を象徴しているようにも思えてなりません。
どれだけ、安倍氏と自民党政権に忖度するマスコミが、この国葬を過大評価しようと、もはや国民の目にはそうは映りません。
「裸の王様」は、最後まで取り巻きたちだけに持ち上げられたままで、多くの国民たちには、その「裸っぷり」を嘲笑されたまま三途の川を渡って行くことになりました。
その意味では、これくらい安倍氏に相応しい締めくくりはなかったかもしれないとも思わけです。
将来の歴史の教科書に、安倍晋三がどのように取り上げられるかは興味津々。
ちょっと見てみたいものです。
とにかく、エリザベス女王の崩御で、図らずも世界中のメディアが伝えた正真正銘の「国葬」とのレベルと品格の違いが、残酷なほどに可視化されてしまい、安倍氏が常に望んでいた、自身の神格化は、最後まで果たせぬまま、彼の一生は終わりました。
残酷な言い方をしますが、安倍氏は、親族の七光という以外、特に政治的な武器を持てなかった非常に稚拙な政治家であったと思っています。
国会での答弁を思い返しても、彼は公式の場で自分の感情をコントロール出来ずに、総理大臣らしからぬ野次を連発していました。
つまるところ、用意された答弁に、多少の振り付けが出来る程度のスキルで、総理大臣らしい姿を演出していただけのパフォーマンス政治家だったと思っています。
歴代の総理大臣を遡ってみても、その政治能力は最低レベルでしょう。
では、そんな彼がなぜ、歴代最長の総理大臣在職記録という、ほとんど唯一の勲章を獲得出来たのか。
それは、一にも二にも、安倍氏が群を抜いて選挙にだけは強かったという事実が挙げられます。
もちろん、それは現在の野党のどうしようもないほどのテイタラクに助けられてきた部分はあります。
しかし、彼は選挙に勝つために、とっておきの裏技を用意してしました。
それが統一教会です。
悪名高い統一教会に政治的便宜を図ることとバーター取引の結果得た、選挙協力関係が次々と明るみに出てきました。
統一教会は、宗教団体としては日本トップの創価学会員よりもはるかに少ない会員数であるにも関わらず、自民党の国会議員の選挙応援をしたり、秘書として奉仕することを無償で行う直接的なアプローチや積極的なロビー活動で、次第に持ちつ持たれつの利害関係を構築して、政権中枢に大きなパイプを通し、絶大な影響力を与えるようになっていったわけです。
安倍晋三氏は、この活動を側面から、サポートし続けてきました。
選挙に勝つために、彼は政治家としての使命感や信念を売り飛ばして、この悪魔と契約を結んだわけです。
それのみが、政治家としてなんの能力も力量も持たない彼が、日本の政治の中で権力を確保し維持するための、唯一の方法だったからです。
そのために彼は、統一教会の霊感商法を黙認し、信者から信じられない額の献金を巻き上げて、家庭を崩壊させていく彼らのやり口に見て見ぬふりをしました。
いや、もしかしたら、初めから目にも入れていなかったのかもしれません。
彼のような超エリート育ちには、市井で暮らす下々の国民の不幸など、爪の垢ほどの関心も持てないのでしょう。
彼の興味は、権力の座に居座ることのみ。そして自分の支持者や縁故者にのみ便宜を図り、権力の甘い蜜を吸うだけ吸って、わが世の春を楽しむことだけ。
彼には、我が国の未来に対する憂いも、社会の底辺で疲弊していく国民に対する責任感もありません。
あるのは、如何にして自分を祖父岸信介と肩を並べる政治家として世間に評価させるかという見栄と欲だけ。
権力を手に入れた彼が、その維持のために駆使した武器は、人事権でした。
安倍氏は菅官房長官と結託して、内閣人事局を、徹底的に自分の政権の権力保持のためだけに、悪用しました。
人事を握られれば、官僚たちは黙っていても、内閣の方向性に忖度するという性質を見抜いた上で、確信犯的に、官僚、検察、警察、公安という司法、行政分野をイエスマンだらけにし、本当に力量ある人材を闇に葬ってきました。
こうして、権力の長期維持の基盤を作ると、その次に安倍氏が使うようになった禁断の武器が、嘘、隠蔽、改ざんです。
「嘘つきは、安倍晋三の始まり」という見出しが、文藝春秋の紙面を飾りました。
実は、このウソという武器は、岸一族という日本屈指のサラブレッド家系の中で生きていくために、決して優秀ではなかった彼が、子供の頃から本能的に鍛えざるをえなかった必修スキルだったと推測されます。
父親の安倍晋太郎氏が、「あいつの嘘は、いつでも迫真に迫っていた」というようなことを言っていたそうです。
政権末期、自分の病気をアピールするために、公用車を何台も連ねて慶応病院に横付けさせた光景が思い出されます。
この人は自分の嘘を信じさせるために、それくらいの演出は平気でする人だということです。
おそらく、彼の虚言癖は、子供の頃から培われてきた彼なりの処世術であり、ある意味では特殊技能であったのかもしれません。
国会において、彼は虚偽答弁を118回繰り返したという、ちょっと笑えない、安倍氏ならではの公式記録が残っていますが、もしかすると、彼は自分で口から出まかせを言いながら、本人自身それを嘘だとは思っていない可能性すらあると、個人的には思っています。
なぜなら、権力を手中にした彼にとっては、ただそれを口にさえすれば、あとは、取り巻きたちが、その嘘を勝手に捏造してくれるという仕組みが、長期政権の中で完全に出来上がっていたからです。
アベノミックスによる経済政策の失敗、トンチンカンな外交、憲法を無視した集団的自衛権の法制化などなど、安倍氏の政治における「やらかし」は、スキャンダルも含め、数限りなくあります。
しかし、この人が本当の意味で日本社会に、もっとも致命的な打撃を与えたのは、官僚機構を事実上崩壊させてしまったことにあると思っています。
自分のイエスマンたちで周囲を固めるために、彼は何をやったか。
安倍氏がとった手段は、先にも述べた通り、官僚人事に徹底的に介入していくことでした。
官僚機構では、その人望や能力から見て、次にトップに立つ人物は、暗黙の了解で、事前に省内で決まっているのが通常のようです。
しかし、このトップの任命権を持つ安倍内閣では、それを完全に無視しました。
彼がとった手段は巧妙です。
本命の人物をあえて黙殺して、もっと格下の官僚を、省内の順番を飛び超えていきなりトップに任命するということを頻繁に行いました。
官僚の世界は、役職イコール・ステイタスですから、こういう人事をされると、その任命者は、黙っていても、安倍政権のポチに成り下がっていきます。
そして、官僚の性として、一度トップに立ったものは、決して自分よりも優秀な人を重用しようとはしません。
優秀な人材は、こうして官僚ヒエラルキーの中から、優秀な順に消えていくことになります。
しかも、この破壊的人事を、安倍政権は確信犯的に8年間も続けたわけです。
普通に考えて、その結果現在の官僚機構がどうなっているのかは、推してしるべし。
自民党の村上誠一郎議員が、安部氏を指して、「官僚機構を崩壊させた国賊」と断じていましたが、まさにそれはこのこと。
時々、野党合同調査会で、官僚が野党議員の質問に答えている姿を見ることがありますが、その答弁を聞いても、覇気のある出来そうな官僚を見た試しがありません。
彼らは、マニュアルで決まっている官僚答弁をただ繰り返すだけ。
彼らが必死に守ろうとするものは、いつでも省益。そしてそのために必要不可欠なものは、政権への忖度です。
デジタル大臣の他、国家公務員制度担当大臣も兼任する河野太郎氏が言っていました。
エースと言われる実力ある官僚たちが、次々と辞職を申し出ているそうです。
国家の舵取りをするんだと言う大志を持って国家公務員になった官僚たちが、理想とは程遠いこのアンフェアで理不尽な政治を目の当たりにして、夢も希望をなくしていく姿は想像に難くありません。
経済大国も、ジャパン・アズNo. 1も、今は遠い過去の栄光。
経済成長できずに足踏みをしてもたもたしているうちに、世界はおろか、アジアにおいても、中国に抜かれ、韓国に抜かれ、今や二流から三流国家に成り下がっている日本。
しかしそのことよりも、これからの日本を背負う人材たちが、そもそも安倍政権によって根こそぎ奪われている言う現実の方が、今はとても重くのしかかっているように思えます。
何せ、日本をリードしていくべき官僚に人材がいないのですから、日本がそう簡単に立ち直れるわけがありません。
政治家も官僚も、すべてのツケは未来に回して、とりあえず今は、我が世の春だけを謳歌させていただこうという刹那的でさもしい魂胆が見え隠れするのが、自民党政治の悲しい現実です。
元々実力も素養もない見栄と権力志向だけの政治家が、ズルとインチキで手中にした権力で、国家を私物化した結果、誰にも予想がつかない形で天誅を下され、最後はハリボテの国葬で、天下に恥を晒した。
安倍氏の一生をそのように総括すると、国葬強行の暴挙も、不思議と腹が立たなく成りました。
非業の死にはご冥福を祈りつつも、人間調子に乗り過ぎると、どこかで思わず足を掬われ、天罰が下るものだと、今回の銃撃事件を通じて教えられた気がします。
山上容疑者を弁護するつもりはありませんが、彼の一撃は結果として、世界の潮流を無視して、時代おくれの昭和政治を持ち込み、日本と言う国から進歩することを奪った安倍晋三政治を、誰にも予想できなかった方法で強制終了させました。
日本社会を上から押さえつけていた安倍晋三という大きな蓋が突然予期しない形で外された今、我が国にどんな変化が起こってくるのかは、僕のような百姓にはまるで想像もつきません。
新しい蓋がすぐにかぶされて、また同じ日常が続くのか。
圧力から解き放された社会に、新しい秩序が生まれるのか。
新しいものにはアレルギーを示し、大きな変化は望まず、喉元過ぎれは熱さを忘れ、どれだけ搾取されても現状を受け入れる耐性をもち、政治には無関心だけれど、決められた事に文句は言わないのが日本国民です。
政権与党は、この「ものわかりの良過ぎる」主権者をいいことに、オモテヅラだけはいい格好をしながら、裏では好き放題をしてきました。
統一教会問題や、オリンピック賄賂疑惑は、どちらも安倍晋三氏の残していった置き土産です。
これを背負わされた岸田政権は、いまのところ、打つ手もなく、政権支持率は、回復の見込みもなし。
岸田首相は何も出来ずに、ただ嵐の過ぎ去るのをじっと耐え忍んでいます。
問題山積の自民党政治にはノーを言いたいけれど、それに代わる政党がいない。
結局現状を耐え忍ぶしかない。そう思っている人は相当数いるのでしょう。
しかし、長期政権は必ず腐敗していくというのは、世界の歴史が物語っています。
今の自民党に、自浄能力は望むべくもありません。
野党恐るるに足らずの今、政府が一番神経をすり減らしているのは、なんのかんのと言っても「国民の声」のみです。
たとえ野党に期待は持てなくても、自分達の利権を守ることだけにしがみついて、国民生活を蔑ろにし続けてきた自民党政治には、とことんノーを言い続けなければいけないことだけは確かです。
その結果何が起こるのかは予想もつきませんが、諦めてしまっては現状が何も変わらないことも事実。
僕自身、政治には無関心なのが、クールでかっこいいという思っていた時代も確かにありました。
恥ずかしながら、若い頃はそんなふうに気取って、選挙などにいった試しはありません。
自分が一票を投票しようとしまいと、世の中は変わらないとどこかで思っていました。
ですから、日本という国をここまで落ち目の国にした責任は、安倍晋三氏と自民党政権にあると、簡単に片づけるのは、やはりフェアではありません。
なんのかんのと言っても、彼らに政権を任せ続け、放置してきた、こちらの責任も問われるべきでしょう。
とにかく、黙っていれば、どんどん自分達の首は締まっていくばかりなのが、紛れもない現実なのですから、せめて現政権に、ダメなものはダメと、しっかりノーを突きつけないと、最終的なとばっちりは、間違いなく自分達に降りかかってくることになります。
自民党に鉄槌を下すのに、なにも山上容疑者のように、自分で散弾銃などを作る必要などありませんよ。
あの手段は我が国にはそぐわないので、やめておきましよう。日本はそんな国ではないはずですから、どちら様も決して真似することのなきよう。
大丈夫です。そんなことをしなくとも、我々には、納得がいかなければ、政治家の一人や二人簡単に殺せる散弾銃を、有権者であれば、一人が一台ずつ持っていることだけはお忘れなく。
安倍晋三氏国葬反対
自民党茂木幹事長が、「国葬反対は民意ではない」みたいなことを堂々と言っていたのでビックリしてしまいました。
この人が、どれくらい国民の民意を把握していたのかに疑問はありますが、本当にもしそうなのだとしたら、おいおい、ちょっと待ちなよ、少なくとも俺は違うぞと言っておかないといけないと思った次第。
やはりこれだけの事件が起きてしまうと、色々と考えることもあって、なかなか通常の映画、読書感想モードには戻れないでいます。
日本のメディアは、安倍政権の8年の間に、完全に政権忖度に染まってしまっているので、テレビやラジオ、新聞はとっくに見限って今は絶縁状態の日々を送っています。
インプットしているニュース・ソースは、ほぼYouTubeやSNSのみです。
YouTubeでいえば、YouTuberのほとんどは、再生回数確保に血眼のチャンネルが多いので、ニュースのクゥオリティは玉石混合ですが、それでも、自分達は公平ですよと言うような顔をして、シレッと政権擁護のニュースを垂れ流す大手メディアの忖度報道よりはなんぼかマシだと言う思いで、大手企業とスポンサーを持たずに、視聴者の寄付で運営しているようなニュース・チャンネルを日々、野良仕事をしながら聞いています。
ネット上のみで、ニュース報道に触れていると、こちらは大手メディア報道とは反対に、自民党政権に対するバッシングに溢れていて、やはり、こちらも気がつけばそんなモードになってしまっております。
ですから、この感覚で、先日若者の凶弾に倒れた悲劇の元宰相安倍晋三氏に対する、恣意的、確信犯的神格化がじわじわと盛り上がってくると、その不気味さに、ノンポリ百姓ではあっても、「待て待て」と言う気になってきてしまいます。
そして、何事においても、「慎重に意見を聞いて決定し、決定しても批判があればすぐに訂正する」はずの岸田総理が、今回に限っては、間髪入れないタイミングで、「国葬を閣議決定」してしまい、国民の反対の声に、耳を貸さずに9月27日に強行と言うのも、なんだか、この人の「立場の脆弱さ」を反映した政治的思惑が見え隠れして、気持ち悪いこと夥しい。
岸田総理だけではありません。
なんだか、政治家の誰も彼もが、良くも悪くも、安倍晋三という政界におけるビッグアイコンが突如消失したこの衝撃的出来事を、なんとか巧みに、自分の立場を有利にする為に利用しているように見えて仕方がないわけです。
安倍晋三氏銃撃事件は、彼が総理時代に残した悪行の数々を解明する機会を全て奪うことになってしまいました。
そして、到底功績とは言えないものを無理矢理レジェンドにでっち上げ、「死人に鞭打つ」ことをよしとしない日本人特有の感性を上手に利用して、どう贔屓目に見ても、「偉人」であるはずのない政治家安倍晋三を、吉田茂、山本五十六、東郷平八郎、世界で言えば、ガンジー、ネルソン・マンデラ、ウィンストン・チャーチル、ジョン・F・ケネディらと並べようとしていることが、個人的にはとても耐えられないということだけは申し上げておきましょう。
百歩譲って、茂木幹事長の言う通り、日本国民の多くが、もしもそれを望んでいるのだとしたら、我が国の国民は悲しいかな、今話題の旧統一教会の信者たちのように、知らず知らず、自民党政権にマインド・コントロールされているのだと気づくべし。どうか、どちら様も我に返っていただきたいものです。
少なくとも、事実上ウォーターゲート事件で失脚したニクソン大統領は、国葬にされることを辞退しましたし、功罪あったマーガレット・サッチャーは、国葬ではなく準国葬扱いにされ、あの中曽根元総理は国民感情を配慮して、内閣・自民党合同葬という扱いでしたし、曲がりなりにもノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元総理も国葬ではなく国民葬という体裁で、葬儀は執り行われました。
福田赳夫、小渕恵三、橋本龍太郎、宮澤喜一といった、それなりに日本政界に名を残した元総理経験者たちも、全て「内閣・自民党合同葬」という形式で葬儀が執り行われています。
安倍氏が、国民の生活を顧みずに、大企業や資産家だけに利益誘導をすること、そして、人事権を掌握して官僚たちをイエスマンに調教しながら、兎にも角にも、任期中のすべての選挙に勝利し、憲政史上最長総理在位記録を打ち立てたことは事実です。
その意味での功績が、自民党から称賛されることについては、なんの異議もありません。
ですから、彼の葬儀が「内閣・自民党合同葬」として行われるなら、反対とまでは言いません。
しかし、国葬となれば、問答無用で、国民の税金が使われ、全ての国民は喪に服せと強要されるようなもの。
申し訳ないが、これには合点が行きません。率直に冗談じゃないよという話です。
かつて「クリミアの天使」と謳われたナイチンゲールの親族の皆さんは、国葬にしたいという英国政府の申し出を断り、家族たちの間で小規模に執り行ったといいます。
安倍昭恵様の心中も幾許のものかと拝察いたしますが、ここは是非毅然と、政府の国葬の申し出などは固辞し、女をあげてもらいたいもの。
それが出来れば、ご主人の人生の「恥の上塗り」は、多少なりとも防げるかもしれません。
側近のどなたかに、心ある人がいるなら、是非彼女にそう進言してあげて欲しいものです。
考えてみれば、もうそれくらいしか、自分の政治人生にレジェンドをひたすら欲しがった、安倍氏に残された有終の美はないと思われます。
とにかく、もしも本当に日本国民のご歴々が、茂木幹事長の言うように、安倍氏の国葬を望んでいるのだとしたら、一度テレビのスイッチは切って、冷静に考えてくださいませ。
国民がそろそろ忘れかけようとしている、安倍氏のこれまでの全ての疑惑を、この国葬で一気にチャラにしようとしている政権の思惑が、透けて見えてくるはずです。
そうではなくて、もしも、安倍氏の国葬には賛成はしないけど、どうぞご勝手にと、かっこよく無関心を決め込むのだったら、それは決してカッコ良くはありません。
見事に、自民党政権に利用されてしまっています。
後で後悔しないためにも、こんな長ったらしいブログなど書く必要はまるでありませんが、SNSでの誰かの「国葬反対」ツイートに、「いいね」をするとか、リツイートして、自分の意思表示だけは形に残しておくべきだと思います。
連中は明らかに、国民を舐めてかかっていますので。
安倍氏の国葬には絶対反対。
僕の個人的理由は、先ほど述べました。
安倍晋三氏は、決して、後に歴史の教科書で語られるべき「偉人」ではないということ。
とにかく、生理的に嫌なものは嫌というのが、この件に関する最も端的な理由なのですが、それではあまりに大人気ないので、一応考えられる理由らしい理由を挙げておきます。
理由は以下の3つです。
一つ目。
まず、警備の問題。
アメリカの歴代大統領や、世界中からの超VIPが、日本武道館に招待されるわけですが、安倍元総理一人も、凶弾から守れなかった日本の公安が、果たして、世界のVIPを守れるのかという至極単純な話。
安倍氏の凶行現場の動画を見る限り、一発目の銃弾が逸れて、二発目の銃弾が発射されるまでの3秒の間に、瞬間的に安倍氏に身を挺して、その場に伏せさせたSPはいなかったように見えます。
こういったテロが多い国では、当たり前になっているSPのセオリーを実行させるまでの覚悟が、日本のSPにはなかった気がしてなりません。
ケビン・コスナーなら、躊躇せずに安倍総理に覆いかぶさり、犯人の銃弾をその防弾チョッキに浴びたはず。
願わくば、招待された各国首脳が、あの現場のYouTube動画を見て、いやいや、そんな危険な国にはいけないでしょうと判断してくれることを祈るのみ。
二つ目。
みなさん、忘れてませんか。Covid-19 は、まだまだ収束していませんよ。
オミクロン株は、さらに変異株BA5に進化を遂げて、そろそろ、この騒動にも慣れて、緊張感の無くなってきている人々を餌食にしながら、じわじわと拡大しています。
終わったばかりの参議院選挙と今回の安倍氏の銃撃事件で、国民の多くは、マスクしてればいいいんだよねとばかり、かなり「密」なコミュニケーションを平気でしていました。
その顔には、「もうコロナはいい加減、いいでしょう。」と、書いてあるようでした。
これまでの鬱憤もあったのでしょう。「おいおい、今はそんなことを言っている場合じゃないでしょ」とも書いてあるようでした。
案の定、全国のコロナ感染した陽性者数は、気がつけば鰻登り。
日本を上げてのお祭り騒ぎだったこの参院選中に、大きくの政治家も有名人も、かなり多くの人が感染しています。
確かに、季節要因で、この時期は、毎年感染者数は増加するものなのかもしれません。
その意味では、例年の傾向で言えば、お盆過ぎには、減少していくかもしれませんが、コロナ感染対策で大事なことは、減ってきたときに、どんな対策をするかです。
それを、ワクチンへの神頼みだけで、いまだにPCR検査を国家レベルで行おうとしない、世界の標準化から見れば周回遅れの我が国で、そんな大きな国家的イベントを行ったらどういうことになるのか。
答えは歴然。さらに強力になった新型コロナ株を、喜ばせるだけのことです。
万が一、列席されたVIPに、日本でコロナ感染させてしまったら、どんな国際問題になるか。
ああ、恐ろしや。
申し訳ないが、今の日本は、そんなVIPを招待できるような「安全」な国ではないことは明白です。
そして、最後3つ目。
そもそも、この国葬を行うという法的根拠がありません。
これが閣議決定されてしまうことが、由々しき憲法違反であるということ。
松野官房長官の弁。
「国葬儀を含む国の儀式の執行は、行政権に属することが法律上明確だ」
はい、出ました。
彼らの天下の宝刀、法律の無理くり解釈です。
彼らは、この手をよく使います。
集団的自衛権を認めた安保法制の時もそう、あの黒川検事総長の強行人事の時にも、定年延長法を「とんでも解釈」してゴリ押ししたのも記憶に新しいところ。
松野官房長官は、内閣府設置法4条第3項引っ張り出してきて、国葬は内閣府がつかさどる業務とする根拠としたわけですが、この条文は以下の通り。
「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること」
そうです。ここには、内閣は「国の儀式」における事務作業を執り行うとしか定められていないわけです。同法は、そもそも国葬の判断基準を示していません。
戦前の、「大日本帝国憲法」の時代には、勅令としての「国葬令」があり、国葬の対象を皇族や「国家に偉功のある者」として国民は喪に服すよう求めていますが、新憲法に置いて定められた政教分離規定を踏まえて、1947年に失効しています。
つまりは、新憲法下においては、国葬を執り行うことを、国会の審議を経ずに、閣議決定してしまうことは、思想・良心の自由を保障している憲法19条に違反するというわけです。
くどくどいうのはやめましょう。
要するに、日本国民は、我が国の政府に、とことん「たかを括られている」もしくは「舐められている」ということ。
そんなこと言ったって、あんたたちは、先の選挙で、ちゃんと自民党を選択したんでしょ?
なら、わたしたちが何を決めようと文句ないでしょ?
彼らは、この選挙結果を踏まえた上で、自信を持ってそういうはずです。
まあ、そう言われても、仕方がないといえば、仕方がない話かもしれません。
政府自民党は、先の選挙で、国民に最も支持された政党であることに、間違いはありません。
しかし、少なくとも、僕自身は決して自民党には自分の一票入れていないので、最後にもう一度はっきり言わせてもらいます。
やはり、どう考えても、安倍晋三氏の国葬には絶対反対!
どうして、安倍晋三氏が殺されねばならなかったのか。
できれば、どちら様も、もう一度そこのところを真剣に考えてみてくださいませ。
世界史の中には、明らかにサイコパスだろうと思われる人物がかなりの頻度で登場してきます。
やはり、世の中や体制を変えるようなシーンで活躍できるような人物となれば、普通の感覚の持ち主では、つとまらないということは、あるのかも知れません。
織田信長は、典型的なサイコパスだとよく言われますが、あれだけ魅力的なカリスマ性を持ったリーダーではありましたが、敵将の頭蓋骨を盃にして酒を飲むだとか、比叡山の僧侶たちを寺ごと焼き殺すだとか、伝えられるエピソードは、やはり尋常ではありません。
ヒットラーに関しては、いうまでもありませんが、あのホロコーストは、世界史をたどってみても、人類の犯した犯罪としては、最悪のものでしょう。
サイコパスの特徴は、よくこう言われます。
良心が異常に欠如している。
他者に冷淡で共感しない。
平然と嘘をつく。
罪悪感が皆無。
自尊心が過大で自己中心的
饒舌で表面は魅力的。
歴史上の人物として、評価されるためには結果が全てです。
その人物が例えサイコパスであろうがなかろうが、そんなことは関係なく、その業績が歴史に刻まれれば、歴史を勉強する世界中の学生たちは、その名前を頭に機械的にインプットしてくれます。
歴史は綺麗事ではありません。
世界史に名を刻む人物は、皆様清濁併せ持ってなんぼ。
大偉業を達成する裏側では、悪魔との取引に応じてしまうような人物もたくさんいるのでしよう。
脳医学の見地から言うと、人間の100人に1人はサイコパスだと言います。
これが犯罪者という括りに絞って調べると、その割合は10人に1人。
ところが、これを会社のCEOや、医者、弁護士といった人たちだけに特定すると、その割合は4人に1人と、一気に跳ね上がるそうです。
つまりこのサイコパシーも、活かし方次第では、人生の勝ち組に導いてくれる資質に転化できるという話ではあります。
Apple の創始者スティーブ・ジョブスなどは、サイコパスであった可能性がかなり高そうです。
彼も、もはや現代史にその名を刻む偉人の1人かもしれませんが、もしも世界史に登場する権力者たちで、サイコパス率をはじき出せるとしたら、おそらく、その比率は、それ以上に跳ね上がるような気がします。
さて、そう思わせるような、サイコパスの権化のような政治家が一人脳裏に浮かびます。
20世紀前半に、ソ連の指導者として君臨したヨセフ・スターリンですね。
レーニン亡き後、ソビエト共産党のトップに立った彼は、徹底的な恐怖政治を断行して、自分に全ての権力を集中させることに成功します。
国家体制を強固なものにするためには、国民の犠牲など当たり前。
スターリンは、秘密警察を組織し、自分に批判的な言動をしたものを片っ端から逮捕していきます。
捉えられたものはろくな裁判も受けられず、即決で死刑にされてしまうか、あるいは強制収容所に送られ、死ぬまで過酷な労働に従事させられます。
ソ連の過酷な自然の中に建設されていくインフラのほとんどは、彼らの無償の労働力によって、人件費をかけずに作られていきました。
また農作地の全ては国が管理し、生産された作物は全て国が没収していきます。
農民たちには、わずかな農作物しか与えられません。
当然のように、農民たちの労働意欲は減少し、生産量は激減。しまいには豊潤な穀倉地帯であったはずのウクライナで、餓死者が出る始末でした。
マルクスの掲げた共産主義の理想は、スターリンによって、完全に権力維持のための国家社会主義に都合よく捻じ曲げられ、彼は独裁者として30年に渡って君臨し続けます。
スターリンの在位中に亡くなった国民の数は、5000万人ともいいますから凄まじいものです。
そして、このスターリンの政治に大いに感化された政治家がお隣の国にいました。
中華人民共和国という、社会主義の国を立ち上げ、そのトップに立った毛沢東ですね。
政敵であった蒋介石率いる国民軍に勝利するまでの手腕は、確かにしたたかで見事なものでしたが、いざ彼がトップに立ってみると、この人の国を運営するセンスは最悪でした。
市民生活を徹底的に犠牲にして、不満を言う国民には容赦ない弾圧を加えながら、彼が躍起になったのは、迅速な工業化を進めて国力を上げること。
しかし、彼の打ち出す政策はどれもトンチンカンなものばかり。
この大躍進政策の失敗で政権を追われても、彼は政権奪取を諦めず、血気盛んな学生たちを煽るだけ煽って、今度は文化大革命を敢行。
知識人や政治家を処刑しまくります。その数およそ3000万人。
毛沢東の思想や社会主義以外の全て思想は、激しく弾圧されていきます。
最終的に、彼が国家を率いていた期間で、犠牲になった国民の数は、およそ8000万人ともいいますから、数だけで言えば、スータリン以上のサイコパス独裁者だったと言えます。
「社会主義とはそういうものだ。国家を維持するためには、それくらいの犠牲は仕方のないこと。」
この人にも、スターリン同様国民の痛みを感じるセンサーなどまるで作動しないということは明白でした。
さて、この2人の社会主義政治家に大いに刺激されて、「原始共産主義」という自分の理想に辿り着き、これを実践すべく、国家の権力奪取を虎視眈々と伺おうとしている不穏な政治家が、カンボジアにいました。
それが、ポル・ポトです。
この人は、学生時代にパリに留学しています。
そこで、彼は共産主義と出会います。
しかし、若き日のポル・ポトは、あの崇高で分厚いマルクスの「資本論」を読んでも、難しすぎてまるで理解できなかったといっています。
その彼が、手に取った一冊の本が、スターリンの著作でした。
これは、共産主義を称えながらも、これを利用した自らの政権運用術を誇示するような内容で、これに従わないものは排除してゆくことを堂々と宣言している過激なものでした。
ポル・ポトはこの本に、ハマりました。
「これなら、わかる!」というわけです。
マルクスの目指した理想は、あくまで共産主義でしたが、資本主義から共産主義に至る前段階として、国家が資本を管理する社会主義に移行する時期は必要だということは述べています。
しかし、権力志向のある政治家にとっては、この社会主義こそ蜜の味でした。
共産主義という看板はおろさずに、国家が国民を私物のように完全統治する社会主義という名の独裁政治の確立に邁進したのがスターリンでした。
若き日の2人は、共に素行不良のアウトローでしたので、何処か波長が合うようなところがあったのかもしれません。
ポル・ポトは、このスターリンの思想に、大いに刺激されます。
彼にとっての共産主義は、マルクスの難解な理論などではなく、わかりやすいスターリンの独裁政治の実践ノウハウの向こう側に見えている危うい共産主義でした。
試験に何度も落ちたため、奨学金をストップされた彼は、それでも共産主義革命に、意気揚々と若き血潮をたぎらせて、祖国カンボジアに戻ります。
そこで、ポル・ポトが目の当たりにした祖国は、フランスに植民地化され、蹂躙されていました。
カンボジアの人々は、祖国を取り戻すべく、必死に抵抗していましたが、激しい戦いのために、国土は荒れ果てていました。
黒王シハヌークは、武力による祖国奪回は無理と考え、国際社会にカンボジアの現状を訴え、国際世論を武器にして、カンボジアの独立を勝ち取ろうと、世界各国を飛び回っていました。
これに賛同した国民たちは、団結して、シハヌークを支持し、カンボジアは、彼を元首として、1953年に独立を果たします。
しかし、彼の樹立した政権は、国家社会主義と呼ばれるもので、あくまで共産主義を目指すポル・ポトは、政権を脅かす存在として、迫害の標的となりました。
ポル・ポトは、仲間たちを引き連れて、ジャングルの奥に逃げ込み、そこを活動の拠点にします。
彼は、ここで、自らも鍬を取り、農業を中心とするコミュニティを作りはじめました。
そして、その暮らしの中から、文明こそ諸悪の根源だという思いを抱くようになり、農業を最優先にした原始社会に戻ることこそ、理想の共産主義社会が実現した社会だという結論を得るようになりました。
この期間中に、ポル・ポトは、中国にも出かけて、毛沢東式の農村政策にも触れ、研鑽を受けています。
ポル・ポトが、そうしてジャングルの中で、原始共産主義に目覚めている頃、すぐその隣ではベトナム戦争が始まっていました。
国家社会主義のカンボジアは、共産主義国を目指す北ベトナムを支援するようになります。
これが、南ベトナムを応援しているアメリカを刺激します。
当時のアメリカでは、ドミノ理論という考え方が支配的で、これは、共産主義の国が一つ出来てしまうと、周辺の国がドミノのように共産主義化してしまうという危機感を表したものです。
この危機感から、アメリカはカンボジアの内政に干渉を始めます。
カンボジア政府の中で、親米反ベトナムの態度を明確に表明していた首相兼国防大臣のロンノルを神輿に担ぎ、軍事クーデターを起こさせます。
アメリカのパックアップを得たロンノルは、議会から国王を追放し、大統領に就任した後、一気にカンボジアの実権を掌握します。
しかし、こういった経緯で誕生したロンノル政権は、ほとんど国民の支持を得られませんでした。
アメリカからの莫大な資金援助は、政府の役人たちが横領しまくり。
しかも、国内に北ベトナム軍をかくまっているというアメリカ軍からの難癖を認め、国内への空爆を許可してしまう始末です。
これにより、カンボジアの農村は、アメリカ軍により壊滅的に破壊され、数十万人が命を落とし、200万人もの国内難民が発生してしまいます。
この状況の中で台頭してきたのが、ポル・ポト率いるクメール・ルージュです。
同じ共産主義を目指す北ベトナム軍の支援を受け、かつては敵対視されたシハヌークとも、協力関係を結んだクメール・ルージュは、国民の支持を得ながら、ロンノル政権を追い詰めます。
ロンノル政権の後ろ盾となっていたアメリカ軍が、ベトナム戦争の終結を受けて一斉撤退をするとロンノル政権は総崩れとなります。
クメールルージュは、この戦いに勝利し、政権の実権を握ると、協力をしていたシハヌーク国王を宮殿に幽閉。
万全の体制を整えたポル・ポトは、ここから、兼ねてから温めていた原始共産主義の理想を達成すべく、カンボジアの大改革を実行に移します。
これが以後4年にわたって繰り広げられる、カンボジアの悪夢の始まりでした。
まず、手始めに、ポル・ポトは、プノンペンに住む都市住民たちに、こう伝えます。
「ここはまだ空爆される恐れがあります。すべての住民は、一時的に農村へ避難してください。」
しかしこれが、大嘘でした。
原始共産主義に、都市機能は必要ありません。
全ての住民は、農村に強制移住させられ、農業に従事させられました。
これに、抵抗した者は皆、問答無用で虐殺されていきます。
ポル・ポトの掲げた理想は、原始時代に戻ることですから、トラクターやコンバインなどの農業機器は一切使わない、手作業だけの農業です。
都市から移住させられた住民たちは、劣悪な環境の中で、早朝から夜遅くまで、灌漑施設の建設や食糧生産のために、牛馬の如くボロボロになるまで働かされました。
反逆者は容赦なく虐殺されましたが、恐ろしいのは、その一家は、赤ん坊も含め全員が丸ごと虐殺されたことです。
家族を残しておけば、いずれは政府に反抗する不穏因子になるだろうというのがその理由です。
ポル・ポトの脳裏には、スターリンや毛沢東の声が聞こえていたのかも知れません。
彼は、自らの理想を次々と実践していきます。
財産を持つことが、人間の腐敗につながるという理由で、彼は国民から全ての財産を没収し、貨幣を国内から抹殺するために、銀行を全て閉鎖。
さらに、教育や医療も、原始社会には必要ないと、学校や病院も取り潰していきます。
そして、平等な原始社会を作るためには、知識や教養そのものが邪魔になるとみなし、医者、教師、エンジニア、学生といった知識や技術を持ったものを言葉巧みに集めては、次々に虐殺していきます。
こんなとんでもない政策を実行していれば、国力が下がり、貧しくなっていくのは自明の理です。
しかし、ポル・ポトは、これを国内に資本主義国のスパイが紛れ込んで、誘導しているからに違いないと決めつけ、いるはずのないスパイ探しのために、兵隊を組織します。
この兵隊に選ばれたのが、こともあろうに、全て10歳前後の子供たちです。
その理由は、子供たちなら、資本主義の垢にまみれていないということなのですが、もちろんコントロールが容易であるということが最大の理由であることは明白。
この子供兵士たちによって、文字が読める、ラジオを聴いている、外国語がわかる、しまいには、メガネをしているという理由だけで、多くの役人や知識人がスパイとみなされて虐殺されることになります。
そんなとんでもない国家運営が罷り通っているカンボジアからは、多くの国民が北ベトナムへ逃亡していきました。
そんな脱走者を抹殺するため、カンボジア軍が隣国に侵攻し、現地住民ごと虐殺するという、とんでもない事件が起きると、北ベトナムも、さすがに黙っていません。
亡命してきたカンボジア人を保護するという名目で、ベトナム軍はカンボジアに対して武力侵攻を始めます。
つい昨日までアメリカ軍と実戦を交えていた経験豊富なベトナム軍に対して、カンボジア軍にはもう、組織的な戦闘を展開できるだけの余力はありません。ましてや、兵士は皆子供たちです。
ポル・ポトは、その4年にわたる統治で、カンボジアをほとんど回復不能な状態に崩壊させたまま、数人の仲間と共に、再びジャングルの中に逃げ込んでいきます。
彼が去った後のカンボジアの原野には、虐殺されたカンボジア国民200万人の白骨が、キリング・フィールドとなって続いていました。
「キリング・フィールド」は、ピューリッツァー賞を受賞した実在のジャーナリストであるシドニー・シャンバーグが取材したカンボジア内戦のルポを原作としています。
映画は、この内戦に、アメリカ軍が介入し、ベトナム戦争終結を受けて、現地から撤退する中、主人公シドニーが、共に命をかけて取材をした現地通訳兼記者のディス・プランをやむなく現地に残して帰国し、やがてポル・ポトの集団農場から決死の思いで脱出したプランとの再会までを描く骨太の実録映画です。
主演は、サム・ウォーターストン。
しかし、ディス・プランを演じた助演のカンボジア系中国人俳優のハイン・S・ニョールの存在感が、本作では圧倒的でした。
映画の後半は、カンボジアに残されたプランの、集団農場での過酷な日々が延々と続きます。
主演者よりも、圧倒的に出番の多い助演でした。
気になってWiki で調べたらビックリ。
なんとこの人は、ポル・ポト政権下のカンボジアで、実際に集団農場に拉致されて、4年間を過ごした経験を持っていました。
彼は、カンボジアで産婦人科医をしていたようたですが、当然、処刑されないように、その身分も、教育を受けたこともひた隠しにして、脱出の機会を伺い、やがてそれを実行してアメリカに亡命したという人物です。
演技者としては、全くの素人でしたが、この映画の制作にあたって、キャスティング・ディレクターに見出されることになります。
しかし演技のキャリアなどなくとも、あの地獄を実際に経験した当事者として、彼の演技には、圧倒的な説得力がありました。
思い出したのは、1946年に作られたウィリアム・ワイラー監督の代表作「我等の生涯最良の年」で、退役軍人の一人ホーマーを演じたハロルド・ラッセル。
彼は軍役中の事故で、両手を損傷しており、実際にその両手は義手でした。
彼は、監督に見出されて、この映画で俳優デビューをしていますが、この演技でアカデミー賞助演男優賞を受賞することになります。
ハイン・S・ニョールも、同様に本作において、同賞やゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞していますが、その選出においては、多少なりともハロルド・ラッセルの受賞の経緯が意識されていたかもしれません。
映画後半の、ディス・プランの脱出劇を見ていて、脳裏によぎったのが、アラン・パーカー監督の「ミッドナイト・エクスプレス」です。
この映画は、トルコ旅行中に、麻薬不法所持で捕まった主人公が、30年もの刑期を言い渡され、過酷な刑務所から自力で脱出するというもの。
主演のアラン・デイビスと、ハイン・S・ニョールの押し殺した表情が、映画のあちこちでダブりましたが、エンド・クレジットを眺めていてビックリ。
なんと、「ミッドナイト・エクスプレス」のプロデューサーでもあるデビッド・パットナムが本作のプロデューサーでもありました。
ちなみに、この人のプロデューサーとしてのデビュー作は、あの「小さな恋のメロディ」です。
今回見た映画は、WOWOWでかつてオンエアされたものを録画してあったDVDコレクションの中の一枚です。
この映画の公開当時は、まだ社会人一年生の頃でしたから、そろそろ学生の頃のようには、映画館に通えなくなった頃です。
この年以降公開の映画には、見たいと思って見られなかった映画も多く、その後の衛星放送で、録画だけはしてあって、整理棚に眠ったままという作品がかなりあります。
いよいよ今年から、年金もいただけるようになり、老い先短い身にもなりましたので、これからはセッセと蔵出しコレクションからDVDを引っ張り出して、映画鑑賞を楽しんでいこうと思います。
カンボジアのこの悲惨な歴史も、ポル・ポトの名も、この映画に関する情報を映画雑誌などで触れて、初めて知ったような記憶です。
今は便利な時代で、こんな老人百姓でも、YouTube動画やGoogle で検索しただけで、この映画の時代背景が克明にリサーチできます。
本作は、カンボジアの内戦を描いていますが、ポル・ポト自身は役としては登場していません。当時のカンボジアの憂慮すべき状況を正確に描いておらず、ジャーナリスト二人の友情物語にウェイトを置き過ぎているという批判はあったようです。
確かに、2人の再会のシーンに、BGMとして流されるジョン・レノンの「イマジン」は、この映画の背景にある重々しすぎる史実を考えれば、如何にも安直すぎる演出ではないかという気もします。
本作を観賞後、この事件の背景にある様々な世界史的事実を色々と検索してみましたが、歴史における代表的サイコパス的独裁者が、いずれも社会主義国家の中から現れたというのは、とても興味深いところです。
もちろん、それを社会主義や共産主義のせいにするつもりはありません。
それを言っては、崇高な理想をもとに「資本論」における共産主義世界の実現を説いたマルクスに対して申し訳ない気がします。
リサーチする限り、スターリン、毛沢東、ポル・ポトと、どの人物をとっても、マルクスの渾身の著書に、まじめに向きあったという形跡がありません。
いずれも、自分の権力掌握と理想追求のために、「資本論」の美味しいとこ取りをして、利用したに過ぎないように思えます。
歴史に名を残すこの三名の独裁者が、もっと真摯に「資本論」に向き合ってくれていたら、ソ連、中国、カンボジアの国民の運命は、違ったものになっていた気もします。
この三名に明らかに共通していることは、インテリたちを、徹底的に迫害したという事実です。
もしかしたら、彼らの中にある知識や教養に対するコンプレックスが、この容赦ない弾圧を実行させたトリガーになったようにも思えます。
2020年に「人新生の資本論」を発表した斉藤幸平氏が、とあるインタビューでこんなことを言っていました。
「共産主義の国家の本場である中国に講演に行って、多くの共産党当局の人と話して分かったことは、彼らは誰一人まともにマルクスの『資本論』を読んでいないということ。その代わり、習近平書記長の著作なら何度も熟読している。」
今回のウクライナ問題においても、今やアメリカと共に、戦争終結のキャスティング・ボードを握っているのは明らかに中国です。
同じ社会主義国家としては、今やロシアを追い抜いて、アメリカと共に世界の覇権を握ろうかという中国。
老百姓ごときには、現代の社会主義国家の雄であるこの二大国家の指導者が、果たしてサイコパスであるかどうかの判断はつきませんが、もし仮にそうであったとしても、大国のリーダーとしては、時には必要でもあるかも知れないその資質が、最終的に国民を不幸にすることに使われることのなきよう祈るのみです。
権力など持ったもことのないものには、その魔力も魅力も、想像するしかありませんが、それを手中にした独裁者たちの中で、ポル・ポトにだけは明らかな相違点があるような気がしています。
それは、少なくとも彼だけには、私利私欲がなかったということ。
彼は農民たちと一緒に質素な暮らしをしていましたし、農作業にも積極的に参加していました。
ただ、自分の理想とした世界を実現することだけに、その生涯をかけて邁進していただけと見ることも出来ます。
しかし、彼に国民の痛みを理解することは最後まで出来なかったことは事実。その後タイ国境近くのジャングルに逃げ込んでから死ぬまで、自分のしたことへの悔恨と罪悪感を語ることは皆無でした。
いずれにしても、カンボジアの当時の人口の25%にあたる国民を、一人の独裁者が虐殺したという重い事実だけは、永遠に世界史に刻まれます。
ロシアのプーチン大統領や、中国の習近平国家主席が、あるいはアメリカのバイデン大統領が、果たして最終的にどういう形で、世界史に名を残すことになるのか。
今現実に戦火の中にあるウクライナで行われている戦争の行方が、それを大きく左右することになるような気がします。
彼らがサイコパスであろうがなかろうが、歴史においては、その結果だけが、彼らを評価することになります。
豊穣なウクライナの大地が、悍ましい「キリング・フィールド」となり果てる光景が、カンボジアの荒涼とした大地に、夥しい遺体が朽ち果てて白骨になって並んでいる光景と重なります。
政治家の覚悟 菅義偉
雨になりましたので、畑仕事は諦めて読書デーにしました。
買うほどのこともないけれど、あればあれで読んでみてもいいかなという本というのがあります。
サラリーマン現役時代なら、そんな本でも、Amazon で躊躇なくぽちぽち買っていましたが、実入りの少ない百姓業をやっているとそうもいかなくなります。
そんな一冊をくれた方がいたので、早速広げてみました。
菅義偉現内閣総理大臣が書いた唯一の著書「政治家の覚悟」。
本書はもともと、2012年に、自民党が野党だった時代に書かれたもの。
この初版の第二章以降は、特に当時の与党だった民主党政権への批判にページが割かれていたそうですが、その部分はごっそり削除して、その代わりに官房長官時代に行われたインタビュー記事と差し替えられたのが、去年発売されたこの新書版。
この削除した部分に、公文書隠蔽に対する厳しい指摘があったことで、何かと物議を読んだのは記憶にありましたが、読んでみるとそれほどの作為は感じられませんでした。
8年前の野党時代に書かれた本を、内閣総理大臣に就任するタイミングで、加筆修正をして、再発売するわけですから、そこに「民主党批判」がまだ残っているのは確かに違和感があります。
それをインタビュー記事と差し替えたのは、本を売るための常識的判断の範囲という気がします。
そこに、ことさら突っ込むのも正直いかがなものかというのが感想。
最も、このスポットライトが当たるタイミングで出版するなら、そんな古い時代の本を引っ張り出してこないで、ちゃんと書き下ろせば、そんなつまらないケチもつけられなかったろうにとも思います。
本書も、本人が書いたものか、ゴーストライターが書いたものかは定かではありませんが、元々、この方は、政策や自らのビジョンを雄弁に語るタイプの政治家ではないので、せっかくの「売れるチャンス」を逃す手はないとばかり、今回の旧作焼き直し出版ということになったのでしょう。
ただ、読了してみると、自分が「あれしたこれした」という自慢話があまりに多かったので、少々辟易しました。
政治家の本ですから、多少はやむを得ないのかなという気もしますが、田中角栄の「日本列島改造論」などに比べたら、主張することのスケールがやたら小さくて苦笑い。
人というものは、その成功体験に人生を大きく左右されると言います。
菅氏も、その例にもれないようです。
現在の彼の政策に大きく影響を与えた彼の成功体験は二つ。
一つは、東京湾アクアラインETC割引の実現。
その莫大な工事費用を捻出するため、当初このアクアラインの通行料は4000円程度に設定されていました。
しかし、この高額通行料のため利用者がいません。
そこで、彼は国交相に、料金値下げを掛け合います。
ETCでのテストを経て、その通行料が、現行の2000円程度になると、利用者が一気に急増。
結果、東京湾アクアラインの売り上げは、大きく跳ね上がりました。
この庶民の金銭感覚をくすぐる政策の成功に味をしめた菅氏は、後の総務大臣時代に、NHKの基本料金値下げにも手をつけ、メデイア統制のスキルも身につけつつ、この「値下げポピュリズム」を操る技を磨いていきます。
彼が推し進めた「ふるさと納税」も、庶民のお得感を上手にくすぐるという意味では、この路線に通じる政策でしょう。
そして、これが内閣総理大臣になってから打ち出した携帯料金値下げ政策へとつながってくるわけです。
そして、もう一つが、「天下の宝刀人事権」。
本書の第一部のタイトルが、そのものズバリの「官僚を動かせ」ということからもわかるように、ある意味では、この人の政治家として身につけてきたことの、かなり大きな部分を占めるのがこれなのでしょう。
人事権は、大臣に与えられた大きな権限です。
その人事によって、大臣の目指す政治的ベクトルが、多くを説明しなくても、組織内にメッセージとして伝わるとした上で、菅氏はこう言い切っています。
「とりわけ官僚は、人事に敏感で、そこから大臣の意思を鋭く察知します。」
要するに、その人事により、官僚たちを「勘繰らせる」ことによって、こちらの手は汚さずに、政治の流れを作っていくという賢い手法です。
官僚たちの優秀さを逆手に取ったこの忖度システムに、菅氏は絶対の自信を持っているようです。
それが証拠に、彼は本書で、その手口を惜しげもなく、自信満々に披露しています。
簡単に言えば、政治家としての彼の手の内を堂々と明かしているわけです。
かつての民主党政権は、政治主導という御旗を掲げて政権運営に乗り出しましたが、これに反発する官僚たちのサボタージュにあってあえなく3年間で撃沈したのは、記憶に新しいところ。
これを横目でニヤニヤ見ていた菅氏は、政権を取り戻してからは、着実に内閣人事局を設立。
それをしっかり掌握することで、忖度政治を軌道に乗せ、官僚たちを自らのコントロール下に置くことに成功したのは今や周知の事実。
これが、安倍政権から、菅政権に連綿とつながる、政権運営の基盤になっています。
この成功体験こそ、政治家・菅義偉のまさに本質を形成することになっていると言える気がします。
この人は、どうやら政治家としての大きなビジョンや、イデオロギーには、興味がなさそうです。
一応「とりあえず」のことは発言していますが、その軸足に体重は乗っていません。
あくまで、「行政」を牛耳ることこそが、この人にとっての政治の全てなのだということは本書からも十分に伝わってきます。
しかし、この忖度政治によって、この人の政権の周囲には、「まともな進言」をする常識的で優秀な官僚は消え失せ、いつの間にかイエスマンしかいなくなりました。
この官僚の劣化こそ、今の日本にとっては致命的な大問題です。
経済、文化、教育、政治の全てにおいて、日本が国際社会の中で際限なく低迷していく最大の原因になっていることを考えると、この人にとっての「天下の宝刀」は、日本の将来にとっては何のプラスにもなっていないことを痛感します。
いよいよ7月に入りました。
コロナ・パンデミック下での無謀なオリンピック開催まで、あと20日あまり。
日本国民も、閣僚たちも、天皇陛下も「中止」を進言している中で、一切の聞く耳を持たず、ただひたすら一人、この暴挙に向かって猛進している菅総理。
何を考えているのか理解に苦しむだけですが、もちろん「覚悟」はできているんですよね?
私はこれで総理を辞めました
歴代の総理大臣の退任事情だけを、完結にまとめてみました。
一切の違法行為には、「嘘」と「隠蔽」と「改竄」という天下の宝刀を駆使して、権力を維持することだけにはやたらと長けた、前安倍政権と、現菅政権。
もはや、無理筋のオリンピック開催後の総選挙しか、存命の望みのなくなった菅政権の末路を、戦後の全総理大臣の退陣事情を踏まえて、予想してみるのも面白いのではないでしょうか。
第44代 幣原喜重郎
選挙では、自由党が第一党になったが過半数には達しなかった。そこで幣原は居座りを 模索したが、世論の反発を受け、あきらめた。
第45代 吉田茂
総選挙で、得票が過半数には届かず、社会党が第一党となったため潔く退陣。
第46代 片山哲
閣僚から外された社会党左派との摩擦が大きくなり、予算委員長だった鈴木茂三郎が鉄道旅客運賃値上げを含む予算案を否決。これをきっかけに退陣。
第47代 芦田均
昭和電工疑獄事件の責任をとって退陣。本人も総辞職後に逮捕。
第48 49 50 51代 吉田茂
バカヤロー解散後の選挙では、第一党とはなったが過半数に達せず、政権不安定の中での造船疑獄。最後は、池田勇人、佐藤栄作ら側近の進言を受けて、大磯の別荘へ隠遁。
第52 53 54代 鳩山一郎
日ソ国交回復を花道に内閣総辞職。
第55代 石橋湛山
肺炎と脳梗塞で入院。2か月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、「私の政治的良心に従う」と潔く退陣。
第56 57代 岸信介
日米安保条約は成立させたが、国会を取り巻いた安保運動による混乱の責任を取る形で退陣表明。
第58 59 60代 池田勇人
喉頭がんに侵されていた為、総選挙で善戦した後輩・佐藤栄作に政権を禅譲。
第61 62 63代 佐藤栄作
ドル・ショックやニクソンの訪中で支持が急低下するな中、満身創疲で 退陣。
第64 65代 田中角栄
金権選挙といわれた参議院選挙の敗北。自身の健康問題、東南アジア歴訪時の反日デモ、そして金脈問題などで人気が急落し退陣。
第66代 三木武夫
任期満了選挙となり、自民党は河野洋平らの新自由クラブ結成もあり、大幅に議席を失い、その責任をとって退陣。
第67代 福田赳夫
通産省解体問題でケチをつけた後、2年で交代という密約を反故にして再選を狙った総裁選挙予備選で予想外に大敗。「天の声にも変な声がたまにはある」という名言を残して退陣。
第68 69代 大平正芳
自民党が分裂したまま突入した総選挙の、真っ只中で急死。
第70代 鈴木善幸
役不足を本人が自覚しており、すべてが手詰まりとなるなかで、突如、総裁再選をめざさないことを表明し、静かに退陣。
第71 72 73代 中曽根康弘
次期総裁を自らの裁定に委ねさせることに成功し、余力を持ったまま退任。
第74代 竹下登
リクルート事件の余波を受け、支持率が一桁となり退陣。その翌日、金庫番が自殺。
第75代 宇野宗佑
女性スキャンダルの発覚により。
第76 77代 海部俊樹
政治改革関連法案が審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言したことが、衆議院の解散を意味する発言であると受け取られ、「海部おろし」が起こる。結局解散は出来ず、党内実力者小沢・金丸コンビニも見限られ、総裁選に再選する道は閉ざされた。
第78 代 宮沢喜一
竹下派から分かれた小沢・羽田グループが、内閣不信任案の賛成にまわり、同案が可決。選挙では大きく過半数を割り込み、野党が結集して新政権が誕生。55年体制の最後の首相となる。
第79代 細川護煕
連立政権内の対立に嫌気がさしたところへ起きた佐川急便事件をきっかけに、突然辞任を決意。周囲の説得にも耳を貸さず。
第80代 羽田孜
野党であった自民党の提出した内閣不信任案が成立が不可避と判断。解散総選挙という選択肢もあったが、従来の中選挙区制による総選挙実施を招く可能性があったので、自らの悲願である小選挙区制実施のため内閣の総辞職を選択。
第81代 村山富市
突然の退陣表明。その背景として考えられるのは、社会党内の久保書記長と関係悪化、住専問題で国会を乗り切ることへの不安、沖縄の米軍基地使用問題の泥沼化。
第82 83代 橋本龍太郎
ロッキード事件で有罪判決を受けた佐藤孝行を、中曽根元総理のたっての希望で総務庁長官に起用。これに対する世論の反発が強く、支持率が低下。参議院選挙で惨敗し退陣。
第84代 小渕恵三
議員定数削減問題でのトップ会談が決裂し、自由党の連立離脱が決 まったのち、突然、脳梗塞で倒れ、そのまま回復せず死去。
第85 86代 森喜朗
「日本は神の国」とか「無党派層の人には投票所に行かずに寝ていてほしい」といった失言がスキャンダル化し退陣。
第87 88 89代 小泉純一郎
自民党総裁任期満了に伴い、余力を残したまま退任。後任に安倍晋三を指名。
第90代 安倍晋三 (第一次)
改造内閣組閣直後の、閣僚の不祥事などで党内の求心力を失い、最終的には「潰瘍性大腸炎」という自身の健康問題を理由に辞意を表明。
第91代 福田康夫
民主党との大合流は頓挫。自身の問責決議も可決。
記者会見の席上、「国民生活の為に、新しい布陣で政策実現を期してもらいたい」と述べ「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明。
第92代 麻生太郎
問題発言を連発し、自民党及び野党による「麻生おろし」の中で行われた解散総選挙で記録的大敗。責任をとって退陣。
第93代 鳩山由紀夫
普天間基地移設問題や、政治資金問題が表面化したこともあり、支持率が低下。民主党両院議員総会で 「国民が聞く耳を持たなくなった」と述べ、民主党代表および内閣総理大臣からの職を退くと表明。
第94代 菅直人
震災対応の不十分を指摘され提出された内閣不信任案はなんとか否決。本人は「再生エネルギー法案」の成立に意欲を見せたが、「菅おろし」が進行する政局の空気を察し、関連3法案の成立をもって、辞任を表明。
第95代 野田佳彦
公約違反であるにも関わらず「消費税増税に命をかける」などと発言し、消費税増税法案の成立を推進。公約遵守を主張する小沢一郎らが集団離党することになり、民主党は分裂状態。衆議院解散に打って出るも惨敗を喫し、自民党政権復活を許す。
第96 97 98代 安倍晋三 (第二次)
憲政史上最長の首相在職日数を記録するも、数々の政治スキャンダルを連発。最終的には、第一次政権の時と同様、健康問題を理由に退任を発表。
第99代 菅義偉
自分の息子の関わった総務省接待疑惑などで支持率急落。挽回のため、コロナ・パンデミックの中、オリンピックを強行し・・・
さて、どうします?
内閣総理大臣様。
2021年3月11日には、東日本大震災からちょうど10年ということもあって、新聞各紙の一面トップは、見事にこの記事で統一されていました。
テレビやラジオなどのメディアも、この話題に触れないところは、ほぼなかったのではないでしょうか。
僕は、もっぱらネットでの関連動画の音声を聴きながら、畑作業しておりましたが、これをブログに載せるのは、あえて2日遅らせることにしました。
総務省接待問題、オリンピック問題などなど、ニュースになる話題はいくらでもあるので、2日も経って、お約束の儀式を終えれば、また来年のこの日が来るまでは、この記憶は忘却の彼方。
10年たった今となっては、終戦記念日、広島・長崎の日同様、東日本大震災も、定番のカレンダー・ニュースになりつつあります。
あの震災の起きた当時は、日本に住んでいる誰もが、それなりの危機感を共有したはずでした。
そして、その記憶も、残念ながら、時が経つにつれて次第に風化していくわけです。
しかし、よくよく考えてみれば、東日本大震災が、日本という国に突きつけた課題は、実は何一つ解決していません。
東日本大震災は、例えこの日ではなくても、日本人であれば誰もがもいつでも頭の片隅には、置いておかなければいけない出来事ではないか。
そんな思いを込めて、一斉に関連記事が出揃う、震災当日は避けて、たった2日ではありますが、「普通の日」にあえて日付をズラしてみたという次第。
震災の爪痕は、何年かかけて、この眼で確かめてきました。
その光景は、もちろん今でもはっきりと脳裏に焼き付いています。
定年退職後は、百姓になって田舎で暮らすという人生設計が出来上がっていったのも、この震災の光景を見たことの影響は少なくないと思っています。
あの規模の震災が首都直下型で起こる確率は、向こう30年以内で、70%だと言われています。
個人的には、84歳までは生きていようと思っていますで、生きているうちに、この大震災の被害を被る確率は、非常に高いという結論です。
長生きしようと思うなら、これは、覚悟しておかなければならない。
これをベースにして、余生の人生設計をやり直した結果が、今の百姓家業ということになります。
数年でこの技術をしっかりと獲得した上で、関東から離れたどこかの田舎で、食べるものだけならなんとか自分で賄える生活をしたいと思っています。
「忘却とは忘れ去ることなり」というのは、1950年代に流行したラジオ・ドラマ「君の名は」の冒頭ナレーション(最近のアニメではなく)です。
忘却とはつまり、極度に辛い体験や記憶の呪縛から人を解き放とうという、いわば人間だけにある自己防衛能力です。
都合の悪いことは「忘れる」なんていうことは、コンピューターには逆立ちしても出来ません。
これは生きていく上で必要な、人間だけに出来る高等技術です。
しかし、これを重々承知の上、確信犯的老獪さで、政治運営に悪用してくるのが、これまでの政権政党の常套手段だということは、この年齢になりますと、さすがに学習させてもらいました。
「国民は移り気で、忘れっぽい。みんな喉元過ぎれば熱さは忘れてくれる。」
歴代の政権は皆多かれ少なかれ、これを利用してきました。
しかし、東日本大震災以降の安倍政権、現在の菅政権におけるこの「忘却依存度」の確信犯的利用頻度の高さは半端ではありません。
「懲りないあっちが悪いのか、すぐに忘れるこっちが悪いのか。」
彼らは、言ってみれば、我々が悲劇的に「忘れっぽい」ということに支えられて、延命してきた政権だと言えるかもしれません。
モリカケ問題、公文書偽造問題、桜を見る会問題、学術会議問題、総務省接待問題などなど。
どれひとつとっても、きちんと詰めれば、政権をひっくり返すのに充分な問題であるにもかかわらず、敵が次から次へと間断なくやらかしてくれるので、「移り気」な人々の関心は、どんどんと新しい話題に流され、どれだけ重要な問題でも、気がつけばすべての過去の問題はいつか忘却の中。
つい2〜3年前の問題でさえ、もう遠い昔のことような気にさせられて、結局何一つ問題は解明されていないまま、気がつけば問題はとっくに終わってしまっているような錯覚に陥っています。
ましてや、10年前のことなら、何をかいわんやです。
東日本大震災のことは忘れてはいけないといくら言われても、人々はこの直近の新型コロナという災害とも対峙しなければならず、なかなかそうはいきません。
こうも問題続出の世の中では、論点が常にしぼれないままで有耶無耶になるということは、体制側には偉く都合が良いことなのかもしれません。
大震災ということであれば、責任の所在を誰かに求めるのは無理かもしれませんが、続く、福島第一原発の事故は明らかに人災で、これには明確に責任を取るべき人たちが必ずいるはずです。
そんな彼らにとって一番都合がいいのは、あの大震災と大事故の記憶が、我々の記憶からなくなってくれること。
もちろん、彼らは、対策も補償も最低限で行い、適当にお茶を濁しながら、ことをやり過ごそうとしますが、黙って指を咥えているような神妙な連中ではありません。
少しでも早く、その記憶が風化するように、積極的に、巧妙に、どんどんと仕掛けてきます。
その手段は二つ。天下の宝刀は「嘘」と「隠蔽」です。
我々を変に刺激しないように、都合の悪い真実は、すべて手を加えるか、あるいは公表しないという奥の手を使い続けます。
そして、ほとんどすべてのマスコミ(週刊文春は除く)は、このためのツールと化しているというのが嘆かわしい事実。
例えば、オリンピック招致の際に、安倍晋三全総理大臣が、全世界に向けて発信した、福島原発のアンダー・コントロール発言も、「復興五輪」発言も、今となっては、なんの根拠もない大嘘であったことは誰もが知っています。
オリンピックを意識して発信される、「福島は確実に復興している」という政府の恣意的なプロガンダも、都合のいい現実だけを切り取ったもので、被災者の現実を反映しているものとは到底思えないということを伝えるジャーナリストが多くいます。
東京新聞の榊原崇仁記者の書いた「福島が沈黙する日」には、子供たちの甲状腺癌のデータを公表しようとしない福島県の隠蔽体質が報告されています。
また、元東電の技術者だった木村敏雄氏の書いた「原発亡国論」には、福島原発の壊滅的打撃は、大津波ではなく、震災の段階ですでに致命的な形で現れていたということが報告されています。
大津波は想定外の災害だったということで多くの責任から逃げていた東京電力ですが、震災の段階で壊滅的ダメージがあったということになれば、全国の原発が、安全規定を満たしていないということになり稼働停止。
こうなることは避けたいので、東京電力はこれを徹底的に、隠蔽したわけです。
この本には、こういう指摘もあります。
原発事故の10年前、非常用のディーゼル発電機が腐食した配管からの冷却用海水の漏出により水没した事故があり、発電機が機能不能になったことを受けて行われた「津波による事故の解析をすべき」という会社への進言は、「津波は想定しない」という理由のもとにサッサと却下されたとのこと。
東電で言えば思い出すのは、新潟県の柏崎刈羽原発で、中央制御室に他人のIDカードで不正に出入りした事実を隠蔽していた事実が明らかになったのは記憶に新しいところ。
とにかく、国も県も会社も、東日本大震災で責任を追うべき当事者は、すべてなんの反省もなく、最低限の「やってる感」だけを小出しにしていきながら、嘘と隠蔽という必殺技を駆使して、国民の意識から、この記憶が薄れていくのを、巧妙に遠隔リモートコントロールしているという現実だけは、「記憶」ではなく、もはや「一般常識」として知っておく必要がありそうです。
そして、一般常識ということならもう一つ。
新聞報道も、テレビ報道も、その利権の構造上、今や首根っこをしっかり政府に握られており、何があっても腰の引けた忖度報道しか出来ないという事実を知ること。
真実に近づきたければ、玉石金剛のネット情報の中に、それなりの意思を持って、アクセスしなければいけないようです。
東日本大震災への思いは、その濃度も含め、人それぞれだと思います。
ただ被災地には、あれから10年経った今でも、未だ見つからない家族を探すために、海岸線を歩く遺族の姿があるということです。
2011年3月11日午後2時46分。
今でもその瞬間自分がどこで何をしていたのかは、はっきりと記憶していますが、そこで時間が止まったままの人も、被災地には、いまだに多くいらっしゃいます。
2021年居酒屋事情
ここ数年、中学時代の同級生たちと、定期的に「飲み会」(僕が飲むのは烏龍茶ですが)をしていたのですが、ちょうど去年丸々1年間は、世の中の事情を鑑みて自粛していました。
それが先週突然の電話。
「いつまで自粛していもキリがなさそうだから、そろそろ集まろう。」
この「飲み会」は、とりあえず野菜だけは豊富に提供できる我が家などでも開催していたのですが、今回はその電話の主が通っている居酒屋がピンチなので、応援してあげたいという申し出で、川越在住の僕は東大宮まで出かけて参りました。
ガースーと自称される現総理に、自粛要請されているのは5人以上の集い。
今回の総勢は4人ですので、これはギリギリセーフ。
正月以来、やや太り気味になっていましたので、チャリンコ漕いでおよそ1時間。
寒風吹き荒ぶ上江橋を渡って、久しぶりのメンツに会いに行ってきました。
ご存知のように、自分たちの都合しか考えないお偉方による、アリバイ作りのような緊急事態宣言が再び発令されていますので、土曜日というのに東大宮駅前も人影はまばら。
現在は、ご承知のように、飲食店は時短営業を余儀なくされている状況です。
今回お邪魔した居酒屋も、通常営業は、夕方5時から深夜11時まで。
しかし、発令後は午後4時から8時までになっています。
幹事も、仲間を呼ぶ以上は新型コロナには配慮してくれたようで、お店に交渉の上、営業時間を1時間早めてもらって3時の集合。
僕は少々遅れてしまいましたが、当然ながら店内は貸切状態です。
6人がけの大テーブルを4人で使わせてもらい、可能な限りのソーシャル・デスタンス。
鍋に火が入った後は、いつものように、中学時代のよもやま裏話でヒートアップ。
いつもと違い、今回はお互いの距離が離れているので、気がつけば店内に響き渡る大声になっています。
しかし、僕も含め4人は、「飲み会」の間中きちんとマスクを着用していましたよ。
菅総理のお守りのようにいつも隣に立っている尾美感染症対策分科会長のご言いつけ通りに、マスクを外すのは、飲食を行うときに下を向きながら。
国民下々のものには、そのように要請しておきながら、高齢の著名人と現総理までを高級焼肉店に集めてノーマスクで会食している二階幹事長には、皮肉の二つ三つも呟きながら、それでも楽しい時間を過ごさせてもらいました。
去年の記憶を辿れば、最後にお金を払って飲食をしたのは、春先に川越の「Jammin’」で、ビートルズ・セッションをして以来。
「業務スーパー」「カインズ・ホーム」での買い物、元勤めていた会社の本社に呼ばれて時々顔を出す以外は、ほぼ自宅と畑の往復の毎日。
独り身ですので家庭内感染の心配はなく、畑で顔を合わせるのは、隣の畑のお母さん(73歳)やオジイチャン(86歳)くらいのもの。
それも、青空の下で、遠く離れている相手に、大声で挨拶して、手を振る毎日です。
集まった4人の中では、一番コロナの感染リスクが少ないのは、やはり僕でしたね。
それぞれのコロナ対策事情は、色々と聞きましたが、自宅にこもって外に出ないのが最良の方策とは分かっていても、そうはいかない事情は誰もが同じ。
去年一年を振り返っても、有効と思われる対策は、何一つ取れない呆れ果てた我が国の政府。
そして、トンチンカンな対策を取っては、国民を振り回すだけ振り回して、撤回も弁解も謝罪もない政府。
一年が過ぎても、まるで出口が見えない今回の新型コロナ・パンデミック。
自助・共助が先で、公序は最後と公言して憚らない菅政府ですが、そんなことを言われる以前に、元々公序は当てにも助けにもならないという国民の不幸。
今や、どこを歩いても、マスクをしていない人を見つける方が難しいくらいに、日本国民のマスク装着は徹底しています。
この国民の自衛意識と社会モラルの高さは、確かに世界でもトップクラスでしょう。
麻生太郎氏にドヤ顔で「国民の民度が違う」などと言われると、「アンタに言われる筋合いはない」とイラっとしてしまいますが、悲しいかな、この国民の自衛意識に比べ、政府の無能さは、明らかに先進国最低レベル。
これではどうしようもありません。
8年間に及ぶ安倍政権は、やはり長すぎました。
この間、内閣での官僚人事権掌握による能力を無視したイエスマン集めが徹底的に行われたため、適切な判断ができる優秀な人材が根こそぎいなくなってしまったこと。
これが、前政府の最大の罪だろうと個人的には思っています。
これは、今後誰が政権を引き継いでも、ボディブローのように聞いて来る筈です。
新型コロナの完全制圧も、日本の復活も、まだまだ当分は希望の光は見えない絶望的な状況。
酒でも飲まなければやってられんわと思っても、酒場は8時まで。
僕のように、野菜作りを生業とするオタクですと、幸いかなこの状況でも、そうストレスはなく暮らしていけます。
しかし、世の中には、人とのコミュニケーションがなくては、仕事も趣味も人生も成り立たないという人が大勢いることは間違いのないところ。
今回お邪魔した居酒屋も、閉店時間までに、僕たち以外に、およそ数人の常連が来店。
彼らにとっては、この酒場はなくてはならない日常の一部なんですね。
しかし、この状況では、気がついたら、そんな憩いの場にも、突然閉店を告げる貼り紙が、なんてことがいつ起こっても不思議ではありません。
これは、現実に今や全国のどの町でも当たり前に起こっていることです。
いまだに、持続化給付金も、定額給付金も出し渋る我が国の政府。
こういう時のために払っているはずの税金を当てにできない国民のストレスは、膨れるだけ膨れて最後はどうなるのか。
そんな中、還暦を過ぎても、気がつけば未だ中学生時代のままで進歩のない白髪オヤジたちの、「言いたいことを言いたいだけ言う」トークセッションは、閉店時間近くになっても一向に収まる気配なし。
今回は、これまでの「飲み会」より、大きな声を出さなければならない距離があったため、いつもよりもヒートアップ気味でしたが、やはり1年間のストレスが溜まっていたことは明白。
お客さんが何人か来ると、最後は気を利かせて、我々も大テーブルから、隅のテーブルに移動。
しかし、それでもいつもながらのヨタ話は尽きる気配なし。
やれ、誰それのブルマーはどうだったとか。
やれ、誰それは誰それが好きだったとか。
やれ、誰それは、いつからブラジャーをつけ始めたとか。
残念ながら、ポンコツ親父たちの話題は、政治社会問題には向かわず、あいも変わらずそんな中学時代のどうでもいいことばかりに終始するのですが、これが不思議と尽きることがない。
中学時代から、全員が還暦を超えている現在の間には、4人全員に45年以上の年月があるわけなのですが、ここがいつもすっぽり抜け落ちるのが、毎度のことながら不思議でなりません。
そして、4人が共有しているあの時代のことは、これがどんな些細なくだらないことでも、みんなクリアに覚えているのがまた不思議。
おそらく、10年前の記憶よりも、はるかに鮮明なんですね。
これは、昔のことの方が鮮明に思い出せるという脳の老化か、それとも、実際誰にとってもあの時代の記憶が人生の中で最も輝いていたのか。
それは微妙なところです。
とにかく、自然相手の百姓としては、これだけナマの人を相手に喋ったのは久しぶり。
全員がマスクをしていなかったら、どれだけ飛沫が飛んでいたかと考えると、ゾッとします。
政府は1ヶ月と言っていた今回の緊急事態宣言。
自分たちのことは棚に上げて、今回は罰則付きなどとふざけたことを言っている政府ですが、街を見渡す限り、どの店主も、言いたいことはグッと堪えつつ、言うことは聞いているようです。
酒を飲めない百姓では、救いたくても救いようがありませんが、この後に及んでオリンピック開催などという寝言は一日も早く取り消して、中止を決め、そこから浮いてくる経費を、今コロナで青息吐息の町の経営者たちに一刻も早く回して欲しいものです。
大多数の国民にとっては、今やオリンピックよりも、町のレストランや居酒屋の存続の方が大切な問題ですから。
「是々非々」
これは中国の思想家、荀子の言葉。
これを辞書で引くとこうなります。
「是を是とし、非を非とする事を智とし、是を非、非を是とする事を愚と言う。立場にとらわれず良い事は良い、悪い事は悪い言う姿勢」
そうなんです。
人を批判するときは、何事もこれでなくてはいけない。
反省反省。
「国難を呼ぶ男!安倍晋三」
これが、この本のサブタイトルです。
僕も、たいした知見があるわけでもないのに、どうにもこの安倍晋三という人は訝しいという印象が強くありました。
でも、それはあくまで僕の印象。
冷静に考えれば、たいした根拠があるわけでもなかったわけです。
安倍総理のなにがどうして、どうよくないという具体的情報が完全に欠如していました。
時の総理は、褒め称えるよりも、批判をしている方が、どこか政治通を装えます。
これに溺れてましたね。
不勉強のくせに、世の中の空気だけで、調子に乗って、いろいろな書き込みで、安倍批判をしていました。
よくよく考えれば、ろくに政治ニュースも読まない自分が「安倍さんは問題ある。」はないもんです。
安保関連法案の件や、モリカケ問題、憲法9条改正の件。
掛け声だけのアベノミックス。
わかっているようで、骨子の部分は何もわかっていませんでした。
マスコミを巧みに操る彼の手口も気に入らなかった。
そんなこんなを、上っ面の世間の風だけで批判していたことは、やはり素直に認め、謝っておきましょう。
仮にも、これだけの長期政権を維持してきた彼がやってきたことが、すべて悪政だったということもないはず。
ちょっと浮かびませんが、なにか良いこともやっているはずですよね。
安倍さん、申し訳ない。
やはりここは、是々非々。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではいけません。
いいものはいい。悪いものは悪い。
そうです。そうです。
こきおろす快感に流されず、感情でものをいわない。
批判をするものの姿勢は常にこれでなくてはいけません。
さて、本書です。
分厚い本でしたが、これはしっかり読ませていただきました。
なるほどなるほど。
やはり、そういうことでしたか。
現役ジャーナリストと、元経産省の官僚の、するどいつっこみと分析。
きちんと学習させていただきました。
それではきちんと是々非々。
感情は排して、改めて申し上げます。
「安倍政権」とかけて、「ゴムホース」と解く、そのココロは?
「長い割には、中身が空っぽ」
おそまつ。