野菜を作っている青梅の畑から、車で15分のところに野口種苗店があります。
「固定種の種だけを売っている」ということは知っていましたので、畑でまくタネは、ここで買ったものを使用しています。
今はありませんが、最初に行った頃には、店先に掲げてあった「火の鳥」の看板が少々異様に写りました。
はて、タネと手塚治虫の関係は?
それは本書の第一章を読むと明らかになります。
僕も、雑誌「COM」に連載されていた「火の鳥」は、本屋の息子として、愛読していましたので、著者と虫プロの関係は面白く読ませていただきました。
さて、タネのお話。
もともと、野菜というものは、人間による品種改良の歴史の産物でした。
バイオテクノロジーなどなかった時代の品種改良の基本は、よく出来た個体の選別による純化。
いろいろな食物を食べてみて、食べられそうなものを選んでいき、そのタネを採取しては、タネをまき、その中からさらに美味しい個体のタネをとって育て、それを繰り返して次第に固定種にしていく。
そして、そのタネが、人の移動と共に、世界中を旅していき、その土地の風土や環境に順応した、新しい野菜に変化していったわけです。
その意味では、野菜は、人間が人間のために、手を加え続けてきた歴史の上に存在する食べ物。
言ってみれば、その成り立ちそのものが、ある意味では「人工の植物」ということになります。
人間にまだ知恵のない頃は、自然環境依存の栽培方法でした。
しかし、20世紀になってからの人口の爆発的な増加により、自然栽培の野菜だけでは食料として、人間を賄いきれなくなってきました。
そこに登場したのが、チッ素肥料。
開発したのは、これによりノーベル賞も受賞したフリッツ・ハーバー。
(この人は、後にナチス党に入党しても毒ガス兵器も開発してしまいますが)
この肥料の登場により、野菜の生産性は驚くほど向上し、人類は飢餓から救われます。
しかし、この辺りから、農業には科学の手が伸び始め、都市化の拡大により、経済の論理も介入。
次第に、素朴な「美味しい野菜づくり」の基本は歪められていくことになります。
農業が、個人農家の手を離れ、巨大な産業になり、大手企業の手に委ねられるようになるにつれ、野菜に求められるようになったのは、揃いの良さと見栄え。
物流の都合にサイズが合わせられ、農地効率にも適したものが「良い品種改良」ということになってきました。
そして、このために、大手を振るうようになったのがバイオ・テクノロジー。
人間の知恵が育ててきた野菜の歴史を考えると、どこまでが許される範囲かを考えるのは悩ましいところですが、遺伝子組み換えやら、雄性不稔に放射能を使用する技術があるなどと知ってしまうと、さすがに眉間にシワが寄ってしまいます。
農薬や除草剤、それに化学肥料などもそう。
農業で食べていくための方法として、これを否定する気持ちはサラサラありません。
こういった技術があるからこそ、我々は季節に関係なく、ありとあらゆる野菜を毎日買うという恩恵を受けられるわけです。
ただ、こういった人間の技術が自然のサイクルに介入することによって、いつかその生態系に影響し、大きなリスクに育っている危険性だけは覚悟しておく必要があるように思います。
本書には、世界的なミツバチの減少への危惧と、筆者によるその仮説が書かれていました。
しかし、その原因は解明されていません。
アインシュタイン博士がこう言っているそうです。
「もしハチが地球上からいなくなると、人間は四年以上生きられない。ハチがいなくなると、受粉ができなくなり、そして植物がいなくなり、そして人間がいなくなる。」
これをアハハと笑うか、ああ恐ろしいと考えるか。
人間社会のすったもんだは、野菜には関係ありません。
彼らは、自然のサイクルの中で、必死になって、自分たちの種の残そうとしているだけ。
そして、人間もそのサイクルの中で、野菜を食べることにより、それを排泄して、それをまた肥料にするという行為を繰り返して、その子孫を残そうとしています。
人間もその自然のサイクルの一員であると考えれば、ある程度はそこに介入することは許されるでしょう。
但し、もはや人間は、その自然サイクルの外側にいて、そのサイクルを支配している立場なのだと驕ってしまうと、いつか自然からしっぺ返しを喰らう気がします。
人間の欲にはキリがありません。
そこに利益が発生して、それによって潤う人が発生し、その人が権利を握ってしまうと、残念ながらもう自己抑制は働かなくなります。
かくして、野菜のタネの運命は如何に。
ここまで書いてくると、原発問題とも、この構図はそっくりだと気がつきます。
そこに、既得権益が出現してしまうと、それがたとえどんなに大きなリスクを伴おうとも、もはや後戻りはできない。
同じですね。
おっと、百姓がそこまで考える必要はないな。
失礼しました。
ただ、一つだけ僕にも明快に理解できることがあります。
それは、全ての人が、固定種の種を使って、自分で食べる野菜は、自分で作るようになれば、今ある農業問題は、ほぼ解決するということ。
野菜作りに、経済の理屈を持ち込むから、話はややこしくなります。
美味しくて、旬の健康的な野菜が食べられればそれでいい。
自分で野菜を育てて、タネをとって、また育てる。
これを繰り返していれば、野菜はその土地に順応して、自然とおいしくなっていく理屈です。
大きさはバラバラで、どいつもこいつも個性的ですが、旬にとれる野菜は、どんなにブスでも、間違いなく美味しい。
どうやら、これだけは間違いなし。
今シーズンも、「野口のタネ」を使ってはいますが、まだ恥ずかしながら採種をしたことはありません。
その管理となると結構繊細な仕事のようなので、うまくできるかどうか。
今のところ、それが「悩みのタネ」です。