映画「婦系図」1934年松竹
泉鏡花の世界から離れがたく、それでは代表作の「婦系図」でも読もうかと思ったのですが、さすがに長編小説はしんどいなと挫けて、映画に逃げることにしました。
さてこのタイトル、「ふけいず」と打ち込みましたが漢字変換できず。
「おんなけいず」と打ち込めば、ちゃんとこの漢字に変換されるのでまず感心しました。
泉鏡花一流の「当て字」が、ちゃんと日本語として認識されているわけです。
鈴木清順監督の「陽炎座」が、泉鏡花作品であることは知っていましたので、このタイミングで見ておこうと思ったのですが、我がDVD在庫にあるとばかり思っていたこの傑作は残念ながらなく、「外科室」「草迷宮」「滝の白糸」「歌行燈」など他の作品をあたってみても在庫にはなし。
Amazon プライムにも、鏡花作品は見当たらず、諦めかけたら、なんとYouTubeで、1934年製作の「婦系図」が2時間18分のフルサイズでアップされていました。
これまでに、5度映画化されている「婦系図」の最初の一本です。
ビデオ・テープに保存してあったものらしく、特有のテープノイズと歪みがやや気になりましたが、兎にも角にも、よくぞアップロードしてくれました。
本作はお馴染み「お蔦主税」の大メロドラマで、主演のコンビは、田中絹代と岡譲二。
元芸者のお蔦は、自分を身請けしてくれた文学青年主税の日陰の内妾になり、世間からは身を隠す暮らしではあっても、それなりに、幸せに同棲生活を送っていました。
一方主税には、自分を拾い育ててくれた大恩人である独文学者の酒井俊蔵という師匠がいます。
ところが、ふとしたことで、この師匠にお蔦との同棲の件が知れてしまいます。
これに激怒した酒井師匠は、「そんな不道徳なことは許さん。お蔦と別れろ!」と主税に迫ります。
「女を取るか。師匠を取るか!」
今の感覚で申せば、この酒井師匠の申すことも無粋だろうと思いますが、これは泉鏡花の生い立ちを追ってみると合点がいきました。
泉鏡花には、実は、尾崎紅葉という大恩人でもある師匠がいたのですね。
尾崎紅葉と言えば、あの貫一お宮のメロドラマ「金色夜叉」を描いた明治時代の文豪です。
泉鏡花が、終生この大恩人を、神のように崇め奉っていたことはよく知られています。
そして、泉鏡花の夫人である「すず」は、実は、元神楽坂で桃太郎という名で芸者をしていた過去がある女性。
鏡花は、この桃太郎を身請けして、所帯を持とうと思っていたところ、この師匠に咎められて断念したという、この小説の主人公とほぼ同じ実体験があったんですね。
つまり、この小説のヒロインお蔦のモデルは、鏡花自身の妻すずその人だったというわけです。
絶対に逆らえない師匠から、「女と別れろ」と言われた主税は、何も知らないお蔦を、湯島天神の境内に連れ出して、泣く泣く別れ話を切り出します。
これが、有名な「湯島の白梅」のくだりです。歌謡曲にもなっていますね。
「月は晴れても、心は闇だ。」という有名なセリフで始まる、二人の別れのシーン。
実は、この場面は、原作小説「婦系図」の中にはありません。
これは、後に新派の舞台演目となった「婦系図」の中、の舞台演出として取り入れられたシーン。
これが大ウケしたので、後に泉鏡花自身が、一幕モノの戯曲として「湯島の境内」を新たに執筆したという経緯があります。
そして、これをベースにして、後に鶴田浩二・山本富士子の共演で「湯島の白梅」が撮られました。
「青空文庫」にあった戯曲「湯島の境内」も読んでみましたが、本作「婦系図」の中でも、このシーンは、ほぼそのまま使われていました。
あの有名なキラーコンテンツも、この戯曲の中に登場します。
「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ。私にゃ、死ねとおっしゃって下さい。」
映画も、舞台も、原作もこれまでノータッチなのに、このセリフだけは、聞いたことがありました。
そんな経緯がありますので、本作は、原作「婦系図」と戯曲「湯島の境内」が合体した内容。ストーリーもかなり映画用にアレンジされています。
原作でのお蔦は、別れのシーンの後は、二度と主税と会うこともなく、最後は病気を患って死んでしまいます。
そして後半は、そんな身分社会に対する主税の復讐劇になっていくという展開。
しかし、映画では、主税への想いを胸に抱いたまま健気に一人で生きていくお蔦は、やがて病に倒れ、瀕死の床の中、駆けつけた主税が、最後はヒシと彼女を抱きしめて、師匠が首を垂れるという「金色夜叉」にも負けない、大メロドラマになっていました。
そうした方が、映画館にお客を呼べると考えた松竹の判断は、無理からぬところと言えそうです。
さて、田中絹代です。
「婦系図」は、本作の後も、たびたび映画化されています。
お蔦を演じて来たのは、山田五十鈴、山本富士子、高倉みゆき、万里昌代といったそうそうたる美人女優たち。
山本富士子といえば、第一回のミス日本に選ばれた方です。
その中にあって、僕の感覚では、申し訳ないが、田中絹代は「美人女優」のカテゴリーには、入りません。
なんと言っても、彼女の作品で一番最初に見たのが溝口健二監督の「西鶴一代女」であったこと。これは決定的でした。
老醜を晒すことを厭わない、田中絹代の鬼気迫る演技には、ゾクっとさせられましたね。
そして、その次に見たのが、1973年製作の「サンダカン八番娼館 望郷」でした。
この作品で彼女は、太平洋戦争後、ボルネオから戻り、貧しい暮らしをしていた元「からゆき」の老婆を演じて、主演の栗原小巻を食うほどの存在感を見せてくれました。
この二本の映画で、個人的には、田中絹代といえば、超絶演技力の「隣のおばさん」というイメージが出来上がってしまいました。
ですから、その後に見た、彼女の代表作「愛染かつら」など、娘時代の一連の作品を見ても、やはり彼女を「美人女優」というカテゴリーに入れるには、少々違和感がありましたね。
まあ、それは個人的見解で、平安時代の絵巻物に出てくる女性たちが、どれも下ぶくれのおちょぼ口で、とても美人には見えなかったように、映画黎明期のファンたちには、田中絹代テイストが、一般的な美人だったのだろうと思っていました。
しかし、そんな彼女が、銀杏返しにほつれた鬢を傾け、半纏の裾を掻い取り、膝に挟んだ褄を内端に、障子越しから肩を乗り出すと、これが実にしっくり来るわけです。
山本富士子ぐらいの美人になってくると、どんな衣装を着ても、「美人」が優ってしまって、「ああ、これは映画なんだ」という思いにさせられてしまいますが、田中絹代のお蔦は、しっかりと映画に馴染んでいるという印象です。
そして、映画に感情移入していくうちに、だんだんと、ああやっぱりこの人は美人なんだという気にさせられてしまうわけです。
贔屓の女優に、高峰秀子がいますが、彼女の場合は、美人であるにも関わらず、不美人(ブスという言葉は避けたい気分)を演じても、納得させてしまう不思議な魅力があります。
田中絹代の場合は、その逆で、決して美人ではないのに、美人を演じても、次第に違和感がなくなるというイメージ。
スター女優として生き抜いていくには、「美しさ」と「演技力」のハイブリッドが必要ですが、彼女の場合は、このバランスが上手にとれていたということでしょう。
いずれにしても、この人が日本映画界における屈指のスター女優であったことは間違いのない事実。
愛に生きた薄幸の女お蔦は、原作小説では、物語の途中で死んでしまう脇役でしたが、映画の方では、堂々の主役。
この健気で、儚い女は、普通の美人女優が、「映画的」に演じてしまうと嫌味になってしまうもの。
まさに、田中絹代の独壇場です。
おそらくこの人は、そういった自分の役どころのツボを、よく理解していた女優なんだと思います。
この人を見ていると、どうしても思い出すのが、明治生まれだったうちの祖母。
エプロンが似合う、チャキチャキの下町のオバサンでしたが、これは田中絹代にとっては不幸だったかもしれません。