2015年にオンエアされた作品。
清野とおる氏による漫画が原作。
いや、正確に言うと原作ではないな。
この漫画を見て、いたく感動した俳優・山田孝之が、実際に「北区赤羽」に住んで、そこで、漫画で紹介されたコテコテの赤羽住人たちと会ってゆくという一風かわったドラマ。
いや、正確に言うとドラマではないな。
監督は、山下敦弘。この人の映画の主演の山田孝之が、映画のラストシーンを演じられずに映画はお蔵入り。
俳優としての自分を見つめなおす場として、赤羽に移住する山田。
それに同行してカメラを回し、時々顔も出して、「監督」として、山田に日常にかかわってゆくという一風変わったドキュメンタリー。
いや、正確に言うと、ドキュメンタリーでもないな。
調べたら、山田がお蔵入りさせた山下監督の映画は、存在せず。
この物語のために、問題のラストシーンだけが撮影されたフェイク。
というわけで、どうにもつかみどころのない、不思議な味わいのテレビ作品。
ドキュメンタリーとドラマの融合ということでは、モキュメンタリーというジャンルがあります。
架空の人物や、架空の事件を設定して、ドキュメンタリーの手法で構成してゆく表現方法がモキュメンタリー。
1960年代に盛り上がった、いわゆるモンド映画といわれる作品群がそれ。
「世界残酷物語」「世界女族物語」「さらばアフリカ」
70年代には、映画の中で、実際に殺人が行われたなんていう、あり得ない設定の恐怖映画「スナッフ」なんてのもありました。
同系列作品で、僕が忘れられないのが、今村昌平監督の「人間蒸発」。
ドキュメンタリーと演出の「壁」に切り込んだ社会派の映画でした。
これが1967年の映画。
もっとずっとさかのぼると、かのオーソン・ウェルズによる「宇宙戦争」。
火星人の襲来を、ニュースの実況中継というドキュメンタリー風手法で放送し、全米をパニックに陥れたという伝説のラジオ・ドラマ。
いずれにせよ、どの作品も、この分野の作品は、アイデアと斬新さが肝。
完全なドキュメンタリーでは、ドラマ的起承転結が得られない。
かといって、完全なドラマでは、予定調和に流れすぎ。
モキュメンタリーは、その双方の欠点を補って、再構築するという表現手法。
つまり、ドラマでもなければ、ドキュメンタリーでもない。
このドラマに関しては、その中間といっても、けして正確ではない。
なので、この作品を批評するのに「なんだよ。やらせかよ」だなんだと、突っ込むのは野暮というもの。
いわゆるドラマ的手法のドラマに慣れ親しんでしまって、どこかそのドラマ・セオリーにマンネリ化している視聴者には、このドラマの手法はやはり斬新。
山田孝之という、ビッグネームを使っているにしても、この手法で撮れば予算はかからないでしょう。
つまりは、「面白い」ものは結局、企画とアイデアありき。
「つくりもの」とわかっていても、それを承知で楽しむ感性がこちらにあるかどうかです。
だって、そもそもドラマというものは、「ウソ」を楽しむエンターテイメントですから。